2009年12月27日日曜日

写真で綴る、最近あったイベント







年末ということで最近いくつかのイベントに参加する機会があった。
以下、簡単に紹介したいと思う。

My Health, My Responsibility
一つ目はAPHIA IIの関係のイベント。英語にすると「My Health, My Responsibility」というテーマのイベントで、HIVや健康といった、テーマに沿った歌やダンスや演劇の競演をするというもの。ブシア県内のユースが参加できて、今回のイベントで各部門の優秀賞をもらった人は州レベルの同様なイベントに進むことができ、さらにその先に国レベルのイベントが待っている、というシステム。言葉の問題があり、内容がつかみかねるものも少なからずあるが、多彩なパフォーマンスで見ていて飽きなかった。私自身は写真係として写真を撮ることに専念するのだが、会場内にやたらと柱がある上、競演者と観客の間にスペースがなくてかなり写真が撮りにくい。
ちなみに会場のすぐ横でVCTをやっており、そちらも常に人が並んでいる状態だった。
ところで、こういうイベントに観客として来ている人は、どんな人たちなんだろうかと思う。もちろん、ターゲット層である、クリスマス休暇で暇しているユースも来ているだろう。ただ、本当に生活が困窮している人などはこういうイベントに足を運んだりするのだろうかなどと思う。
(写真1枚目、2枚目)

Commercial Sex Worker二つ目は、Commercial Sex Workerの自助グループの、結成10周年の記念イベント。ADEOにもお声がかかり、私も参加させてもらう。自己紹介のとき、グループメンバーは「私はセックスワーカーです」と自己紹介をし、他の人が明るくワーッと拍手する。謎な空気に一瞬戸惑う。
スピーチの他、ここでもグループメンバーやステークホルダーによる演劇がある。登場人物がCSWとお客さんだったりと、実践的な場面の劇で面白い。みんなで踊る時間もあり、私も踊るのだが、おばちゃんに「私を連れて帰ってくれるっ!?」と耳元でささやかれる。ところで、他のイベントでもそうなのだが、きわどい内容の演劇などをしている場に小さい子の姿もよく見かけるが、子供に悪い影響はないのだろうか。逆に早期からの教育がいいのだろうか。
(写真3枚目)

教会のイベント
三つ目はブシアの教会であったイベント。ADEOに案内のチラシが来ていたものの、ADEOとは特に関係のないものだったが、他のスタッフに誘われて顔を出すことに。何のテーマがあるわけでもなく、ただ単に歌やダンス、演劇の競演会というものだった。ミスター&ミス・ブシアのコンテストがあったりボディービルがあったりと、より軽い感じのイベントだったが、会場はカトリックの教会。トロフィーの授与をする係だから来ているという、私の横に座っている女の子は始終呆れ顔。ミス・ブシアに出ている女性陣のスタイルのよさ、ボディービルダーの筋肉っぷりは日本ではなかなかお目にかかることはできないだろう。
(写真4枚目、5枚目)

今週は他にも、ストリート・チルドレンのためのクリスマス・パーティーなどがあった。クリスマス休暇のためにユースが学校が休みだったので、今までと一変してイベント尽くしだった。
なお、どのイベントも予定よりも何時間か遅れでのスタートだった。さすがアフリカ。

ルワンダ3 子供たちの家

3日目、基本的にキガリの修道院でゆっくりしていたのだが、夕方前、修道院で運営しているジェノサイドの孤児の家にお邪魔しに行く。キガリに到着した日に参加した出版のセレモニーの主役、ジェノサイドの体験を手記にまとめた子供たちというのは、ここの子供たちである。セレモニーの時にはしっかりと挨拶をする時間がなかったので、今回が初めて彼らと一緒に過ごす時間となった。
彼ら子供たちが暮らしているのは、修道院から歩いて5分くらいのところだった。こちらもやはりレンガの塀に囲まれたレンガ造りの家で、修道院と同じくとてもきれいな造りの建物。ぎこちない感じで挨拶を交わしながら家へと案内される。なお、子供たちという呼び方をしているが、年齢としては16歳から25歳程度の幅があるのだが、子供と呼ぶには少し年齢が高すぎるかもしれない。ただ、ジェノサイドで親や親戚を亡くしたときはまだ小さな子供だったのだろう。現在ではみんな成長し、この家から働きに出ている人もいれば大学や高校に行っている人もいるという具合である(ただし私が訪問したときはクリスマス休暇が始まっていたので、学校はお休みであったが)。人数としては30人弱。昔はこの広さでも事足りたのかもしれないが、成長した彼らが暮らすには少し手狭なような気もする。結婚などによってこの家を出て行く子供たちも出てきているようで、また段々とスペースができてくるのかも知れないが。
さて、バナナで作ったお酒の話をするのだが、ケニアで飲んだことがないと言うと、わざわざ近くまで買いに行ってくれる。ケニアで一度口にしたような自家製のものを想像していたのだが、彼らが買ってきたくれたのは正規の販売ルートにのり販売されているもので、もちろんちゃんとしたビンにボトリングされているものだった。どぶろくの様に濁ったお酒で、彼らがストローを持ってきてくれたのでそれで飲む。とろっとしているものの、さわやかな口当たり。もっとバナナっぽい味かと思ったらそうではなく、知らずに飲んだらバナナが原料だとは分からないような味だった。アルコールに強くはない私だったが、とても飲みやすいと思っていたら、ボトルを見るとアルコールは15%と表示されている。飲みやすさの割に比較的高いアルコール度数に少しびっくりする。ちなみにこのバナナのお酒、彼らが買ってきたのは1本だったので、申し訳ないのだが私一人だけでいただく。

当初はここに泊まる予定ではなく修道院に泊まらせてもらう予定だったが、子供たちから泊まっていけばと誘いを受けたので、ありがたく彼らの言葉に甘えることにする。
私には想像もつかないような過去を経験してきた彼らではあるが、しかしそれでも私が見る限りでは全くの普通の若者。彼らの家にいる間、彼らの過去について話をされることもなかったし、私から特に聞くこともなかった。彼らとは本当に他愛のない話をする。例えば恋人を選ぶときの基準ベスト5とか。日本では聞かないようなことが出てきたりしてちょっと面白かったりする。ちなみにお気に入りの子からは、ボーイフレンドの基準の1つとして背が高いことを挙げられ、オサムあえなく撃沈。もちろんと言うべきなのかは分からないが、部族のことは基準として挙げられることはなかった。
修道院のシスターもそうなのだが、ここの子供たちもとても心遣い・気遣いのできる人たちのように思う。もちろんケニアの人たちもとても優しいのだが、何となく日本人的な心遣いとは違うように思うのだ。一方の、私の出会ったルワンダ人たちはみんな私にとてもよく心配りをしてくれる。彼らに何も還元できることができないのが本当に申し訳なくなる程によくしてくれたと思う。
唯一「おいっ」って思ったのは、翌朝、体を洗っているときくらいだろうか。こっちから頼まなくても「顔洗う? それとも体洗う?」とか「石鹸持ってる?」と聞いてきてくれ、ありがたく体を洗わせてもらう。男子用トイレの小屋がありその横の影で体を洗う。特に驚くことではないのだが、屋外かつ冷水。トイレへの通り道なので、私が体を洗っている間はみんなトイレに行けなくなってしまうなと思う。と思いきや、特に私のことを気に留めることなくトイレの小屋に用を足しに来るよう。私の格好というか裸姿を気にすることもなく、笑顔で「昨晩はよく眠れた?」などと聞いてきてくれる。こちらも笑顔で返事を返すのだが、「おいっ、そこは気を使おうよ」と内心思ってしまう。まあ、集団生活をしている彼らにとっては当たり前のことなのだろう。

しかしである、家族・親戚を殺された過去を持ちながら子供時代を過ごすというのは、どんなものなのだろうか。彼らの家に来て、ふと日本のことを思い出す。大学の1年目、ほんのわずかな期間だが、児童養護施設(親がいなかったり、親の養育能力が不十分だとされる子供たちが暮らす施設)で勉強を教えるボランティアをしたことがあるのだ。結局、部活やバイトに比して優先順位が低く、途中でやめてしまったのだが、短い期間ながらそこでの経験はとても印象深いものがあった。
ある子は、英語の宿題で家族のことを英語で説明しましょうという課題が出ていた。私はエグっと思うのだが、彼は落ち込む様子もなくノートに向かう。そして、その施設では一緒に暮らしてはいない彼のお兄ちゃんについて、一緒にサッカーをして遊ぶのが好きなのだと私に説明してくれるのだ。またある子は、私が医学生だと言うと、自分のお母さんは看護師なんだと嬉しそうに教えてくれたりもした。一緒に暮らすことのできない兄弟の話、彼らが施設で暮らすことになった理由の一部となっているはずの親の話について、私の予想を裏切り、彼らは顔を輝かせながら語ってくれるのだ。勝手ながらなんとも切ない気分にさせられたのを覚えている。離れていても血の繋がった親兄弟は子供にとって大きな存在なのだろうか。
一方のルワンダのその子供たちにとって、失った家族は彼らにとってどんな意味を持ち、振り返り思い出すことがあるとしたら、どのように振り返るのだろうか。
そこに泊まっている間、私の家族や兄弟のことを聞かれることはあったが、私には同じことを問い返すことはどうしてもできなかった。
後になって、知り合いのシスターから、彼らのうちの一人、私に一番よくしてくれた子の親の話を聞く。94年の際、自分をかくまってくれていた人がおり、その後、その人のことをとても親切な人だと思っていたのだという。しかし、ジェノサイドの裁判が開かれたとき、実は自分をかくまってくれていたまさにその人が、自分の親を殺していたということを知ったのだという。そんな話を、またさらに後になってシスターに語ってくれたという。

私と同じ年代の彼ら。
私にとても親切だった彼ら。
私には想像もつかないヒリヒリするような過去を抱えた彼ら。
敵意と赦し、猜疑心と優しさがごちゃ混ぜになったような過去を経験したこの国で、私を温かく迎えてくれた彼らと出会えたことが、ルワンダ訪問の中で一番心に残る出来事だった。

2009年12月20日日曜日

ルワンダ2 キガリ



話が前後してしまうが、今回は最初にウガンダ・ルワンダ間の国境であった検問の話から始めさせてもらいたいと思う。
その検問というのは、ルワンダに入国する人がビニール袋を持ち込んでいないかチェックするのもで、もしビニール袋を持っている場合はその場で係員に取り上げられるというものであった。私は事前に国境の通過手続きのことなどを調べており、ビニール袋は持ってこないようにしていた。しかしバスの乗客の少なからぬ人たちはそのことを知らなかったらしく、しぶしぶビニール袋から荷物を取り出していた。最初にこのビニール袋検問の話を聞いたときは悪い冗談かと思ったが、実際に国境でそのチェックがあったときはやはり驚いてしまった。

ここで問題。この国境でのビニール袋検問、何の目的があるのだろうか。
1、ビニール袋のチェックと称して、入国者の荷物をくまなく調べるため。
2、国の美化のため、すぐゴミになり、土に返らないビニール袋を国内に流通させないため。
3、国の観光の目玉であるゴリラが、誤ってビニール袋を食べて窒息するこのとないようにするため。
いかがだろうか。
話を聞くところによると、答えは環境美化のための2。ビニール袋は外国から持ち込むのを禁止しているだけでなく、街の店でも使うことが禁止されているという。ケニア資本の大きなスーパーマーケットがキガリにも最近できたらしく、2日目には私もそこに行ったのだが、そこでももちろん紙袋であった。また、他の店でお土産に買った写真立ても、ビニール袋に入れる代わりに新聞紙に包んでくれる。環境への負荷を考えると、スーパーでもらったきれいな紙袋とビニール袋、どっちがいいのか分からないが、少なくとも新聞紙だったら環境にはやさしいのではないだろうかなどと思う。ケニアなどでは果物をちょっと買っただけで小さなビニール袋に入れてくれ、そんなビニール袋が道端に無数に捨てられているのだ。しかしルワンダではビニール袋禁止のため、道端でゴミを見かけることはほとんどない。なのでルワンダの街はとてもきれいであった。また、ゴミの他にも建築物にも景観のためのいろいろな基準があるらしく、道端から視線を上げ丘から見渡す街の様子もまたとてもきれいであった。

さて、キガリでの2日目、上に述べたように最初は街を歩きお店を覗いたりしたのだが、その後にシスターとジェノサイドの記念館に行く。キガリの丘の斜面に位置し、手入れのされた庭のある、落ち着いた雰囲気の比較的小さな建物だった。展示内容としては、植民地時代から90年代前半までのルワンダの国の様子、つまりジェノサイドまでの国の道のりの説明、ジェノサイドの様子の写真、凶器となった農機具、犠牲者の頭骸骨、体験談を語ったインタビュー映像の上映、20世紀に起こった他の人道的危機の説明、亡くなった子供の写真やその説明などなど。
最低限の基礎知識はもともとあったし、極端にショッキングな展示物があったわけではないので、特別驚くこともなく展示を眺めていく。そして、太平洋戦争が始まったのは70年くらい前の明日くらいだったよな、などとかなり曖昧なことを考える。さらに、以前に行ったことのある、中国・南京にある虐殺博物館のことを思い出す(南京大虐殺は太平洋戦争開戦前のことだが)。日本軍による南京での虐殺とルワンダでのジェノサイド。どちらの方が悲惨だったとか悲劇的だったとなどと比較するのはナンセンスなことだろう。その悲劇を体験した人にとっては、例えようのないつらい事実に違いない。しかし、歴史的事実の捉えかたを比較したとき、我々はルワンダに学ぶべきものがあるのではないかと思ってしまう。
日本では虐殺の事実そのものをなかったかのように大手を振って主張する声があることに驚かされることがある(もちろん虐殺の規模や程度については議論の余地があるのは認めるが、虐殺の事実そのものを否定することはできないだろう)。また、鳩山政権の方針を知らないのであまりはっきりとしたことは言えないが、いまだに戦没者の扱いなどで関係諸国ともめる日本の政治指導者たちの言動にもあきれさせられる。あるいは、南京の博物館に行ったときに感じたのだが、一方的に日本を悪とし、中国共産党を善とする中国政府の主張にも納得しがたいものを感じる。また、中国国内では、卑劣で間抜けな日本軍と勇敢な中国軍を扱った映画が流れているのを何度も目にしたが、それも目にするたびにとても嫌な気分にさせられたのを思い出す。
一方のルワンダであるが、双方がより積極的に歩み寄ろうとしている姿勢を感じる。もちろん、悲劇が起こったあとであっても、同じ土地で再び隣人同士として共に暮らしていかねばならず、何らかの妥協策をとらねば国を運営していくことが困難になるので、そのために歩み寄りの努力が日中間の場合よりもより差し迫った問題だったのだろうかとは思う。同じ文化を共有するルワンダ人だったからこそ償いと許しが双方の心に届くものだったのかとも思う。しかし、隣人同士だったからこそ、真摯に過去の事実に向き合うことが、より強い痛みを伴うものだったのではないかとも思う。家族や親戚のほとんどが殺された自分と、そのすぐそばにいる、家族の誰一人傷つくことのなかった、かつての加害者側の隣人。そんなものが私たちに想像できるだろうか。
ルワンダの国内には、大小さまざまなジェノサイドのメモリアル(記念館)があるという。償いと許しのしるしであるそのようなメモリアルを作ることを選択したルワンダ人の姿勢。そんな彼らの姿勢を知ることができたのが、記念館に行ったひとつの成果だったのかと思う。

昼過ぎにジェノサイドの記念館を出たのだが、その次にニャマタというキガリ近郊の村に行く。このニャマタには、虐殺を逃れようと逃げ込んだ多くの住民が、逆に集団で殺害されたというカトリックの教会跡があるのだ。目的地の手前でバスを降りてしまい、途中、強い太陽の日差しを浴びながら目的地へと向かう。道中、道端にいる人たちからフランス語やルワンダ語で挨拶をされる。フレンドリーに外国人を迎えてくれる彼らの姿を見ていると、この国でほんの15年ほど前に本当に虐殺が起きたのかと思ってしまう。
ニャマタには外国人もよく訪れると聞いていたので、もっと分かりやすいところにあるのかと思ったら、道順を示す看板もなく、大きな道から離れ少し歩いたところにその教会はあった。周囲の家がそうであるように、その教会もレンガ造り。特別大きな尖塔があるわけでもなく、村の中で他の建物と一緒に溶け込むかのようにその教会はあった。暇そうにしている数人の若い受付の女性に挨拶をし、教会の中に入る。
何と表現したら言いのだろうか。背もたれのない長いすが教会の中に並べられているのだが、その上に土で汚れた服が積まれているのだ。そんな長いすと洋服のセットが、ただひたすら教会の建物の中に並んでいる。こぎれいなパネル展示があるわけでもなく、ただ無数の汚れた服が一面に積まれているだけ。そして、かすかながら鼻を突くようなにおいが漂っている。小さな窓から光が差しこみ、正面の壁には白い服をまとったマリア像が、まるで服を見下ろすかのように飾られている。それがニャマタの教会跡だった。ここで、1万人ほどの人が殺されたという。虐殺から逃れるため周辺からここに集まり、土に汚れた服に身を包み、汗のにおいを漂わせながら、恐怖におののきながらここに身を寄せ合っていたのだろうか。しかし、それもいつしか死体が転がり、死臭漂う凄惨な場となったのだろうか。何も語らぬ服がなんとも印象的な場だった。
次いで、教会の横にある地下室へと警備員のおじさんに案内される。もう驚くことはないだろうと思いながらも、しかし沈んだ気持ちになりながら、地下へと向かう、やたらと急な階段を下る。
教会横の地下室も、教会跡に劣らず不思議な場所だった。図書館の閉書庫、貸し出し頻度の低い本がぎっしりと並んでいるようなところを想像してもらいたい。地下室はまさにそんなところだった。ただ、並んでいるのが本ではなく、人骨だった。ある段には頭蓋骨が、ある棚には大腿骨が、ただひたすらびっしりと並んでいるのだ。それぞれの骨が、かつては家族がいて、喜怒哀楽を持ちながら生きていたのだとは、にわかには信じられなかった。法医学の授業で習った、個人識別のポイントを思いながら――頭蓋骨の縫合、前額面の傾斜、歯並びなど――かつては個性を持った一人ひとりの生きた人だったのだと想像しようとする。しかし、そんな想像をするのも無意味なほどにあまりにも多くの骨がそこにはあった。94年、ここに集まった人たちにはもう個性も何も与えられることなく殺され、数多くある骨のひとつになるしかなかったのだろう。地下室も、なんとも表現しがたい場所だった。
しかしである、94年の記憶を抱えながら、村の中にこうやったメモリアルがありながら、よくもルワンダの人たちは再び日常生活を取り戻し、旅行者が見る限りでは落ち着いた生活を送れるものだと思う。人間とはかくも強くあれるのかと思う。ルワンダだけでなく、先の大戦を経験した日本人とてそうなのだろう。しかし、心病んだ今の日本社会のことを思うと、彼らには脱帽させられる思いである。ツチ族としてかつては命を狙われ、紙一重のところで生きながらえたという警備員のおじさん。かつての同胞の遺骨に囲まれながら私たちを案内してくれる彼は、一体何を思っているのだろうか。他人の不幸には鈍感な図太い神経をしているのだが、複雑な心境になりながら教会跡を後にする。
なお、バスの乗れる大きな道までの道順がよく分からず、ヒッチハイクをしてバス乗り場まで車で送ってもらう。実はこの日、キガリ市内でもヒッチハイクで車に乗せてもらっていたので、2度目のヒッチハイクだった。それにしても、ルワンダ人は親切なものだと思う。一緒にいるシスターの格好のお陰なのか、あるいは私たちがワズング(白人)だからなのかも知れないが、日本ではなかなか難しいことではないだろうか。日本でも何度かヒッチハイクをした事のある者としては、ルワンダ人の親切さは格別だと思う。

この日の晩もキガリの修道院に宿泊する。私のためにシスターたちがケーキを焼いてくれる。

2009年12月19日土曜日

ルワンダ1 高知大生ルワンダに行く


先週5日から12日まで休みをもらい、ルワンダにいる日本人の知り合いのところに遊びに行ってきた。ルワンダに行っている最中はメモや日記をつけていなかったので記憶が薄らぎつつあるが、何度かに分けながらその間のことを書かせてもらおうと思う。
まずはその知り合いについて説明が必要だろう。彼女はカトリックのシスターで、94年に起こったジェノサイドの後からではあるが、長いことルワンダに住んでいる方である。実家同士が近くにある関係で以前からの知り合いであった。私がケニアに来た当初は彼女のもとに訪問する予定はなかったのだが、せっかく同じアフリカに来たのだからということで、今回彼女のところまでお邪魔させてもらうことになったのだった。
地理的にはウガンダ(私が研修をしているケニアのブシアと国境を接している国)の南西に位置するルワンダ。アフリカの中央部に位置する小国で、四国の1.3倍強ほどの面積を有している。南部に隣接するブルンジなどと共に「アフリカの心臓」と呼ばれているそうである。仮に私がナイロビにいたとしたら飛行機を使っていたかも知れない。ただ、ナイロビからルワンダの首都キガリまでの高速バスが通っており、ちょうど国境での検問のためにブシアでバスが停まる関係で、ブシアで途中乗車することができたので、今回は高速バスを利用してルワンダまで足を運ぶことにした。ブシアからルワンダの首都キガリへ、約15時間、途中ウガンダを経由しての長旅からルワンダの訪問は始まった。
ブシアでは夜の10時ごろに来ると聞いていたバスがなかなかやってこなかったり、ウガンダ・ルワンダ間の国境では面白い検問があったりしたが(これは後で述べたいと思う)、特に大きな問題もなくキガリまで到着することができた。キガリのバス停でそのシスターと
待ち合わせをしていたのだが、彼女よりも先に到着する。彼女を待つ間、バス停前のいすに座りながら、私と同じくらいの年だろうか、若い女の人と話をする。彼女がケニアに住んでいるのか、それともルワンダに住んでいるのか尋ねたとき、彼女はこう答えたのだった。
「私はキガリに住んでいるのよ。だって私はルワンダ人だからね。」
ルワンダ人。とても不思議な響きだった。もちろんルワンダに住んでいる人はルワンダ人だろう。実際、ルワンダに行く前にルワンダ人は英語でなんていうのだろうかと調べていたので、ルワンダ人という言葉を知らないわけではなかった。でもルワンダ人という言葉はどうしても違和感を持って私の頭の中で反響するのだった。
なぜだろうか。私なりにたどり着いた答えはこうだった。私たちがルワンダという国の名前を聞いたとき、一番に思いつくのはジェノサイドや虐殺といった言葉ではないだろうか。恐らく、「ああ、千の丘の国、ルワンダね」などという人はほとんどいないのではないだろうか(キガリを始め、国土の大半を丘陵に覆われるルワンダは「千の丘の国」と呼ばれているのだ)。そして、ジェノサイドという言葉と共に語られるのが、ツチ族・フツ族という、この国の主要部族の名前だった。ルワンダにいるのはツチ族とフツ族。この2つの部族の名前ばかりが相反するものとして語られ、ルワンダ人という言葉はほとんど語られることはなかったのではないだろうか。だから初めてルワンダ人という言葉を聞いたとき、私は違和感を覚えたのではないだろうか。
ルワンダ人という言葉を別にしても、以前に読んだことのある『ジェノサイドの丘に』といった本や、映画『ホテル・ルワンダ』のイメージが頭から離れず、目の前に広がるキガリの街の様子は――きれいな道路にはケニアと違いゴミはほとんど捨てられておらず、マナーを守った車の運転手によって真新しい信号がしっかりと機能している、そんなケニアよりも秩序だった雰囲気を見せるのだが――どうしても私の頭を混乱させるのだった。ルワンダという国の第一印象すらつかめないまま、ルワンダでの第1日は始まった。

ルワンダでの最初の3日間、私はキガリに滞在することになっていた。また、その間はホテル暮らしではなく、シスターの属している修道会の修道院に宿泊させてもらうことになっていた。その日本人シスターの知人とは言え、単なる旅行者としか言えないような私、ルワンダ語もフランス語も全く喋れないチンプンカンプンな私だったが、修道院のシスターたちはとても暖かく私を受け入れてくれ、丁重にもてなしてくれた。
また、修道院の建物や庭もとてもきれいで、心安らぐ場だった。他の多くの家がそうであるように、丘にへばりつくように建てられた建物はレンガ造りで、庭に咲く花々とよくマッチしていた。また、観賞用の花以外にも、バナナの木をはじめ食用の植物も裏庭に多く植えられ、緑豊かな場所だった。修道院という特殊な場所だからかもしれないが、ケニアの猥雑な街の空気とは違う、落ち着いた上品な場所であった。ただ94年の悲劇を経験したのもまた事実で、修繕はしてあったが鉄の門には銃弾の跡がいくつも残っていた。

さて、私がキガリに到着した日、全くの偶然だったがその修道院でちょっとしたセレモニーがあった。94年のジェノサイドの際、虐殺を逃れて駆け込んできた人たちをこの修道院でもかくまっていたのだが、ジェノサイド終結後、そのときにかくまっていた子供たちなど、ジェノサイドで親を亡くした子供たちの孤児院を修道院で運営しているのだ。その子供たちが体験をまとめた手記を出版したのだが、今回はその出版を記念してのセレモニーだった。準備の段階で一時停電になったり、6時に始まると聞いていたのに実際には7時ごろに始まったりと、アフリカでは取るに足らないようなちょっとしたハプニングがあったりしたが、大きな問題はなくセレモニーはスタート。修道院のちょっとした庭にびっしりとプラスチックの椅子が並べられ、辺りが暗くなっていく中でのセレモニーだった。前半は関係者何人かの証言を集めたビデオの上演があり、次いで本を著した一人である孤児をはじめ何人かのスピーチであった。ルワンダ語やフランス語は全く分からなかったし、ジャンパーを着ていてもさっきまで降っていた雨のせいかとても寒く、途中、なんでこんなセレモニーに参加しているのか分からなくなったりもした。しかし、せっかくだと思って最後まで椅子に座るだけ座ることにする。私に唯一理解できたのは、ビデオの中で孤児となった子供たちが紹介されたのだが、そこで彼らの生年月日が紹介されていたことくらいだろうか。今は10代後半から20代前半になった彼らは、私や私の兄弟とちょうど同じような年代だった。94年のできごとが、すでに過ぎ去った歴史ではなく、私と同じ年代の彼らがいまだに背負い続けている現実であるのだということを、何となくながら感じることができた。
どういう趣旨なのかは分からなかったが、女の子たちはお揃いのきれいなドレスに身を包んでおり素敵だった。そのドレスの効果もあるのかもしれないが、女の子はみんなとてもかわいく感じる。細長い手足に大きな胸というプロポーションは、アフリカン・マジックと言われているそうである。いや、冗談です。ジェノサイドを生き残っただけあり、運がいいというか、人とは何か違うものをもっていたのかな、などと考えてしまう。私の母親が、先の大戦を生き残った世代の人たちについて、「あの戦争を生き残った人たちはやっぱり運がいい人たちなのよ」などと言っていたことがあるが、そんな母親の言葉のせいでそんなことを考えてしまうのだろうか。ただ実際、ルワンダ人のあるシスターも、ジェノサイドを生き残った人たちはとても運のいい人たちだったと、後々言っていた。というのも、もちろん直接ジェノサイドの被害にあった人も多かったが、ジェノサイド後の混乱期には感染症が蔓延し、ツチ族・フツ族共に多くの死者が出ていたのだという。いずれにせよ、そんな悲劇を乗り越え、私の今いるこのきれいな国ルワンダを再建してきたのが、私の周りにいるルワンダ人たちであることは、確かな事実なのだろう。
余談であるが、このセレモニーの様子がルワンダのテレビのニュースに取り上げられていたということを、後日はじめて知る。知り合いのシスターと私のワズング2人組もちゃんと映っていたそうである。前日ブシアで髪の毛を切り、坊主に近い状態になっていたのだが、テレビに映るのなら髪の毛を長いままにしておけばよかったと、くだらない後悔をする。

2009年12月6日日曜日

ジョブレス


母親から時々メールが来るのだが、家族の近況報告のほかに為替相場を報告してくれている。こちらにいると日本のニュースに接する機会も少なく、特に意識して為替相場などチェックすることはないので、時々母親から送られてくる情報にいつも驚かされる。かなり円高が進んでいるそう。
『地球の歩き方』には去年春の時点での日本円とケニアシリング(Kshケニアの通貨)のレートが載っているのだが、1Ksh≒1.56円。この間に、USドルに対してケニアシリング安となっており同時に円高になっているので、1Kshがどんどん1円に近づいている。海外で生活する分には嬉しい限りなのだが、多くの日本企業にとっては大問題だろう。どうなるニッポン。

USAIDや政府系のAIDS関係機関からの資金の振込みが滞っており、ブシアオフィスのプロジェクトはほとんど一時停止となっており、オフィスではジョブレス状態。おしゃべりして昼ごはん食べてだらだらして一日が終わるという日々が続いている。オフィスの壁には10月と11月のワークプランの紙が張ってあるのだが、10月や11月前半はいろいろと書き込みがあるのに、私が来た週から特に書き込みのないその紙がなんとも切ない。そんな中でも頭と体を動かして何かすることを見つけたらいいのだろうが、「仕事がないときはゆっくりしてたらいいのよ」というマルセラの言葉に負け、彼女とおしゃべりをしながら時間をつぶす毎日。イメージとしては写真のブタ君と一緒。どうするオサム。

というわけで、来週1週間休みをもらい、ルワンダにいる知り合いの日本人のところに行ってきます。

2009年11月30日月曜日

ムソマ村





25日、ブシアの中心から25キロほど離れたムソマという村に行く。
昨年、この村の孤児のため、日本のとある映像作成会社がまとまった金額を寄付してくださり、そのお金で孤児向けの家を万棟か建設したのだった。
ADEOが継続して行っている業務ではなかったが、ADEOが寄付のやり取りの仲介をした関係で、今回はその様子を視察するべくその村に行ったのだった。

当初、孤児院(Orphanage)という言葉を聞いていたので、両親をなくした子供たちが一緒に暮らしている場所を想像していたが、実際は孤児院というよりも、形態としては周辺の孤児と未亡人の家庭が組織立って自助グループを運営しているというものだった。
孤児院に子供たちが一緒に暮らしているのではなく、片親(その多くは未亡人)と共に、一見他の家庭と同じように村の中で暮らしているのだった。
(なので、「Orphanage」の支援という言葉は、「孤児院」の支援の意ではなく、「孤児の身・状態」への支援というということだった)
その自助グループに参加しているHIV孤児・未亡人の家庭に対して文房具や食料の配布が行われたほか、いくつかの家庭に対しては家の建設が行われたのだ。
(余談だが、HIVなどの理由で親を亡くしても、極力孤児院のような施設への入所は行わず、親戚の家で引き取るなど、子供が継続してコミュニティーで暮らしていけるように配慮されているという)

マルセラに連れられて向かったそのムソマ村は、なんとも牧歌的なところだった。
トウモロコシ畑が広がり、所々にバナナの木が生え、ヤギは草を食み、豚は気だるそうに寝転がっている。
イメージとしては、トトロの世界のような場所と表現したらいいだろうか(バナナの木など植生は若干違っているが)。
そんな穏やかな村の様子と、HIV/AIDSや孤児・未亡人という言葉はなんともしっくりこない組み合わせであった。
まず、グループのリーダーをしている女性のところへお邪魔し、次いで年少の孤児たちが通っている幼稚園に行く。
その後、寄付によって立てられた家を回っていくことになった。
建てられた家は7戸なのだそうだが、2戸は車がないと遠くて歩いてはいけないと言われ、うち5軒を回ることに。
一軒一軒そんなに離れていないだろうと思っていたのだが、頭上から照りつける太陽は厳しく、家から家へと移動するのには予想以上に体力を消耗する。
7軒全部歩いて回りたいなどと言わなくてよかったと途中で気づく。

寄付によって建てられた家は、木で枠を作ったうえに土を塗り固めた壁に、トタンの屋根といった、とてもシンプルなもの。
室内から天井を見上げると、梁や桁、トタンの屋根がそのまま見え、日本の現在の家屋と比較するとかなり心細いように感じられる。
しかし、それでも周辺の家と比べるととても立派なものだった。
新しく建てられた家の横に古い家が隣接していたりするのだが、そんな古い家の多くは土壁に茅葺きの屋根と作り。
そういった伝統的な方法で立てられた家屋は、力の関係でそういう形にせざるを得ないのか分からないが、多くは丸い形をしており、大きさもあまり大きくはなかった。
なので、比較的大きく、四角形で、そして太陽の光を浴びてキラキラと光る屋根を持つ新しく建てられた家は、遠くからでも古い家屋と違いがよく分かった。

一軒、床から何かの植物の芽が出てきている家があった。
壁にしても床にしても、コンクリートで作った方がベストなのだろうが、それでは費用がかかり多くの家を建てられなくなるので、土塗りにすることにしたという。
そんなちょっとした問題はあるようだったが、どこの家庭でも新しく建てられた家は好評だったのではないかと思う。
逆に、あまりにもいい家を手に入れたことを、ご近所さんからうらやましがられているようでもあった。
実際、私たちが家々を回っている間、グループのメンバーの一人、HIVでご主人を亡くした家庭のおばちゃんから、どうして私の家は新しくしてもらえないのか、次は私の家を新しくしてくれと言われたりもした。
私のことを、昨年この村に来たというその会社のメンバーだと最初は勘違いしていたようで、それでそんなことを言ってきたということもあるのだろう。
しかし、私がその会社のメンバーではないと説明しても、次回はよろしくと強く言ってくる。
この自助グループが関わっている孤児は約200人ほどだが、今回の家屋建設の恩恵を受けられたのは7家庭30人ほど。
決して全ての孤児はカバーできてはおらず、家庭の状態によって家屋建設の優先順位を決めてはいるものの、結果として全員が納得できるように落ち着いているようではなかった。

一回の寄付でできることには限界があるし、子供たちの就学状況や栄養状態、居住環境を全体的に、平等に改善するにはまだまだ道のりは遠いようにも感じられた。
だが、彼らのように、自助グループという形で、外からの力添えを得ながらも、可能な限り自らの力で自身の置かれた環境を改善していこうという試みが継続され、成功を収められたらと思われるばかりである。
かなり無理やりな締めくくり方になってしまったが、有意義な一日であった。

2009年11月23日月曜日

ブシア・デビュー

先週の火曜日にブシアに到着してから、1週間が経とうとしています。
今回はブシアの町の様子などを中心に話をさせてもらいます。

先週、午前7時ナイロビ出発、午後4時ブシア着のバスに乗ってブシアに来たのですが、窓から見える景色はナイロビからカジャドゥに向かうときのそれと違い、緑豊かで興味の尽きないものでした。
朝が早かったので最初の数時間はうとうとしていたのですが、それから目を覚まし外を見ると、丘一面に広がるトウモロコシ畑。
ケニアの主食、ウガリの材料であるトウモロコシの粉になるのでしょうか。
12時ごろに通過したケリチョという町の周辺は、トウモロコシに代わりお茶畑が広がっていました。
砂糖のたっぷり入ったミルクティーはケニアのどこの食堂でも見ることができ、また、茶葉はケニアの主要輸出産品でもあるので、ケニア国内でかなりの量の茶葉が生産されているのでしょう。
それからしばらくすると、今度はサトウキビ畑。
この日の朝、バスの待合室で見たテレビで、砂糖産業の汚職事件のニュースがあったのをふと思い出します。
さらに西に向かって進んでいくと、段々と畑の規模が小さくなっているように感じます。
畑と共に面白かったのは、牛やヤギの様子。
カジャドゥ周辺ではマサイ族がやせたヤギや牛を連れ、草を求め移動しながら放牧している様子をよく見かけるのですが、ここでは柵の中で放牧されていたり縄でつながれていたりします。
マサイの土地で家畜をそんなふうに飼ったら、草が食べられずに家畜はすぐに飢えてしまいそうですね。
それなのに、こちらの家畜の方がふっくらしているようにも思います。

さて、途中の小さな村々で途中下車のお客さんを降ろしながら、予定通り4時ごろにブシア着。
予想していた通り、バス停まで迎えに来てくれるはずのブシアのスタッフの姿は見当たりません。
これがケニアに来て間もない頃だったら、バス停で一人で人を待つのはかなり心細かったでしょうが、今はそんなこともなく町の様子をのんびりと眺める余裕ができていることに気づきます。
しばらくそこで待っていると、後ろから私の髪の毛をくしゃっとする手が伸びてくるのです。
驚いて後ろを振り向くと、いたずらっぽく、満面の笑みをたたえた長身の女性が立っており、「あなたがオサムでしょ」と声をかけてきます。
今までのカジャドゥでの3ヶ月がなかったらびっくりしていたでしょうが、私も負けじと笑顔を返します。
そう、彼女がこれからブシアで一緒になるMarcellaでした。
そんな茶目な彼女との出会いからブシアでの生活はスタートしました。

乾燥したサバナ気候のカジャドゥ周辺と、国内でも降雨量の多いケニア西部の町ブシアとでは、同じ国の中にありながら植生はかなり趣を異にしています。
ボケーっとしていたら人間も動物も死んでしまいそうな乾燥した土地と、緑豊かでたわわに実を付けるバナナの木を見かける土地とでは、人間の価値観も変わってくるのかなとは思いますが、私の貧しい観察眼では人々の様子からそこまでの違いを読み取ることはできずにいます。
ただ、同じ田舎の町ながら、カジャドゥとブシアでは町の様子がかなり違っているのはよく分かります。
いろいろと違いはあるのですが、一番に気づくのは、ブシアでは自転車がとても多いということでしょうか。
個人用の自転車もあるようですが、道を行きかう自転車の多くは、ボダボダと呼ばれる、タクシー代わりの自転車なのです。
カジャドゥで自転車に乗っているのは、水をお客さんのところへ届ける売り子さんで、タクシー代わりの自転車は全くなかったので、たくさんのボダボダが道を走り抜ける様子は私にとっては新鮮でした。
また、カジャドゥにもタクシー代わりにバイクはあったのですが、マタツ乗り場と夜の飲み屋周辺で見かけるくらいであまり一般的な乗り物のようではなかったのですが、ここでは広く庶民の足になっているようです。
国境の町ブシアでは、国境付近がにぎわっており、そこから同心円状に町が広がるのではなく、国境を貫く道沿いに商店などが並んでおり、町が細長く引き伸ばされたように広がっているのです。
そのため、庶民の生活の場と仕事場や町の中心が少し離れており、こうやってボダボダが庶民の足となっているのでしょうか。

また、町周辺の様子もカジャドゥとは異なっており、その点も新鮮でした。
行政区分としてはWestern Provinceの中、Busia District、Busia Townという階層になっているのですが、Busia District内のいくつかの村でプロジェクトがある関係で、それらの中のいくつかの村にも先週末行ってきました。
村と村との距離はかなりあるのかなと思っていたのですが、マタツで10分ほどで隣の村にいけるのです。
また、村と村の間も、人の住まないような森や草原が広がっているわけではなく、畑が広がっていたりするので、その間も連続した人の活動範囲になっているようです。
隣の街まで何十㎞もあり、その間は基本的にサバンナの草原が広がっているというカジャドゥ周辺とはかなり様子が違うようです。

他にもカジャドゥとの違いを感じる点はありますが、上の2点が今までに私の感じた最も大きな違いでしょうか。
個人的な生活環境もケンとの共同生活からホテルでの一人暮らしになり、そこも大きな違いなので、これから報告できたらと思います。

2009年11月16日月曜日

カジャドゥ

先週金曜日が、カジャドゥで過ごす最後の日となった。
もともと次の研修地であるブシアに移るのは土曜日の予定になっていたし、予定がよく変更になるここケニア、予定通りに異動になるとは思っていなかった。
というのも、ブシアへの異動の詳細について水曜日にナイロビのオフィスに確認しようとしても、忙しいから後で連絡するとの回答。
その後しばらく連絡がなく、ケンからは、カジャドゥを発つのは来週に延期になるのではないか、などと言われていたのだった。
金曜日の朝も、恐らく出発は延期になるだろうと思いながら家を出たのだった。
それが、オフィスに着いてしばらくしたころ、これから数日の予定が決まり、この日カジャドゥを発ち、翌週火曜日にブシアに向け出発、その間ナイロビに滞在することになったのだ。
私の出発が決まったので、ケンが急いで食堂で料理を予約し、APHIA IIのメンバーでお別れパーティー的な昼食会を急遽開いてくれ、食後、家に帰って荷物をまとめ、その後すぐにナイロビに移動という、かなりあわただしい一日を過ごすことになった。

この1週間全体を通しても、あわただしく時間の過ぎていった週だったと思う。
いくつかのイベント、そしてAPHIA IIとは別の新規プロジェクトの企画書をこの週のうちに仕上げなければならず、ケンはそれに忙殺されていたし、私はそんなケンの手伝いや、APHIA IIの他の団体のスタッフの仕事の手伝いをするのに精一杯だった。
残された時間の中、私がカジャドゥにいる間に日常の仕事をこなす以外にもできたらと思っていたこともあったが、言い訳になってしまうが、そんなことは忙しさの中でケンに取り合ってもらえることもなく終わってしまった。
残念な気もするが、ケンに期待されていた仕事をこなしたのだから、それはそれでよかったのかもしれない。

カジャドゥでの3ヶ月を、今の時点でどう評価したらいいのか、どんな感想や反省を述べたらいいのかよく分からない。
これから先、誰かに「ケニアのそのカジャドゥというところで、3ヶ月間何をしていたのですか?」と質問されたら、何と答えたらいいのかもよく分からない。

この3ヶ月、長かったようにも思うし、一瞬だったようにも思う。
楽しい時間であった気もするし、しんどいことも多かった気もする。
視界に入る人たちが全て黒人という状況にめまいを覚えることがあった一方、親しくなった人たちが「黒人・アフリカ人」や「ケニア人」ではなく「デイビッド」や「ルース」というかけがえのない一人ひとりの存在になっているのにも不思議な感覚を覚えたことがある。
私の買ったラジオでスワヒリ語のプログラムを聞いていることに文句を言いたくなったこともあった一方、私に関係のないちょっとした会話にも英語を使ってくれるAPHIA IIのあるスタッフの優しさに涙が出そうになったこともある。
そんなケニアでの経験と、医学生としても人間としても学ぶことの多いであろう大学5年目とが、どちらが密度の濃いものであったのかもよく分からない。
カジャドゥでの私の存在が、大きな視点に立って見たときにプラスに働いたのかマイナスに働いたのかもよく分からない。
確かなのはこれから3ヶ月弱、場所は変わるが研修が残されているということ(そして、その後には日本での大学生活が待っている)ことくらいだろうか。

ケニアでの研修、後半編が始まります。

写真あれこれ


20091115写真あれこれ

この写真は、朝、集合住宅にいるときにケンが撮ってくれたもの。
ケンは自分のカメラでこの写真を取ったのだが、考えてみると、私自身は、自分のカメラで子供たちと私とが一緒に写っている写真を、この集合住宅で一度も撮っていないのである。
この写真をケンが撮っていたときには予想していなかったのだが、この日をもってカジャドゥを離れることになったので、この写真が、集合住宅で私と子供が写っている、最初で最後の写真となってしまった。

いまさらこんなことを言ってもしょうがないが、撮ろうと思ったまま撮らずじまいになってしまったものがいくつかある。
そのひとつが、いかにもマサイ族、といった伝統的な格好をしたマサイ族の人の写真。
ビーズで作った首飾りをつけ、耳が引きちぎれんばかりの耳飾りをぶら下げた彼らの写真。
彼らはあまり写真を撮られるのを好まず、観光地などでは写真を撮る際にはお金を払うのが通例となっている。
カジャドゥにも、そのままポストカードになりそうな格好をした人も多く、撮れないことはなかったのだが、チャンスもなく3ヶ月が経ってしまったのである。
仲のよいPEの親戚が伝統的なマサイの格好をしており、彼女の写真を撮ろうとしたときは、ウイルスのせいでカメラのメモリーカードが作動しなかったし、同じ集合住宅内にも、1人マサイ族の衣装のおばちゃんがいて、彼女とも親しくなっていたので、頼めば問題なく写真が取れただろうが、あまりにも急にカジャドゥを離れることになったので、頼む余裕がなかったのである。
うーん、残念。

さて、話をケンが撮ってくれた写真に戻そう。
以前にブログに添付した、赤いパーカーを着た子と、この写真に写っている2人の子供が、集合住宅内でも私のお気に入りであった。
彼らに共通しているのは、まだ小さいために学校に行っておらず、英語が喋れないということだった。
英語でコミュニケーションが取れないのに、年長の子供たちよりも彼らと仲がよかったのは、ひとつは、学校がないために彼らと庭で出会う機会が多かったということがあるだろう。
ただ、理由はそれだけではないとも思う。
英語が喋れる年長の子供たちは、英語と共に若干のあつかましさも身に付けており、時にため息を付きたくなるようなこともあったのに対し、年少の子供たちはそれがなかったのだ。
年長の子供たちは、「折り紙を作って!」とか「お菓子を買って!」と私に声を掛けてくるのだが、折り紙やお菓子を持っていない私には特に興味がないようであった。
一方、この子供たちは、私を見つけると全速力で近くに寄ってきて、笑顔を振りまいてくれるのである。
私が「Hello!」とか「How are you!?」と声を掛けるだけで喜んでくれ、高い高いするだけで喜んでくれるのである。
私の心の器が小さいといえばそれだけだが、でも私はそんな年少の子供たちが大好きであった。

年長の子供たちが折り紙などを先に持っていってしまうので、年少の子供たちには高い高いくらいしかしてあげられなかったが、それでも年少の子供たちとの方が仲がよかったというのは、皮肉な結果でもあるような気がする。

そして、ものをあげるという行為は、とても難しい行為のように思われる。

今週末はケンのナイロビの家に泊まっているのだが、ケンの9歳の息子マークから、「オサムはいい人だよね。だってお菓子を買ってくれるんだもん」と言われたときは、苦笑いするしかなかった。
あるいは、以前、中国政府がケニア国内の道路建設を大規模に支援していることについてケンと話をしているとき、ケンは「中国はいい国だ。道路を作るためにお金をくれるのだから」と言い、「道路建設によってケニアの交通事情が改善され、経済が発展するのは重要なことだと思う。ただ、外国が支援をする場合、ケニア人のエンパワメントにつながるものである必用があるんじゃないの」という私の主張は、彼には届いていなかったのを覚えている。
また、町中で「Hi, my friend!」と親しげに声を掛けてくるものの、最終的にソーダやビールをおごってくれ、と言ってくる大人たち。
私自身、初対面の人からビールをおごられたことは、一度ならずともあるので、友人におごり、おごられるという関係は決して否定すべきものではないだろう。
ただ、友人同士だからおごるという関係ではなく、外人だからおごるという構図になるのはどうしてもいい気分にはなれなかった。

ものをあげるという行為をどう捉えたらいいのかということは、ずっと私の心を煩わせてきた問題であったが、この小さな子供たちはいつも心のモヤモヤをリセットしてくれるのだった。
そんなこの子供たちとのこの写真は、私の一番のお気に入りの写真である。

2009年11月9日月曜日

折り紙



ケニアへ向け出発する前、ケニアへのお土産として、海外での単身赴任経験のある父親から勧められたものが、折り紙の作り方を書いた紙のコピーだった。
実際、折り紙はケニアに来てから、特に近所の子供たちから好評で、この10年間にはないほど、子供たちのためにたくさんの折り紙を作ったと思う。私の数少ないレパートリーの中で、鶴や手裏剣、花などを作ったのだが、子供たちから作ってくれと一番よく言われたのは、平行四辺形のパーツを組み合わせて作る立方体やテトラパックのような箱だった。カジャドゥに来た当初は日本から持ってきた折り紙用の紙で、途中からはその紙では間に合わなくなってきたので、新聞紙で折り紙を作っていた。子供たちにとっての「Products of Japan」になるのだと思うと手抜きもできず、できるだけ丁寧に作っていた。
あまりにもよく子供たちから折り紙を作ってくれと言われ、その要求に応えるのも大変だったし、私がいなくなった後にも自分たちで作れたら楽しいだろうと思い、少し前、子供たちに折り紙の折り方を教えようとしていた時期があった。まだ小さい子供たちが多かったし、ケニア人ならではの雑さで、ほとんどの子供たちは完成にたどり着く前に嫌になり、私に丸投げすることも多かった。ただ、その中でも年長の女の子は比較的器用で、私が一緒に折りながら教えたら、それに従って同じように折ることができるまでになっていた。折り方自体は覚えていないが、折り方さえ分かれば一人で折れる段階、と言ったらいいのだろうか。彼女なら、折り方を書いた紙があればこれから1人でも作れるようになるかなと思われた。そこで、立方体の折り方を書いた紙はあいにく持っていなかったので、立方体の折り方の紙を私が自分で作り、彼女にプレゼントしたのだった。
一人に何かものをあげると、必ず他の子供たちから自分にも頂戴と言われるのがいつものパターン。彼女1人だけにその折り方の紙をあげたら、他の子供たちからもねだられるかな、同じものを再度書くのは大変だから、コピーでも取ったらいいかな。そんなことを思いながら、彼女にその紙をあげたのだった。が、私の予想に反し、彼女にその紙をあげたその日、他の子供たちから同じような作り方の紙をくれと言われることはなかった。
さて、私を驚かせたのはその翌日、朝起きて家の外に出たときだった。私や子供たちの住んでいる集合住宅の庭、そこに私が昨日彼女にあげた折り方の紙が転がっているではないか。いらないものは家の外に捨てるここケニア、私の作った折り方の紙もいらないものとして捨てられたのだろうかと考える。いや、きっと彼女が気づかないうちに風に飛ばされてしまったのだろうと、前向きに考えることにする。そして、その紙を拾い、子供たちにも見えるように、窓の内側に置いておくことにする。しかしである、子供たちはその紙の存在に気づいているはずなのに、最初に私がその紙をあげた彼女は何もなかったようであるし、他の子供たちも全くもって関心がないよう。
結局、その紙は誰からもねだられることもなく、何週間か窓際に飾られたまま。そして、子供たちは相変わらず「折り紙はないの?」と聞きに来、そして「作り置きの折り紙はない」と私が答えると、「じゃあ作っておいてよ!」と言ったきり、どこかへ行ってしまう。
この一件は私を落胆させるものだった。悲観的になることはないのだろう。ただ何か、この一件は、今週をもって終わろうとしている、私のカジャドゥでの3ヶ月を象徴する出来事であったような気もする。

ウガリ
この前、初めてケンの前で私がウガリを作る。
(ウガリというのは、トウモロコシの粉をお湯で練ったもので、東アフリカの主食。)

「自分が横で見ながらウガリの作り方を教えてあげよう」とケンが言ったのはかなり前の話。
それからケンだけがナイロビに行っていたり、先週は仕事が忙しかったりで、ケンと一緒にゆっくりとウガリを作る機会がなかったのである。
もちろんその間にも、1人のときにケンの指導なしで私1人で作ってはいたのだが、やっぱりケンが作るウガリよりもおいしいものはできずにいた。
それが、今回やっとケンの前でウガリを作ることができたのだ。
ケンのウガリには及ばないが、それでも今まで私が作ってきたものよりはおいしいものができ、二人とも満足。


卵焼き
翌日、初めてケンのために卵焼きを作る。
「いつか卵焼き(ジャパニーズ・オムレツ)を作ってやる」と私はかなり前からケンに言っていたのだが、ケンのウガリと一緒で、ずっと作れずにいたのだ。

テフロン加工のフライパンや鉄のフライパンに比べ、卵のくっつきやすいケニアのアルミのフライパン。
油をかなり使いながらも、何とか楕円形の卵焼きが完成。
食べ物の評価など、遠慮なくストレートに表現するケンなので、一体どんな感想が返ってくるかどきどきしていたのだが、ケンは私の作った卵焼きをとても気に入ってくれる。
「醤油はいくらくらいで買えるのか?」という質問をしてくれたのもうれしかった。

2009年11月4日水曜日

最後のミーティング

まず報告。
現在研修を行っているカジャドゥから次の研修地であるブシアに移動する日程ですが、今月14日(土)になりました。
カジャドゥでの研修は、残り2週間弱となりました。

先週、県内の4つのプロジェクト地でマンスリー・ミーティングがあったのですが、それらのミーティングが、私が参加できるピア・エデュケーターたちとの最後のマンスリー・ミーティングとなりました。

相変わらず疑問を覚える点も多いミーティング。
何か改善できないかとも思いましたが、私が少しあがいたところで何も変わらないまま3ヶ月が過ぎようとしています。
自分のマネジメント能力や行動力のなさを感じつつ参加するこのミーティング。
私が来る前も、そして私がカジャドゥを離れた後も、同じような光景が繰り返されるのでしょう。
ケン、ミーティングのためにナイロビから来ているケンの上司、ピア・エデュケーターたち。
そんな彼らの姿を見ていると、私がここカジャドゥにいる間に残せたものは何だったのだろうかと考えずにはいられなくなります。

昨日・今日と、ミーティングで集めたピア・エデュケーターたちの活動報告書をもとに、APHIAⅡの本部へ提出する月例報告書を作成しています。
そうやって机に向かい黙々と単純作業をこなすこと。
私がここにいる間になしえたことと言ったら、それぐらいなのではないかと思われてなりません。

また月の満ち欠けが一周し、最近曇りがちなカジャドゥの夜空に満月が輝いています。

2009年10月25日日曜日

HIVと私

・前置き
最近の投稿の内容が、ケニアでの研修日記、ではなく、ケニア滞在日記になっている気がします。
昨日(23日金曜日)もケンはカジャドゥにおらず、唯一した仕事らしい仕事は、PEにコンドームを渡したぐらい。
ケンの指示なくスラムにもあまりフラフラ行くなという言葉を最近頂いたので、本を読んで一日を過ごしました。
この半ばmasturbationのような内容のブログですが、そんなmasturbationの記録の一番熱心な読者が、間違いなくFatherであることを考えると、さらに気が重くなります。
さて、そんなブログですが、今回はタイトルのように「HIVと私」という内容で話をさせてもらいます。
学校の宿題のようなセンスのないタイトルですね。
以下、3本立てになっています。


・ADEOでHIV/AIDSに関わるということ
1年を休学しケニアに本部のあるNGOで研修をし、HIV/AIDSに関わる活動をしているわけだが、アフリカやケニアに以前から特別な思い入れがあったのかというと、申し訳ないのだが、特にそんなものがあったわけではない。
また、HIV/AIDSについても然りである。
ADEOでの研修を選択した一番大きな理由は、以前の研修生に対する憧れだったのではないかと思う。
大学1年の夏、持ち前の協調性のなさでいまだにクラスや医学部の部活に溶け込みかねていた頃、実家に帰省した際、兄に連れられて顔を出させてもらったのがアデオ・ジャパン(ADEOの日本支部)のミーティングや飲み会であった。
アデオ・ジャパンとして国内で展開している活動の話、アフリカ帰りの研修生の刺激的な体験談。
切れのあるミーティング、有能で活動的なメンバー達の横顔。
彼らがとても輝いて見えたし、自分にはないもの、今の自分の周りはないものがそこにはあるような気がした。
自分の学生生活も、彼らのそれに少しでも近づけるようなものにしたいものだと思ったりした。
が、それから結局、部活とバイトで1週間が終わるような、高知でのまったりとした学生生活を自ら選択することになる。
しかしそれでも、1年の夏に見た光景を忘れることができないでいたのも事実であった。
また、目をつむっていても進んでいく学年と、テスト前の一夜漬けの繰り返しで近づいてくる「医師」という文字にも焦りを感じていた。
そんな、ないものねだりの羨望と焦燥感からクラスを飛び出し、日本を飛び出し、何も考えずにひとまずたどり着いたのがここケニアであり、そこで出会ったのが単にHIV/AIDSだけだったのだと思う。

休学届のための保護者のサインと、1年間の軍資金のため、ありもしない脳みそで私なりにひねり出したもっともらしい理由を両親には並び立ててみたりはしたが、誰よりも両親が気づいていたように、休学する意味やアフリカで研修する意味、HIV/AIDSに関わる意味を、私は何も考えてはいなかったのだと思う。


・人の弱さとHIV/AIDS
説得力のあるようなことは何も考えられずにいた私。
ただ、HIV/AIDSに関わらせてもらっていることは、私にとってとてもいい経験になっていると思う。

少し話がそれるが、数年前の話をさせてもらいたいと思う。

病院実習をしている5年生の先輩何人からか、私を含め下級生がその実習の様子を聞いているときのことだった。
学年の中でも特に優秀だったある先輩が、こんな様なことを言っていた。
2型(つまり主に生活習慣による)糖尿病の患者さんを担当しているのだが、そもそも自分のせいで病気になった患者さんのうえ、入院までしているのに生活態度を改めようとしない。
そんな人に医療を施すのはナンセンスだと思うし、医師になったらそんな患者さんは相手にしたくない。
おそらくそんな旨だったと思う。
つまり、自分の手で自分の健康を害しているような人の相手はしたくないと。
その後、その先輩は有名病院に就職し、そこでもバリバリやっているという評判を耳にしている。

医師が医師たるには、まず知識と技術があってこそであり、人間性が医師を医師にしているのではないだろう。
そんな意味では、その先輩は医師の鑑だと思う。
だが少なくとも、その先輩はHIV/AIDSに関わるのには向いていないだろうとも思う。

というのも、HIV/AIDSは人の弱さにつけこむような形で感染し、発症するのだから。
無防備な性行為や注射針の回し打ちでHIVに感染し、検査や服薬を怠ることによってAIDSを発症するのだから。
HIV感染・AIDS発症には大いに自己責任という言葉が当てはまるであろうし、自分で自分の健康を害しているという表現も間違えではないだろう(※)。
そんなわけで、その先輩の求める患者さん像の範疇にHIV/AIDSは含まれないだろう。

(※)ただし血液製剤による感染や母子感染、望まない性行為、中国などで問題になっている売血による感染を除く。
しかし「望まない性行為」って何だ。
最初はレイプを想定して書いたのだが、途上国などでの絶対的な貧困状況の中で、他に生きる道の選択肢のない中で体を売ることで糊口をしのいでいる場合はどう捉えたらいいのだろうか。
あるいは、女性の社会的地位の低さとpolygamyの中で、自分を守るすべを取る権利もないまま夫から感染する女性とか。
実際、「私にとってコンドームに触れることは罪だ」って言っているムスリムの既婚女性もいるし。
というか日本の男だって程度の差こそあれ勝手だし。
ということで、上記の主張は、同等の権利を有するカップル間の性行為における感染、および自己の意思による薬物濫用による感染という、かなり限定的な状況の下でのみのものだと思ってください。

ただ、私自身としては、そんな人の弱さを相手にするような保健・医療も楽しそうかなと今は考えている。
もともと、高校の頃に医学部への進学を考えていた頃、私にとって身近な医師というのが、アルコール依存症や薬物依存症を抱える患者さんがよく通っていた診療所の医師であった。
自分の弱さに負けて自ら病を招いたような患者さんを相手に、諦めることなく見捨てることなく付き合っていくその診療所のスタッフたち。
そんな彼らが相手にしていた依存症という病気と、HIV/AIDSはどこか似たところがあるようにも思う。
予防することも可能な病気、自分で招いた病気、一生付き合っていかなければいけない病気、などなど。
もちろん違うところもたくさんあるが、人の弱さを見つめながら付き合っていかなければいけないという点では、どちらも同じであろう。

今の研修内容としては予防・啓発がメインになっており、治療分野は他の団体の守備範囲になっているため、あまり病気そのものと向き合う機会は少ないが、それでもこうやってHIV/AIDSに関われてよかったと思う。


・日本で見たHIV/AIDS診療
日本でもHIV/AIDSは広がっているというが、それでもまだ身近な病気としては捉えられてはいないだろう。
インフルエンザなどと違って、知り合いの誰それがHIVポジティブらしいなどという話は、日常生活ではあまり耳にしないのではないだろうか(それは単に感染率が低いということではなく、社会に対してカミング・アウトすることが困難であることも意味しているのだが)。
幸いというか、私自身はHIVポジティブの人がリソース・パーソンを勤めているワークショップに何度か参加したことがあったり、大学の関係でポジティブの人の話を聞かせてもらったりしたことがある。
なので、HIV/AIDSという言葉を聞いたときにも、具体的に今まで出合ったポジティブの人たちの顔が浮かんできたりする。
そして、私が日本で触れたHIVの現場として一番印象に残っているのが、以前にある病院に見学に行き、そこでお邪魔させてもらったHIV診療であった。
診察室の中という特殊な環境であったが、そこで私が見たものは、日本のHIV/AIDSの現状をよく表していたのではないかと思う。
そのときに個人的にメモしていた原稿があるので、ケニアでの研修とは特に関係ないが、ここでそれを紹介させてもらいたいと思う。

なお、その病院は長野県にある病院で、HIV診療の拠点病院に指定されている病院だった。
この長野県であるが、人口比で東京・大阪に次いでHIVの感染率が高く、異性間の性行為による感染の比率が東京・大阪に比して有意に高いという特徴のある県なのである。
その背景として、長野オリンピック前に海外から労働者が連れてこられ、彼らと共にCSWが長野県に入ってきたことが指摘されている。
その病院で、通称HIV外来と呼ばれている外来診療に私は参加させてもらったのだった。
もちろん対外的にHIV外来などと名乗っているわけではなく、HIVの患者さんを診療していると分からなくし、患者さんのプライバシーを守るため、一般の外来患者さんと共にHIV患者さんを診療しているのだった。

以下、そのときのメモを若干手直ししたものを転載させてもらう。


東京などの都市圏ではHIVといえば若者の感染する病気だと思われがちだが、長野県では中高年を中心に蔓延し、実際にその日の患者さんも3人とも中高年の方であった。
HIVという感染症そのものにくわえ、社会からの偏見、一日たりとも欠かせない服薬治療、飲み忘れによる耐性ウイルスの増殖など、患者さんの心を煩わせることはいくらでもあるのだろう。CD4やウイルス量などの目に見える数値に一喜一憂しながら、患者さんはこの病気と生涯付き合っていくことになる。しかし、実際に診察室で患者さんを前にすると、彼らがどこにでもいそうなあまりにも普通なおじさん・おばさんであることに少なからず驚かされた。私が勝手に持っていた悲壮な雰囲気は、一見すると見受けられなかった。
 1人目と2人目の患者さんは中高年の男性であった。1人目の方のウイルス量が増えていることを受け、先生が薬の飲み忘れはありませんかとたずねたところ、飲み忘れはないとの返事。しかし、診察室を出た後に先生がおっしゃるには、飲み忘れでもしない限り、そこまで検査結果の悪化は考えられないということであった。先生とのやり取りの間、その患者さんが見せるうつろな目を思い出し、なんとも切ない気分にさせられた。
2人目の患者さんも、同じくウイルス量の増加が認められた。問診の結果、こちらはHAARTの抗ウイルス薬と飲み合わせしてはいけない胃薬を飲んでいたためではないか、ということになった。患者さん向けの冊子をその患者さんに渡し、飲み合わせの説明をしたところ、患者さんは合点といった顔をした。しかし、患者さんが診察室を出たあとに先生がおっしゃるには、以前にも飲み合わせの説明はしているし、おそらくこれからも患者さんは飲み合わせの悪い薬を飲み、数値を悪化させるのではないか、ということであった。HAARTの登場によって、もはやHIVは死の病ではなくなったが、HIVやその治療と向き合っていくことが思いのほか困難であることを思い知らされた。
3人目の患者さんは、60歳過ぎだろうか、おばちゃんであった。ベージュの帽子を被り、きれいに着飾ったその患者さんは、彼女の明るい雰囲気からも、年齢からも、私の抱いていたHIV患者さんのイメージからはかけ離れたものであった。2人目の患者さんと名字が同じだと思ったら、2人はご夫婦ということであった。
そのとき、以前先生がおっしゃっていたことを思い出す。旦那さんがHIVの場合、奥さんも感染していると分かったとき、残酷かもしれないが安心する。HIVに感染しても奥さんにそれを感染させないような関係のカップルの場合、離婚に至るケースが多い。HIVに感染し、家族までも失った人は、ウイルスによって命を落とすのではなく、自らの手によって命を絶つケースがとても多い。一方、カップルでHIVに感染したケースでは、HIVに向き合うためのパートナーがいるわけで、独り身のケースよりも比較的良好な経過をたどることが多い。そんなことを先生はおっしゃっていたのだった。
さて、そんな彼女の診察中、ひとつ気になることがあった。彼女が「今日もお願いします」と言って、黒いビニール袋を先生に手渡すのである。最初、ここが田舎なだけに、家で採れた野菜や漬物などを、お世話になっている先生に差し入れに持ってきたのかとも思った。それにしても、数枚重ねにしたその黒いビニール袋は何か不自然であった。診察が終わり患者さんが診察室から出ていった後で、私は先生から、袋の中身が何か分かるかと尋ねられる。もちろん私には答えは分からない。が、先生にその袋を持たせてもらい、思いの外軽いことに気づく。結局答えが分からないまま、その黒い袋を開けさせてもらう。中身を見て驚く。中身は、HIV治療薬の空になったプラスチックのケースだった。先生がおっしゃるには、仮にも近所にそのケースを捨てたとき、ご近所さんからHIVの治療を受けていることが知られるのが怖く、そのために病院でケースを処理してもらうために患者さんは毎回ケースを持ってきているということであった。日本におけるHIVの受け止められ方を知らされるような、印象的な診療見学であった。

2009年10月22日木曜日

最近のひとり言

最近のひとり言

その1、ケンが帰ってこない
ケンがなかなか帰ってこない。


その2、ハクナ・カジ
日本でもそれなりに認知度が高いと思われるスワヒリ語の言葉に「ハクナ・マタタ」があると思います(スワヒリ語であると認知されている訳ではないようですが)。
ディズニーのアニメ映画、ライオンキングの影響が大きいのでしょうか。
英語で表現すると「ノー・プロブレム」、「問題ないよ」の意味になります。
「ハクナ」が「○○がない」の意味で、○○の部分に単語を入れていろいろと活用できます。

たとえば、「ハクナ・マチチ」は、「マチチ」がおっぱいの意味なので・・・、といったように使います。

カジャドゥを表す言葉としては「ハクナ・マジ」がいいでしょうか。
「マジ」は「水」なので、「水がない」という意味になります。
ただ、例年雨の降ることのないこの時期ですが、今年はエルニーニョの影響で最近何度か雨が降っています。
大雨が降っても道が冠水しないよう道の横に側溝を掘り、まだ続くであろうエルニーニョの大雨にカジャドゥの町は備えています。

ケニアの問題を現す言葉のひとつとして、「ハクナ・カジ」があると思います。
「カジ」は仕事の意味なので、「仕事がない」の意味になります。
実際、1人でカジャドゥの町を歩いていると、「仕事を紹介して欲しい」とか、「日本にいい仕事はないのか」とよく声を掛けられます。
最近も、ある知人からそんなことを尋ねられました。
今失業中なのだが、ADEOや他の団体に求職中のポストはないか、と。
ただ彼が今までの人と違っていたのは、何週間か前に彼をAPHIAⅡの職員として見ていたことでした。
VCT(HIVのVoluntary counseling and Testing)のカウンセラーの活動を評価するため、彼はリフトバレー州の本部から派遣されていたのですが、たまたま私がVCTを受けた後だったので、VCTの様子はどうだったかとインタビューがあったのでした。
またその後、彼が他の職員に渡す書類があるからと、オフィスに私しかいないときに彼と待ち合わせをし、彼からその書類を預かったこともありました。
インタビューのときの彼の紳士的な対応は印象に残っていましたし、オフィスで待ち合わせをした際、彼が遅刻することなく現れたのにはかなり驚かされたことは忘れてはいませんでした。
そんな彼も臨時の職員だったため、今は失業中とのこと。
大学を出ても「ハクナ・カジ」なことも珍しくないケニア。
難しい問題です。


その3、体調不良再び
火曜日、先週と同じ症状の体調不良にまた襲われました。
今回は昼間から調子が悪かったので、近くの診療所に連れて行ってもらいました。
今は元気です。
今回はお医者さんが出してくれた薬を飲んでいます。

ケンが以前に買ってきてくれた薬、200シリング。
何の薬かよく分からない薬を飲む不安、プライスレス。

今回の診察代と薬代、900シリング。
処方された薬を飲む安心感、プライスレス。

ちなみに、ここでは薬はばら売りにされています。


その4、英語
ケンの3歳だか4歳の娘さんが、最近保育園に行きだしているそうです。
何と驚くべきことに、そこで英語を習い始めているそうです。
先週末にケンの家に泊まったとき、その英語を披露してもらいました。
「Monday, Wednesday, Friday」とか、「Twenty, Thirty, Eighty」など、まだめちゃくちゃではあるのですが、きれいな英語の発音。
彼女の母親の、ケニア訛の英語よりも英語らしい発音だったのが印象的でした。

道端を歩いていると小さな子供から「How are you!?」とよく声を掛けられます。
まだ学校に通っていない彼らは、英語あまりを知らないなりに、知っている英語を「使う術」を持っているのだと、よく感じさせられます。
日本人の偏った英語の能力とは対照的ですね。

先日、日本の大学で教鞭を取っている兄弟がいるというおじさん(以前のブログ参照)と、カジャドゥの食堂で一緒にビールを飲みました。
食堂のテレビでは、キバキ大統領が英語で演説している様子が流れていました。
ケニア訛の英語で、原稿に目を落としたままゆっくりと演説する大統領。
そんな時、その男性は、「日本人は自分たちの文化に誇りを持っているから日本語しか使わないと聞いている」、「ケニアは共通の言語であるスワヒリ語を持っているのに、公の場では英語しか使わないのは残念だ」と語ってくれました。
その言葉を後押しするかのように、演説の締めくくりを大統領はスワヒリ語で行ったのですが、彼はスワヒリ語を話し始めたとたんに原稿から目を離し、活き活きと語りはじめるのです。
さらに、それにつられるかのように、今までテレビを見ていなかった食堂の人たちも、テレビに釘付けになるのです。
ケニアにおける英語の捉えられ方を現す、印象的な場面だったように思います。

国際コミュニケーション・ツールとしての英語。
今の日本の形がベストだとは思いませんが、どんな形での英語の受け入れ方が日本には求められているのでしょうか。

ビザ延長

先週末はナイロビのケンの家に泊まり、月曜日はナイロビのADEOオフィスに一度寄った後、有効期限が残り少なくなったビザの延長のため、イミグレーション・オフィスに行く。

最初はケンが連れて行ってくれることになっていたが、忙しいから一人で行ってくれと言われる。
イミグレーション・オフィスの入っているニャヨ・ハウスの場所自体は分かっていたし(ここではビルのことを○○ハウスと呼んでいる。森ビルではなくモリ・ハウスみたいな感じで)、手続は1人ででしかできないので、ケンの同伴がないことに特に問題はないのだが、実は先ほど、ADEOのオフィスでケンの同伴なく1人歩きをしないよう、イエローカードが出たばっかりであったのである。
タウンに行く分には構わないのでしょうか?

マタツに乗りさらに少し歩き歩きニャヨ・ハウスへ。
いろいろ不安を抱えつつ窓口へ。
記入する用紙を指定され、それを記入。
滞在先の欄にはカジャドゥと記入。
再び窓口へ並ぶのだが、正直滞在目的を聞かれないかドキドキ。
というのも、今回申請しているのがホリデイ・ビザだから。
本来NGOで働く場合であってもビジネス・ビザの取得が求められているのだが、過去のADEOの研修生の経験から、ビジネス・ビザではなくホリデイ・ビザを取るようにアドバイスされていたのだった。
もちろん日本で最初にとったビザもホリデイ・ビザであった。

当然ながら窓口でカジャドゥのそこで何しているのかと聞かれる。
彼女の言葉をオウム返しにし、一瞬言葉に詰まる。
視線が宙を漂い、考えてきていた言い訳を言おうとその視線が係員の元に戻ったとき、既に彼女は特に気にも留めていないことに気づく。
そして2200シリング払えと言う(日本円にして2500円ほどでしょうか。円高が進んでいるらしいですね)。
あら、安い。
そしてドルじゃないのですね。
あとでレシートを見たら2000シリングと書いてある。
差額の200シリングは何なのでしょうか。
ちなみに、あらかじめ入管のウェブ・サイトで必用書類や代金をチェックしていたのだが、そこにはシングル・ビザ50ドル、マルチ・ビザ100ドルと書いてあった気がする。
いろいろな金額が出てくるのはなぜなのだろうか。

よく分からないまま隣の窓口に行けと言われ、何か係員がした後、さらに隣へ。
書類を渡したまま、しばし待てと言われる。
近くのベンチに掛けて待つ。

前にいるのはインド人の子供。
かわいい。
髪の毛どこで切るのか聞きたかったが、一緒に遊んでいるうち結局聞くのを忘れてしまう。

不思議な風景。
黒人、白人、インド人、同じブルーのシャツを着た中国人3人組。
みんなどんな理由でここにいるのでしょうか。

しばらく待った後、何人かの名前が続けて呼ばれる。
その際呼ばれたのは、5人ほどいただろうか、私以外全員白人。
係員が何かを言い、私は何を言っていたのか聞き取れなかったが、白人たちについていく。
別室の前で待機、1人ずつ名前が呼ばれるよう。
恐る恐る、ガラス越しに中をのぞく。
滞在理由を聞かれるのかと心配に思っていたが、何と指紋押捺。
それも全部の指。
これで私ら犯罪者予備軍扱いですな。
そして法医学実習を思い出しますな。
私も真ん中あたりで名前を呼ばれる。
最初とか最後だったらもっと緊張していただろう。
笑顔ながら硬くなる私は、「リラックスして!」と言われる。
おばちゃんは緊張で硬くなった私の指を無理やりインク台、そして紙に押し付けるのだが、とてもうまくやっているように思われる。
実は法医学実習のときに採取した指紋を記念に取っており、いまだに筆箱に入ったままなのだが、それよりもきれいな指紋押捺。
さすがプロですな!
その後、コットンでふき取る。
が、うまくふき取れない。
次の人のを見て、灯油か何かが手を拭くためにあるのに始めて気が付く。
が、完全にきれいにはならず、灯油も蒸発せず。

と、ここで次に何をしたらいいのか分からなくなる。
周りの白人がいなくなっており、かなり焦る。
係員に聞いても要領を得ず、そんな彼らの適当な対応に近くにいる白人君と一緒に苦笑いするのだが、最終的に、最初に出向いた窓口に行けばいいことが分かる。
なぜ5番窓口?と思いながらその窓口へ向かう。
列に並びながら、並んでいる理由が分かってくる。
そう、もうビザの判は押されており、後はパスポートを受け取ればいいだけだったのだ。
ビザ、ゲットです。

ちなみに、ビザはシングルかマルチか分からず。
申請用紙で、既婚か未婚かと問われているのかと思い、シングルの欄に丸をつけたのだが、あれはビザの種類だったのかな・・・?
確か、シングルの対はMで始まっていた気はするのだが、MarriedだったのかMultiだったのか。
あと、延長の期間は2月2日まで。
帰国までビザの更新を再度しなくてもよさそう。

朝は急いでいたのでトイレに行けなかったので、ハウス内で大をする。
先週からの下痢から回復。
めでたしめでたし。
と思いきや、間違えて女子トイレに入っていたようで、扉を開けてから軽く恥をかく。
そんなビザ申請の一日。

写真1、日本で取ったケニアのビザと黄熱病のイエローカード
写真2、ケニアで延長した際に押された印(右ページ)

ビザ延長、2200ケニア・シリング。
ケニアでの半年、プライスレス。

体調不良

木曜日、ナマンガでの活動の後4時ごろにカジャドゥに戻るのだが、強い倦怠感に襲われ、仕事を早退させてもらう。
そして家で横になる。

夜7時過ぎにケンが帰宅し目を覚ます。
熱があり頭痛があるのだが、何よりもしんどいのは足の筋肉が痛いこと。
十種競技の1日目、400mが終わった後のような痛み。
私がかなりしんどがっているのでケンが薬を買ってくるという。
自己診断・自己投薬はためらわれたが、ケンは症状を聞いたりすることもなくマラリアだと決め付け、そのまま出かけていってしまう。
しばらくしてケンが買ってきたのは、抗マラリア薬、抗生物質、痛み止め、後もうひとつ何かの薬。
日本円にして200円ちょいの値段ながら、でかい錠剤を4種類も買ってくる。
なお、ここでは薬はばら売りにされており、パッケージがないので薬の詳細はよく分からない。
明日病院に行こうとケンは言っており、医者に見てもらう前にやたらと薬は飲みたくなかったが、体もかなりしんどかったし、何よりもケンが強く勧めるので、おとなしくケンに従うことに。

最初、ケンは食前に薬を飲めと言っていたのに、薬を飲む前、近くに住むAPHIAⅡのスタッフがお見舞いに来てくれ、彼女が食後のほうがいいと言ったら、今までの言葉はなかったように食後に飲めと言う。
食前に飲んだら胃に悪いと言う。
食前に飲むのが怖かったので、私は食事の直前に飲もうと料理ができるのを待っていたのだが、彼女が来てくれたことに胸をなでおろす。
そして薬を飲むのがさらに怖くなる。

当初は飲んだ振りをしようかとも考えたりもしていたが、食後、指示されたとおりに薬を飲む。
そして就寝。

翌日目を覚ますと、昨日のしんどさが嘘のように体が軽くなっている。
調子の悪さは残っているが、横になっている分にはしんどさはない。
大事を取りこの日は仕事を休むことにしたが、それでも薬が効いたのだろう。
今となってはどの薬が効いたのか分からないが、めでたしめでたしである。

ちなみに、木曜・金曜と3組がお見舞いに来てくれる。
いずれもAPHIAⅡの関係者なのだが、とても嬉しかった。
来てくれたこと自体嬉しかったが、彼らの丁寧な対応も嬉しかった。
上にも書いたとおり、薬を食前に飲むように言っていたケンに、食後に飲むようにアドバイスしてくれたり、別のスタッフは手で熱を測り、「関節に痛みはないか」などとマラリアを心配して質問したりしてくれた。

連携

先週1週間はPEの活動活性化にむけて、具体的にはヘルスセンターとの連携を強化すべく活動した週であった。

月曜日には、キテンゲラのユースとのミーティングをスムーズに進めるため、会場の確保、ミーティングへの医療従事者の参加などのヘルスセンターからの協力について話し合われた。

またこの日の晩、先週であった韓国人の女性と一緒に晩御飯を取った。
韓国の仏教系団体で働いている彼女、私よりも長いことケニアにおり英語・スワヒリ語共に私よりも上で、それらを使いこなしてここに溶け込もうとしているのが分かる。
が、ムズング(白人つまり非黒人)がここにいること、そんな彼女がスワヒリ語を使おうとする姿に、何となく不自然な空気を感じてしまう。
多分私の姿も、現地の人には同じように映っているのだろうか。


火曜日はPEの活動とは関係はないのだが、この日もミーティングがあった。
毎年12月1日はWorld AIDS Day(世界エイズ・デー?) になっているのだが、この日にカジャドゥ県内でイベントを開催すべく、その準備のミーティングであった。
県内でHIV/AIDSに関わる団体(ステークホルダー)一同が市内に集まって開催されたのだが、APHIAⅡの直接のスタッフの他、ADEOなどのAPHIAⅡの下で活動している団体、APHIAⅡとは直接は関係のないがHIV/AIDSに関わるその他の団体などが集まる。
まず県内のどの場所でイベントを開催するか、という段階から話し合うのには驚かされる。
以前にもブログに書いたが、都市部よりも地方での感染拡大が憂慮されており、そんな流れを受けて、今年は県内でも比較的田舎のほうの町でイベントが開催される方向に。
外から来た私にはどんなところなのか分からないが、話を聞いているとかなりの田舎な気がする。
World AIDS Dayに私はカジャドゥにいないので参加できないので残念なのだが、カジャドゥに来た後すぐにマイリティサであったイベント並みの大きなものが開催されるのだろう。

なお、このミーティングには、以前マイリティサで出合ったことのあるアメリカ人の白人女性も参加していた。
実はその後にもカジャドゥ市内やナマンガで見かけたことがあるのだが、今回初めて話をする。
アメリカのピースコ(Peace Corp、平和部隊かな? 日本の青年海外協力隊のアメリカ版?) に所属しマイリティサで活動しているという。
多分50歳くらいで、資格だけだが看護師だという。
いかにもアメリカ人といった感じの彼女、アメリカンジョークを飛ばし、ミーティング前には、この会議は英語で進めるのかスワヒリ語で進めるのかと質問している。
かなり聞き取りやすい英語を話してくれるのでリスリングに疲れることはないのだが、そのハイテンションっぷりには疲れる。
ミーティングのあと、アフィアⅡのスタッフが彼女の真似をしており、出しゃばり過ぎると周りからはああいう風に受け止められるのだと反省されられる。
彼女などは英語が不自由なく使える分、その振る舞いで現地との距離を作ってしまっておりもったいないと感じさせられる。
そして、努力次第で何とかなる英語で周りとの距離を作ってしまっている自分ももったいないことをしているのだろう。
他のアイセックの研修生と違い、ケニア人以外と付き合う機会の少ない私、外国人と接するのもいい勉強になると感じる。

ミーティングのあと、近くの県立病院までHIVの担当者に会いに行く。
PEの活動の支援を相談しに行くもので、以前にも何度も彼女を訪れているのだが、毎回彼女は不在。
さすがに今回、ケンはアポを取っているのかと思いきや、聞いてみるとアポを取っているわけではないという。
結局今回も外出のため彼女には会えず、毎度だがケンの効率の悪い動き方にあきれさせられる。
当初の目的は果たせず、配布用のコンドームを受け取り病院を後にする。

さらに病院のあと、マジェンゴ・スラムでPEのところへ寄る(前回の投稿参照。ラクダ君の話)。


水曜日、午前中オフィスで仕事をした後、昼からマジェンゴへ。
主な目的はPEに出会って話を聞くこと。
もうひとつは、飲み屋や宿泊施設を回り、売春が行われていそうなところを新しく見つけること。
町外れに宿泊所を併設する飲み屋を発見。
宿泊所内には保健省の名前の入った立派なコンドーム・ディスペンサーがありテンションがあがる。
さらに店員に聞くとしばらくコンドームが補給されていないとのこと。
要検討ですな。


木曜日、ナマンガへ。
APHIAⅡの中でもHIVのHome based Careを担当している団体があり、その団体のスタッフと一緒に行く。
彼女自身、その団体の仕事があったのだが、それに加え、彼女にはPEとのミーティングの中でその団体が採用している活動手法を紹介してもらったり、また私たちの活動を彼女に見てもらい助言をもらったりする。

彼女の話を聞いたり、実際に彼女の団体のCHW(Community Health Worker、ADEOでいうところのPE的な存在)の活動を見させてもらったりすると、やっぱりADEOよりも活動的なのが分かる。
予防・啓発分野を担当しているADEOと違い、すでに感染した特定の人を対象とする活動のため、CHWも活動しやすいということもあるだろう。
予防という不特定多数が対象の活動は、やはりつかみどころがないのだろう。
だが、それ以上に我々に改善の余地が多く残されていることにも思い知らされる。

また、ここナマンガでもヘルス・センター(小規模の病院に保健所の機能を加えたような施設)へ行き、担当者と話をする。
PEとヘルス・センターの連携促進のためだが、少なくとも今までは全然連携が取れていなかったことが改めて明らかになる。
前出の団体とは連携が取れているので、問題がヘルス・センターではなく我々にあるのが分かる。

また、金曜日にもケンはキテンゲラで同様の時間を過ごす。
ただ、私は体調を壊し、この日は休ませてもらったので詳細は分からず。

いずれにせよ、この週はヘルス・センターとの連携をスローガンに活動した週であった。
PEの活動の低さの根底にはモティベーションやインセンティブの欠如があり、この週の活動が成功裏に終わったとしても、現状を大きく変化させることはできないかもしれないが、PEの活動の環境を改善できるという点では大きな意味のある活動であっただろう。

2009年10月15日木曜日

インタビュー



ケンはいつも夕食が終わると、時間に関わらずすぐにベッドにもぐりこんでしまうのだが、昨晩(12日)は珍しく仕事の話、特にこれからやりたいことなどの話をする。

簡単にまとめると、2人でPE(ピア・エデュケーター)にインタビューとアンケートを行い、ADEOのナイロビのスタッフにプレゼンテーションしようというものだった。
インタビューの内容であるが、ケンの意図としては、半分はPEのHIV/AIDSに関する知識をテストするためのよう。
そして残りの半分で、ADEOの活動に関わって変わったこと、ADEOに期待することなどを聞こうというものだった。
さらにそれらをまとめ、ADEOがカジャドゥのPEに与えたインパクト、コミュニティに与えたインパクトをプレゼンテーションするというもの。

与えられた課題以外の仕事の話を、ケンとこうやってするのは初めてだった。
カジャドゥに来た当初、夕飯後にAPHIAⅡのレポートなどを一緒に読み、ディスカッションをしようと提案してくれたケンだったが、そんなことがあったのも最初の2日だけであった。
仕事の話をしていても、結局は上司やPEの愚痴、交通費の支給が不十分なことに対する不満を語ってくるだけだった。
それが、ケンとこうやって建設的な話ができたのはとても嬉しいことであり、大きな驚きでもあった。

多分、私自身、勝手にいろいろなことを諦めていたように思う。
上司やPEの文句を言い、前向きな話と言ったら他の団体に転職したいとか地元でビジネスを始めたいといったことしか言わないケン。
PEとしての自覚も知識も不十分なようにしか見えず、ADEOからの見返りを期待してのみPEになっているのではないかと思われるPE達。
言葉が通じないことを言い訳に積極性のかけらも見せない私。

決められた単純作業以上の建設的な仕事の種が見つけられてよかったと思う。
カジャドゥでの残された時間は短いが、ケンと協力しながら、私の存在がプラスになるような活動ができればと考えている。

ある日の夕飯



13日、カジャドゥ市内にあるマジェンゴ・スラムのPEに会いに行ったのだが、そのついでに、まだ辺りも明るい頃、PEから早めの夕飯をご馳走になる。

私は以前にも何度かそのPEにご馳走になったことがあるのだが、ケンは今回が初めて。
正直2人とも乗り気ではなかったが、PEの勢いに負けご馳走になることに。

程なく出されたのは若干の味の付いたお米と、淡水産の小魚をトマトなどと煮たもの。
すでに調理されていたものを再加熱してくれたのだが、気持ち程度にしか温まっていない。
大きななべに大量に残ったご飯を混ぜることもなく練炭の弱火で温めるだけなので、ほとんどの部分は冷たいまま。
少なくとも以前は熱の通ったものを口にできたのだが、今回はその過程が抜けている。
衛生的な環境とはお世辞にも言えず、私は恐る恐るそれらを口にする。

一方のケン、どんな反応を示すのかと思ったら、
「最近胸焼けがするから、冷たいお米は食べられない」
と言い張り、お箸、否、スプーンをつけようとすらしない。
私が食べている横で、小声で「こんな食事は全然衛生的ではない」とか「この小魚はいい部分をスーパーに出荷した後の残りかすだ」とか、「この小魚はちゃんと洗えていない」などと散々なこと言う(ケニアの淡水産の小魚は十分に洗わないと泥と小石が残っているのだ)。
私たち2人だけに食事が出されていたのだが、PEの子供を呼んできて、彼に食べさせようとする。
さらに、彼が手で食べようとすると、「イスラム教徒はスプーンも使わないのか」とケンは言う。
私たちもいつもは手で食事をしているのに。

オフィスで他のスタッフとの話を聞いていて思うのだが、私がケンとPEの間に感じる以上の差・心の壁を、ケンはPEとの間に持っているのだろう。

そんなケンを横目に、気が進まないなりに私はスプーンを動かす。
思えば、以前にこのPEの家で食事をしたあと、一度お腹が痛くなったことがあった。
しかし、何かを諦めながら、煩悩を捨て、無心になり食べる。
いろいろ考えながら食べるとつらいので、心をリセットして食べる、そう表現したらいいのだろうか。
が、どうしても不安が頭から離れない。
お皿の周りにたかるハエ。
以前にここのトイレで用を足したことがあるのだが、その不衛生なトイレとそこにびっしりと集まるハエを目にしているので、今目の前にいるハエがどこから来たのだろうかと思うと怖くなる。

ついに何とか完食。
思えば、ここに来てから出されたものはほとんど残していないと気づく。
ただ以前に、どうしても残してしまったものがひとつ。
それは他のあるPEの家で出された、彼女の家で作っている伝統酒だった。
彼女ら曰くトウモロコシから作ったアフリカン・ウイスキーなのだが、密造酒という表現も可能な代物。
コップに注がれたとき、家庭で作るお酒によく含まれるというメチルアルコールのことも気になったし、水割りに使っている水の衛生面にも気になったが、そのにおい自体にノックアウトされてしまった。
なんとも言えぬ甘いにおい。
鼻で息をしないようにしながら、恐る恐る口にする。
と、口にした瞬間、吐き気に襲われる。
何とかそれをこらえ、口にした分を飲み下す。
頑張って飲もうとしたが、そのときは結局お猪口一杯程度しか飲めず、謝ってコップに残った分を辞退する。

さて話は戻るが、そのご飯も終わりかけた頃、骨付きの肉(肉付きの骨?) を煮出して作っていたスープを出される。
火が通っているのを目にしているからか、ケンはこちらには興味を示す。
まずケンは、どこで肉を買ったのかと尋ねる。
返ってきた答えは、町の中心にある食堂。
ちょうど昨晩私たちが食事を取った食堂であった。
そこは肉屋を兼ねた食堂ではないので、食堂で出された肉の余りということになるのだろうか。
さらにケンは、何の肉かと尋ねる。
答えはラクダ。
何と先日私も目にし、写真も撮っていたラクダだという。
あのラクダ君たちのうちの1頭なのか!
これが生きることの本当の姿なのか!

スワヒリ語の会話の後、ケンに訳してもらいワンテンポ遅れながら会話に付いていく。

さて、アロエと共に煮たそのラクダ汁、まずケンが口にする。
ケンは悪くないとの感想。
それを聞き、私も口にする。
何と表現したらいいのだろうか、この味。
ケニアの肉、特によく口にするヤギの肉は日本の肉にはない獣臭さがあるのだが、そんな獣臭さを煮詰めたような味と表現したらいいのだろうか。
正直言って、まずい。
が、飲めないほどのものではなく、残すのも申し訳ない。
最後野嘔吐中枢が活性化され、下からこみ上げるような感覚に襲われつつも、「これはおいしいはずだ」と自分に言い聞かせながら何とか飲み干す。

なんともつらかった。
まずさもつらかったが、せっかく出された食事、PE家族の貴重な食材を削って出された食事を、喜んで頂いていない自分にもつらさを感じた。

そんなある日の夕飯であった。
写真:調理中、調理後

2009年10月11日日曜日

ポレポレ

今まで週末はナイロビに行ったり人に出会ったりしており、それなりに忙しく過ごしていたのだが、珍しく今週末は特に予定がない。
本当は、日本に姉妹がいるという月曜日に出会ったケニア人の家に遊びに行く予定だったのだが、昨日予定の確認の電話をしたら忙しいからやっぱり無理との返事が返ってきていたのだった。
ケンは昨日の夕方からナイロビに行っており、なのでカジャドゥに私1人。

10月も上旬がもう過ぎ去ったのだが、この10日間を振り返ってみると、大して仕事をしていないことに気づく。
前回のブログにも書いたように、一度、HIV感染が疑われた男性をVCTセンターに連れて行ったのが、それだけのためにほぼ2日を費やす。
PE用のIDカードのフォームを作ったのだが、それも大した時間はかからなかった。
(ただ、ポレポレと仕事をするケンは、そのフォームに写真や名前、その他の情報を入力する作業をいまだに終わらせていないのだが)
その他にも、配布用のコンドームを病院に取りに行ったり、APHIAⅡの報告書関係の作業が若干あったのだが、それとて大した仕事ではなかったように思う。
日本に比べ、消化している作業量がとても少ないように感じる。

今まで前任者が掛け持ちという形で担当していたここカジャドゥの業務。
そこに専属でケンが配置され、さらに私が加わっているわけなので、仕事が少なくても当然なのかなとも思う。
ここに来た当初は、前任者がまとめていなかった資料をまとめたりの作業があったが、それも終わってしまうと日常業務と呼べるものがあまりないのだろう。
交通費の補助が出ないため、ケンはカジャドゥ市内以外のプロジェクト地にわざわざ行ってPEの活動を見ようとはしたがらないし、今週はIDカードの作成という、ケンにとってはハードワークがあったので、カジャドゥ市内のPEの活動にも顔を出していないし。

そんなことを言っている私も、すっかりと彼らのポレポレとしたペースに慣れ切ってしまっている。
そして、何もすることがないとき、日本から持ってきた英語の単語帳を眺めたりするのである。
最近のマイブームは、データ管理ソフトであるマイクロソフト・アクセス。
今までほとんど触れたことがなかったのだが、APHIAⅡの報告用にアクセスが今月から導入され、そこでアクセスの面白さに気づいたのである。
以前に陸上部の主務をしており大会の記録の管理などをしていたのだが、アクセスがあればそんな作業が楽にできたんじゃないかななどと思いながら、ここ1週間少しずつ勉強中。

が、考える。
体も頭ものんびりとしたこんな生活を送るためだけにわざわざここまで来たのかと。
医学部の6年の中でも一番得るものが大きいと思われる5年目を休んでのこの1年。
この期間で自分なりにゆっくりと考えたかったこと、ヒントを見つけ出したかったこともあるし、研修中に私なりに現地のために何か生み出せるものがあればと思っている。
が、そんなモヤモヤをカタチにするような行動をいまだに起こせていないのが現状。
カジャドゥにいられるのも残りあと1ヶ月ほど。

ケニア人のようにポレポレと生活するのに慣れるのはいいが、頭の中までポレポレになってはいけないのだろう。
焦らず腐らず。

そんな土曜日の昼。
電車も自転車並みの速さでポレポレと進みます。

単純作業

ここ最近の仕事。

APHIAⅡに活動報告書を提出するのだが、これが無駄の多い単純作業。
PEの活動実績を各人ごとにまとめるのだが、その数字を羅列しただけの表を、なぜか3種類提出する決まりになっている。
ほぼ同じ内容の表というか報告書を。
ひとつは手書きで、ひとつはエクセルで、ひとつはアクセスで。
エクセルやアクセスの入力方法の詳細な指示がなく、自己流に入力している部分もあり、APHIAⅡの組織の上のほうで、報告した数字がちゃんと処理されているのか疑問を感じたりする。
そんな単純作業。


もうひとつはPE用のIDカードの作成作業。
写真入でラミネート処理されたIDカードを作ると、以前にPE達にケンが口約束していたらしいのだが、そのまま放置されていた仕事。
前回の月例ミーティングの際にそのことをPE達から指摘され、ケンもさすがに作らないとまずいと感じたのか仕事を始める。
ケンは最初、ワードを使って自力で作ろうとするのだが、残念ながらサイズがまちまち。
彼の仕事を奪うのはよくないと思いつつ、最初のデザインだけは私がやることに。
私が名刺作成用のワードのフォーマットを持っていたので、まず私がそれを使ってIDカード用のフォーマットを作る。
そして、ケンがそこにPEの写真や名前などをコピー・ペーストしていく。
写真のサイズを調整し…と、時間のかかる単純作業。

季節

心の中で休学をはっきりと決めてからだろうか、日本にいた頃、季節の変化を以前にも増して強く感じていたと思う。
夏から秋へ。
秋から冬へ。
冬から春へ。

都心で暮らしていたのなら季節の変化とは気温の変化程度のものだったのかもしれないが、高知という土地柄か、季節を感じさせるものが周りにあふれていたように思う。
特に、通学路の横に広がっていた田んぼなどは、季節に合わせてその表情を変えていたように思う。
あるいは、大学の門から伸びる桜並木。

そんな自然の移り変わりを目にし、心洗われるというよりも、なんとも言えぬ焦りを感じていた。
知識が身に付いている感触がなくとも試験にさえ通ってしまえば進級でき、そんなことの繰り返しで過ごしてきた今までの大学生活。
確実に学年は上がっていくのだが、その先が見えずにいた。
私の中身だけが取り残されたまま、季節が、時間が、足早にその横を駆け抜けていくような感覚。
葉の色が変わったかと思ったら、いつの間にか葉を落とした桜、いつの間にか小さなつぼみをつけた桜、いつの間にか満開となった桜、いつの間にか葉桜となった桜。
コスモスが咲いていたと思ったら、いつの間にか乾燥した土だけが広がる田んぼ、いつの間にか耕され、いつの間にか水の張られた田んぼ、いつの間にか田植えがされ、いつの間にか青々と成長した稲をたたえた田んぼ。
移り変わり行く季節を感じるたびに、いつも焦りを感じていた。

あるいは、来年は今と同じ場所で同じ景色を見ているのだろうかとぼんやりと考えながら、季節を感じていた。

私が日本を経ったのが8月上旬。
夏も盛りに向かっていく時期だったが、今はもう秋風が吹き始めている頃だろうか。

それに引き換え、ここ赤道の国ケニアでは、日本ほど強く季節を感じることはないのだろう。
確かに、ケニアに来た頃よく来ていたジャンパーを着ることも最近はほとんどないし、四季ならぬ雨季と乾季がケニアにはある。
だが、少なくともカジャドゥにいる限りでは、日本での2ヶ月分の季節の変化に相当するほどのもを感じてはいない。

そんなケニアで時間の経過を感じさせられるのは月の満ち欠けだろうか。
街灯のない高知の通学路でも月の満ち欠けはよく分かるのだが、季節の変化がない分か、月の満ち欠けはこちらのほうが印象に残る。
キムと過ごしたナイロビで満月を見たのだが、すでに2度、同じ満月をカジャドゥで目にし、そしてそんな満月もすぐに欠けてゆく。

ゆっくりながら、しかし確実に過ぎ行く時間。
そんな時間の中で、1年間大学を休学しただけの価値ある時間を、ケニアで研修するだけの価値ある時間を、今まで過ごしてきたのだろうか。
これから過ごすことができるのだろうか。

2009年10月6日火曜日

最近の出会い

最近の出会いをいくつか

1、大学教授
ひとつめの出会いは、カジャドゥからナイロビへのマタツの中で。
ナイロビへの1人道中、ずっとうたた寝をしていたのだが、ナイロビ市内に入ったあたりで目を覚ます。
マタツが目的地に近づき私がキョロキョロした後からだろうか、後ろに座っている2人組みがこそこそと何かを話している。
私のことを話しているのかなとも思いつつ、最初は特に気にしていなかったのだが、途中で彼らが日本語の単語を口にしているのに気づく。
振り向くと、遠慮がちに「こんにちは」と声をかけてくれる。
ケニア人の中年男性。
きれいでもなく、かと言って汚くもない、少しくたびれた感じの服を着た、普通のおじさん2人。
「どうもありがとうございます」や「おはようございます」といった言葉を知っており、「Good bye」は何というのだったっけ、などと言葉を交わす。
不思議だったのは、観光客相手の商売人のがつがつした感じや、若い人が声をかけてくるときの好奇心旺盛な感じではなく、彼らの遠慮がちな姿勢。
そして、彼らの知っている言葉が、少しばかり丁寧な言葉な気がする。
不思議に思って、どうして日本語を知っているのかと尋ねる。
曰く、彼の兄弟が長いこと日本の大学でスワヒリ語を教えているのだという。
なるほど。
スワヒリ語を扱っているだけあり、その大学は誰でも知っているような超一流国立大学。
そんな兄弟から日本語のイロハを習ったから、彼らがきれいな日本語を知っているのか。

ターミナルに到着するまでのしばらくの間、彼らと話をする。
彼らも、APHIAⅡの関係でカジャドゥで仕事をしているのだという。
詳細は分からないが、USAIDと契約を結んでいる団体の正規のスタッフではなく、ADEOでいうところのPE(Peer Educator)のような身分なのだろうか。
ケニアの田舎で仕事を持っているということは、決して悪い境遇ではないのだろう。
そうは思うが、どうしても日本にいるという彼の兄弟と比較してしまう。
その兄弟が日本でどんな生活をしているのか分からないが、少なくとも彼のようなくたびれたシャツは着ていないのではないかなと考えてしまう。
日本にいるときも時々感じていたし、ケニアに来てからより多く感じる機会のあった、この時代、日本という国の、あの両親の元に生を受けた私と、目の前にいる他者の、圧倒的な運命の違いという、不思議な感覚。
そして、同じ兄弟ながら、ケニアの田舎町に暮らす彼と、日本の大学で教鞭を取る彼の兄弟の差。
人間どんな人生が幸せな人生なのか分からないが、一人ひとりが全く違う人生を歩んでいるという事実に、なんとも言えぬ不思議な感覚を覚える。

すぐにターミナルに到着してしまい、いろいろな話はできなかったのは残念だったが、何はともあれ、カジャドゥで仕事をしている人の中に日本をよく知る人がいると分かり、とても嬉しい出会いであった。


2、HIV患者
ふたつめの出会いは、病院への紹介患者さん。
オフィスで仕事をしているときにPEから電話があり、病院に紹介したい人がいるから、時間があったら来てくれとのこと。
急ぐ仕事もなかったので、昼頃に私一人そのPEの家へと向かう。
すぐに病院に向かうのかと思いきや、その患者さんは来ておらず、まずは昼飯でも食べていけと言われる。
昼ご飯の用意が続いている頃、その患者さんが家に来る(実は私、その男性が病院に紹介する予定の人だと理解しておらず、しばらくはPEの単なる家族か親戚の1人だと思っていたのだが)。
痩せ身の中年男性。
昼ご飯を待つ間、そして昼ご飯を食べながら彼の話を聞く。
スラムでよく見かける、仕事にあふれたさえない風体の彼だったが、珍しくきれいな英語を操る彼。
話を聞くと、かつて小学校の教員をしていたのだという。
それだからか彼は博識で、日本のこともよく知っている。
太平洋戦争のこと、沖縄のこと、天皇のこと、そして日本赤軍のこと。
私ですら知らないことを知っており、さすがに小学校の教員のレベルを超えているだろと思ったら、30年ほど前に日本人と話をしたことがあるのだという。
その日本人というのが日本赤軍のメンバーで、国外潜伏の中でケニアにも滞在していたのだという。
その日本人は、英語・スワヒリ語堪能で、マサイの村々に滞在していたのだという。
30年以上前の話で、どこまで正確な話なのかは分からないが、ケニアの片田舎のスラムで聞く70年代日本の話題に食事の手を動かすのも忘れ聞き入る。

日本の話題と共に彼が語ってくれたのが、彼の性遍歴とそれにまつわる性病の数々、そしてアルコールと薬物依存の話であった。
詳細は省略させてもらうが、小学校教員をしていたまじめな頃の彼から、多くの歯が欠けやせ細った目の前の彼の姿へと至るまでの経緯にも、また聞き入ってしまう。
そして、STIの医学的知識のなさに反省させられる(SyphilisのTerminal Stageってどんなんだっけ? CBTの範囲だったよな…)。

結果、あまりにもゆっくりと昼ごはんを食べることになってしまい、PE曰く時間が遅いからと、病院への紹介は翌日することになる。
のんびりと食事をすることになったのは私のせいだが、病院に行くのを翌日に延ばすあたりには驚かされる。
さすがケニア。
さすがポレポレ。

翌日9時に待ち合わせをしたのだが、彼がPEの家に現れたのが10時前。
お茶(ミルクティー)や軽い朝食が出され少しくつろいだ後、さあ病院へ行くものかと思いきや、今度はPEが用事があるから待っていてくれと言う。
彼女が戻ってきたのは12時前。
昼食を家で食べてから病院に行こうと言われるが、そんなことをしていたら今日も病院にたどり着けなくなるのではないかと思い、彼らを説得して12時ごろ出発。
病院までの道のりをゆっくりと歩き、何とか病院着。
長かった。

ちなみに彼の紹介案件は、彼はHIV1ポジティブながら治療を受けていないので、治療につなげるべく検査を受けに行くというものであった。
病院の受付ではなく、まずは附属のVCT(Voluntary Counseling and Testing)センターに行き、HIVの有無の簡易検査をすることに。
精密検査から始めたらいいのにと私は思いつつ、別室に入っていった彼を待つ。
簡易検査の割に、かなり長いこと待ったと思う。
HIVポジティブの彼のために、特別丁寧にカウンセリングが行われたのだろうか。
そして、扉が開き、彼とカウンセラーが出てくる。
部屋に入ったときと変わらぬ表情の2人。
カウンセラーが「彼は大丈夫ですよ」と言う。
そうか、これで彼は治療につながるようになるのかと思う。
「あと2年もしたら自分は死ぬんだ」と言っていた彼も、抗HIV治療のスタートラインに立つことができたのか。
そんなことを私は思う。
が、話を聞いていると、何かが違う。
私の考えていたことと大きく違う。
何と、「大丈夫ですよ」というのは、「HIVネガティブですよ」の意味だったのだ。
あれ。
ずっと彼が自分はHIVに感染していると言っていたのは何だったのだろうか。

HIVに関わらず、他にも彼の健康状態に関しては憂慮される点も多かったが、カウンセラーの判断では特に問題ないということらしく、治療費のない彼に病名を付けることは彼にとってプラスには働かないのかと自分自身を納得させ、VCTセンターを後にする。
彼といろいろなことを話せたのはとても貴重な経験だったが、本来の使命が思わぬかたちで幕を閉じ、なんとも言えぬ疲労感を味わうことになった2日間であった。

余談だが、彼の検査の後、同行していたPEが最近みぞおちの辺りが痛むということを言い、彼女の診察のために、登録カード代(※ケニアでは診察費は原則無料なのだが、初診時に登録カードというものの購入が必要で、これが初診料の代わりになっている。医療機関によってその値段は異なるそうで、カジャドゥの公立病院は80円ほど)を私が払うことに。
以前にも同じようなことを書いたが、サステナビリティという観点からも、PEとスタッフの関係性を考えても、決してほめられた行為ではないし、私自身こういうかたちで自分の財布を開くことには大いに抵抗を感じるのだが、彼女の勢いに負けてしまう。
彼女は比較的アクティブなPEだし、こうやって紹介のために多くの時間を割いてくれているのは確かだが、私の懐からその報酬を出したことに複雑な心境になる。
彼女の家で食べた食事とそのお金を頭の中で天秤にかけたりもするが、そういう問題ではないだろうとも思う。
100円もしないような話だし、アルコールに消えるわけではなく彼女の健康のためになる訳だが、それでも私の頭を大いに煩わせてくれる一件であった。


3、ヨコハマ
みっつめの出会いは、カジャドゥの町中で。
簡単に説明すると、日本に滞在経験のあるケニア人に出会ったということ。
彼はJETRO(日本貿易振興会)の補助でアフリカの品物を輸出する仕事をしており、横浜に事務所があるらしい。
彼自身はナイロビに住んでいるのだが、カジャドゥの親戚に会いに来たとのこと。
昼食に誘ってもらい、彼らの親戚と一緒に食事を取る、というかひたすらビールを飲む。
なんと驚いたことに、ケニア人4人のメンバーのうち2人が日本にシスターがいるという。
それも同じシスターではなく、違う兄弟のシスターが。
そんなことで、日本の話で盛り上がる。
電車や女性専用車両の話、サラリーマンの話、日本人の勤勉さ、日本製品と中国製品などなど。
ケニア人から見た日本の話を聞くことができ、とても面白かった(かなり能のない感想)。
そして、外国人、特に黒人にとって日本は決して暮らしやすい国ではないのだろうとも感じる。
日本にいるナイジェリア人やケニア人などのアフリカ系黒人は、「どこから来たの?」と聞かれても、アメリカと答えることが多いという、以前に読んだことがある記事の話を思い出したりする。
確かにそうなんだろう。
どうするニッポン!?

食事をおごってもらっただけでなく、彼らの1人が電気屋だったので、家の壊れたコンセントのソケットをただで直してもらう。
これで家でパソコンが使えます。

ケニアに来てから、実際に日本に行ったことのあるケニア人と話ができたのは初めてだったので、とてもいい経験だったし、それがナイロビではなくカジャドゥであったのもまた面白いできごとであった。


4、エイシャン
初めてカジャドゥに長期滞在する白人(非黒人)に出会いました!
それもアジア人(エイシャン)。
昨日(5日)の朝、オフィスに行こうと道を歩いていたら、ひょっこり東アジア系の顔をした女性が現れるではありませんか。
ちょうど子供に向けて大声で日本語の歌を歌っていたところなので、日本人だとこれは恥ずかしいなと思いながら、最初「ニーハオ」と挨拶。
するとキョトンとされたので、英語で話しかけたところ挨拶が返ってきたのですが、話を聞くと彼女は韓国から来たそうです。
彼女もここカジャドゥで、韓国系の団体で働いているそうです。
時間がなかったのでゆっくりと話をすることはできなかったのですが、また機会を見つけて彼女と話ができたらなと考えています。
以上簡単な報告でした。

2009年10月3日土曜日

今回も言い訳



今回、またブログを更新しない期間を更新してしまいました。
今回もブログを更新しなかった理由(言い訳)や、その間のこと、そして最近気になった新聞記事などを中心にまとめさせてもらいます。


言い訳1 ~ソケットの故障~
ブログを更新できなかった理由ですが、最初に挙げられるのが、家のコンセントのソケットが壊れていたからということです。
いつも体を洗うためのお湯は電熱器で沸かしているのですが(ケニアの多くの家庭ではそうしているようです)、電熱器があまりに強力でコンセントの許容量を超えていたからか、コンセントがしっかりと取り付けられていなかったからか、ソケットが溶けてしまっていたのです。
家にひとつしかないソケット。
そのソケットを使い、晩、ケンが寝た後にブログ用の原稿を作成していたのですが、そのソケットが使えないため、家で原稿作成ができなかったのです。
とは言え、オフィスでうまいこと時間を作り、原稿を作成することもできないことはなかったので、正直なところ私がサボっていたから原稿ができなかっただけかも知れませんね。

ちなみにそのソケット、新しいソケットを買ってきて交換しようとしたのですが、ケンが新品のソケットを必要以上に分解したために組み立てられなくなり、いまだに使えないままです。
最近は忙しく修理のために電気屋さんを呼ぶ時間がなく、携帯の充電とお湯を浴びるための電熱器にしかコンセントを使わないケンにとっては優先順位がさほど高いようではなさそうで、一体いつになったら直るのでしょうか。


言い訳2 ~やる気~
ブログを更新しないまま放置していた最大の理由は、どうしてもやる気が出なかったからなのかと思います。
ケンの指示を待ながら仕事をし、その仕事自体に疑問を感じることもしばしば。
しかし一方で新しいことを提案する能力(企画力、行動力、言語力などなど)がないために、結局ケンの補助のようなことしかできない毎日。
そんな毎日を前に、ここ最近どうしてもやる気の出ない日々が続いていたようです。

一度、倦怠感から仕事をする元気がどうしてもわかず、気分がすぐれないからと一日休みをもらい、家で休んでいたこともあります。
ただ、今は気分を立て直しまた元気になっています。
どうぞご心配なく。

以上、ブログを更新していなかった言い訳でした。


最近のできごと1 ~マンスリーミーティング~
毎月、月末にあるPEとのミーティング。
今月(9月)もカジャドゥ県内の4つのプロジェクト地でミーティングがありました。
カジャドゥに来てから程なくしてあった8月末のミーティングから、もうすでに1カ月が経ったのかと思うと、かなり驚かされます。

前回はカジャドゥ市内とナマンガでのミーティングに参加したのですが、基本的に見学という立場でした。
なので、今回は自分も何かできないかと思い、HIVや休学後に参加した高校でのピア・エデュケーション活動を中心に、日本の話をできないかとケンに提案しました。
が、今回はケン以外にもAPHIAⅡのスタッフが監督に来ることになっているらしく、余計なことしないほうがいいかと判断し、今回は見送ることにしました。

お偉いさんが参加しているからか、私語も少なく前回よりも締りのあるミーティング。
が、あまりに私語が少なく、彼が「Let’s have one meeting!」と言うものだから、隣のPEにスワヒリ語を通訳してもらうこともできず、内容を十分に把握できないままにミーティングは進んでいきました(まあ仮に通訳してもらったとしても、PE達は専門的な英語を使いこなせていないようなので、通訳は難しいようですし、私のリスニング力に問題があり、十分に通訳してもらったことを理解することはできないのでしょうが)。
PE達が活動中に疑問に思ったことに対して、APHIAⅡのミーティングやコミュニティー・ヘルス・ワーカーがコメントするという時間があったのですが、私にコメントを求められることは特にありませんでした。
時に私のほうが正確なことを言えるのではないかと思うこともありますし、ミーティングの初めには医学生であること、医学的なことはある程度コメントできると思うと自己紹介していたので、私に話を振られないことにじれったさを感じました。
ただ、仮に私に話す機会が与えられたとしても、十分に英語を操れないであろうことは誰よりも自分自身が知っているので、何よりも私の力の低さにじれったさを感じます。

前回は参加しなかったキテンゲラとロンガイという2つのプロジェクト地のマンスリー・ミーティングに初めて参加できたこと、CSW(Commercial Sex Worker)を対象にしたプロジェクト地と(カジャドゥ市内とナマンガ)、Youthを対象にしたキテンゲラとロンガイの違いを実際に見られたことはよかったのですが、結局、相変わらず何のアウトプットもできないままのミーティングではありました。


最近のできごと2 ~守秘義務~
ここカジャドゥでの仕事は、おもにPEの活動の監督なのですが、それに加え、PEが活動の中で見つけた病院に紹介したほうがいいと思われる患者さん候補を、市内にあるDistrictの病院に紹介するという仕事があります。
監督不十分なためかPEたちはけっして活動的とは言えず、最初のうちは紹介はほとんどなかったのですが、ケンの上司からの指示があり、最近はポツリポツリと紹介が出てきています。
PE、紹介患者さんと共に病院に行くほか、ナイロビの病院でHIVの治療を受けていた患者さんが、カジャドゥに病院に変えたいので紹介して欲しいという要望があり、一緒に病院まで行ったこともありました。

一度、HIVポジティブの患者でもあるPEのために、他のPEと病院に行ったことがありました。
その後、この紹介の件は私の頭の中から忘れ去られていたのですが、上述のマンスリー・ミーティングがあった晩、ケンがその紹介のことを覚えているかと聞いてくるのです。
どうしたのかと思ったら、その紹介患者であるPEがHIVポジティブであることを含め、私と病院に行ったもう1人のPEが、その紹介のことを周りに喋っているのだと言います。
HIVのことを話されたPEは、それまではそのステータスを周りにはカミングアウトしていなかったらしく、とても落ち込んでいるとのこと。
私と病院に行ったPEは、白人と仲良くしていることを自慢したかっただけなのかも知れませんが、HIVのステータスを話された側にとっては大問題。
彼女の落ち込み様は、到底私には分かり合えるようなものではないでしょう。

ケンは特に私を責めたりはしないのですが、ここ田舎町のカジャドゥでは私の存在が目を引くだけに、殊に個人のHIVの問題に関しては慎重に行動しなければいけないのだと反省させられます。

そして、改めてHIVのカミングアウト(ディスクロージャー、公開)の困難さを感じさせられます。
HIVのことを話したPEについて、「差別を煽っている」と憤るケン。
他者のHIVのステータスを喋ることイコール差別を煽ることだとは私は思いませんが(私にも問題があったのに、こんな言い方は横柄かも知れませんが…)、それでも差別を煽ることにつながると捉えられるのが現状。
そして、HIVのスティグマを減らすためのメッセージを発信する立場にあるPEでさえ、自分のHIVのステータスは人には話せないという現状。

HIVのことを話されたPEには言葉を尽くしても謝罪することはできず、自責の念に駆られますが、それと同時に、スティグマが根強く残っているのだと知らされる一件でした。


最近のできごと3 ~食事のお誘い~
少し明るい話題をはさみます。
家からオフィスまでの歩きでの通勤途中、愛想よく道端の人に挨拶をするので、顔見知りも増えています。
と言っても、相手は私のことを覚えていても、私は彼らの顔を忘れていることはよくあるのですが。
外国から来た私にもとてもフレンドリーなケニア人たち、今までにも何度か家に招待され、ご飯をご馳走してもらったことがあります。
ケンと一緒だとワンパターンな食事になるので、他の家庭の料理をいただけるのは嬉しい限りです。
正直なところ、「この人は私に何か見返りを求めているのかな」という気持ちは心の片隅にはありますし、ケンは私がひとりで他の家に行くことを心配してはいるのですが、彼らの生活の場に招かれ、家庭料理をいただけるのはとても貴重な経験ですし至福の時間でもあります。


最近のできごと4 ~日本人研修生と~
先週末、アイセックを通してケニアで研修している日本人のとの飲み会がありました。
アイセックと通しての研修は主にナイロビ市内のため、他のメンバーはナイロビでもよく出会っているとのこと。
ただ、私にとっては久しぶりの日本人。
日本で一度出会って以来のメンバーや、ケニアに来てから知り合ったメンバー、そして初対面の人もいたのですが、何か長いこと運命を共にした戦友のような気分になります。
日本人以外にも何人か他の研修生もステイしている、研修生ハウスと呼ばれるステイ先でのまったりとした家飲み。
お互いの研修先の話、そこでの苦労、日本語だから語れること、日本人同士だから語り合えること、そんなことをまったりと喋り合いました。
日本の外にいる者だからこそ、日本について、あるいはケニアをはじめ他の国について考えることも多く、そんなことが話題の中心だったように思います。

また、今週で日本に帰る研修生から蚊取り線香や日本食、日本語の本を譲ってもらいました。
ここケニアでは、日本食と本は心のビタミン。
皆さんありがとうございました。


おまけ
写真は親らくだ(1枚目)と子らくだ(2枚目)
カジャドゥでらくだを見かけるのはレアなことらしいです。
らくだは実際に目にするとかなり大きく、親らくだの顔などは目線よりも遥か上。
子らくだといえ、隣に並ぶのは少し怖かったです。


新聞記事

最近気になった新聞記事。

その1、HIVの感染率
1週間ほど前に「ケニアAIDS指標調査」なるものが発表されたそうなのだが、その中でもHIVの感染率に関する記事が大きく新聞に取り上げられている。
内容としては、都市部を中心にHIVの感染率が低下しているものの、地方では軒並み感染率が上昇し、ケニア国内全体の感染率も上昇しているという。
具体的には、ケニア全体では2003年の6.7%から7.1%へ、カジャドゥの含まれるリフトバレー州では2003年の数値は新聞に載っていないが、6.3%に上昇しているという。
都市部の感染率の低下を、コンドームの使用を呼びかけるキャンペーンなどの効果としながら、地方での感染率の上昇を、そのようなキャンペーンの不十分さ、貧困、教育の低さに焦点を当てている。

確かにナイロビでは、スラムを歩けばよくNGOなどで働いていると思われる白人に出会い、決して少なくない団体がHIVに関わっていると思われるし、街中を歩けばよく「VCT(Voluntary Counseling and Testing)」の看板を見かける。
そして一方では、カジャドゥのような田舎では援助系団体に関わっている白人は私だけであるし(そもそも商用で滞在している白人もいないようだが)、常時VCTを受けられるのは町の中心から離れた公立の病院付属の施設だけ。
APHIAⅡ関連でいくつかの団体がHIV関係の事業を展開はしているが、ナイロビ市内と比較すると、やはりその規模は不十分なのだろう。

ケニアに限った話ではないのだろうが、日本と比較すると、都市と地方、富める者と貧しい者の差を強く感じる。
多くの品物が手に入るナイロビ市内のスーパーマーケットと、パンといったら400gか600gの選択の余地しかないカジャドゥの商店。
買うものや着るものに限らず、そんな環境の差異の中で、価値観までも住む場所によって違ってくるのではないだろうかと思う。

これからの地方でのHIV関連キャンペーンの重要性をお偉いさんは語っているそうであるが、もしかすると、単にキャンペーンを地方でしたら済む話ではないのではないだろうか、とも思ってしまう。
何はともあれ、私たちの活動の必要性を確認してくれたわけでもあるので、残りの研修期間、がんばりましょう。


その2、HIVのワクチン
日本でも報道があっただろうか、アメリカ軍の協力のもとタイ政府が行っていたHIVワクチンの研究結果。
新聞によって取り上げ方のトーンが違うのだが、十分な効果が上がったとはいえないながら、ワクチンの研究が一歩進んだというもの。
HIVネガティブのボランティアをワクチン投与群と偽薬(プラセボ)を投与する対照群に分け、研究を始めた2006年から3年経った今年のHIVの感染率を比較したところ、わずかながらワクチン投与群のほうがHIVの新規感染数が抑えられていたというもの。
今回の結果については多くの議論の余地はあるそうだし、アフリカで流行しているウイルスとは型の違うものを対象にしたワクチンなのだそうなのだが、それでもこれからのワクチン開発に対して明るい光が見えたと言ってもいいだろう。

PEとのミーティングのあった日にこのワクチンの件が新聞に載っており、ミーティングでもこのことが話題に上っていた。
スワヒリ語の議論の中で置いてけぼりを喰らっていたので詳しい議論の内容は分からないが、大方の意見としてはワクチン開発を歓迎しており、これからの研究に期待しているといったところのようである。
私自身も、もちろん研究が進み、効果的なワクチンが開発され、新規にHIVに感染する人を減らせるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思っている。
が、しかし同時に、HIVに対して効果的なワクチンが開発されることに若干の不安を感じなくもない。
というのも、HIVというウイルスが恐れるものでなくなったとき、私たちがSTIに対して鈍感になってしまうのではないかと思うのである。

現在はHIVの知識がある程度普及し(あくまでもある程度!) 、決して十分とはいえないながら予防策の知識・実践が広がっているのではないだろうか (あくまでもある程度だが!) 。
ところが、仮にHIV感染を抑えるワクチンが開発されたとなれば、今まで築き上げられてきたセイフティーなセックスの実践が崩れ去るのではないだろうか。
あるいは、社会レベルでも個人レベルでも、STIに対する敏感さが薄れてしまうのではないか、そう私は思うのである。
当然ながらHIV感染症はわれわれの社会にとって大きな脅威となっているが、いわゆるSTIと呼ばれる感染症はHIV感染症だけではないし、健康を大いに害しうる感染症は他にも多数ある。
HIVの悪夢から開放されたとき、それと同時に私たちはSTIからも解放された気分になってしまうのではないだろうか。
STIに対する敏感さを失い無防備になったとき、私たちはまた新たに何らかの感染症の脅威に出会い、性懲りもなくまたうろたえることになることになるのではないだろうか。

あるいは、現在のようにHIVに対するスティグマが根強く残った社会的認知のされ方の中で、同時にHIV感染症が過去の病気になったとき、すでに感染した患者は、変わることのない社会からの厳しい視線を受けながらこれから残りの人生を送ることになるのだろうか。
今はHIVに対する関心が高く、予防啓発・治療と並びアンチ・スティグマのメッセージが社会に発信されているが、それでも社会はHIVと生きていくことを容易に許してはくれていないだろう。
それが、HIVが社会の脅威でなくなると、そんなメッセージも発信されなくなり、一方でスティグマは残ったまま強まりこそすれ、弱まることはないのではないだろうか。
そう考えると、HIVとまだ折り合いをつけられていないままワクチンが開発されると、すでにHIVを抱えながら暮らしている人たちにとっては、なんとも暮らしにくい世の中になるのではないだろうか。

折しも先週1週間、ケニアでは全国一斉に麻しん(はしか)の予防接種キャンペーンが展開され、街頭やヘルスセンターでは予防接種を受けるべく子供を連れたお母さんが列を作っていた。
それを見て思い出すのが、日本の麻しんの予防接種率の低さと、麻しん輸出国の汚名をいただいているという現状。
もう数年前の話になるが、首都圏を中心に麻しんが流行し、多くの大学などが休校措置を取ったのを皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。
かつての日本は、戦後の動乱期を経験しながらも、保健衛生分野には国民から高い意識が集まり、保健衛生環境の改善に成功したはずであった。
麻しんについても、今よりも断然認知度は高かったであろうし、それだけ予防接種に対する関心は高かったであろう。
しかし、予防接種が普及し身近に麻しんを見かけなくなったことで、逆に麻しんへの関心は下がり、関心の低下が接種率の低下を招き、そんな隙を突いて麻しんの流行がいまだに抑えられずにいるのが現状であろう。
それを考えると、HIVのワクチンが開発されたとしても、結局は同じようなことが起きるのではないのかと、ついつい悲観的になってしまう。
そして、それは麻しんやHIVに限ったことではなく、健康問題全般に対して言えることなのではないだろうか。
最近はメタボが日本で叫ばれているようだが(叫ばれていた?) 、そのうちメタボをうまいこと回避する薬などができるのだろう。
そんなことを繰り返すうちに、だんだんと私たちはカラダや病気に対する敏感さを失っていくのではないだろうか。
だらだらと同じような内容の話を繰り返したが、まとめとしてはそんなところである。


その3、一夫多妻制
新聞に、一夫多妻制を法的に認めるかどうかの法案が議論されている(もう承認されたのかな?) という記事が載っているらいく、オフィスで話題になる。
記事自体を直接読んでないので詳細はよく分からないのだが、一夫多妻制のほかにも男性に有利な内容の法案のよう。
以前から一夫多妻制の必要性を主張しているケンは嬉しそうに持論を展開する。
曰く、ケニアは男性の人口よりも女性の人口のほうが何倍も多い。
だから、バランスを取るために一夫多妻制を認めるべきだと。
んな訳ないだろと私は思うが。
オフィスの女性陣はもちろん一夫多妻制には文句を言っている。

だが、彼らの中にも賛否両論あるようだが、話を聞いていると、概してある程度の男女の役割の差を前提に議論しているような気もする。
男性優位な今の社会を前提にしているというか。
そして、男性陣があまりにも女性差別と捉えられかねないようなことも平気で口にするのには驚かされる。
仮に日本でそんなことを言ったら、男女問わず周りから白い目で見られるのではないかと思われることも、彼らは女性陣を前に気にせず喋る。

日本とて男女が平等に社会に関われる国だとは思わないが、ケニアの男女の地位のギャップの大きさはよく感じさせられる。
欧米的な価値観が絶対だとは思わないが、時に男女の扱われ方の違いにアンフェアだと感じることもある。
そんな状況がHIVの拡大とも無関係ではないと思われるし、彼らが納得できる形でだんだんと状況が変わっていくことを願ってしまう。



(写真はヘルスセンターの敷地で行われている麻しんの予防接種の風景)

名前

最近仕事について書くネタが思い浮かばないので、今回は私の名前を中心に話をさせてもらいます。

名前。
ご存知の方もそうでない方もいらっしゃるかと思いますが、私の下の名前は「おさむ」です。
日本人以外にとっては発音しにくいようで、自己紹介をするときはいつもどうやって名前を覚えてもらえばいいか迷います。

ナイロビにいるときは名前を短くし「サム」と呼んでもらっていました。
ナイロビでのホストだったキムも、本当はキクユ族系の長い名前なのですが、彼も周りに名前を覚えてもらうためにニックネームとして名前を短く呼んでもらっており、私もそれに倣って「サム」と呼んでもらうことにしていました。
また、「オサム」が「awesome」に似ていて、あまりよくないのではないかと言われたのもひとつの理由。
さらには、かの有名なオサマ・ビン・ラディンの「Osama」に発音が似ているというのが最大の理由。
9・11以降、日本人以外に「オサム」と言っても、「ああ、あのオサマ・ビン・ラディンのオサマね」といった言葉が返ってくることが多く、どうしてもそれが嫌で「オサム」ではなく「サム」と自己紹介するようにしていたのでした。

「サム・Sam」も悪くない名前だったのですが、ひとつ問題があるとしたら「some」と発音が似ているところでしょうか。
「some」は使用頻度の高い単語なので、よく自分が呼ばれているのかと勘違いすることがありました。

ですが、今ADEOのナイロビオフィスやカジャドゥでは「オサム」と自己紹介しています。
というのも、初めてADEOのオフィスで自己紹介をしたとき、ケンに「オサム」もそんなに呼びにくくないよと言われたからです。
それ以降、ずっと「オサム」と自己紹介するようにしています。
が、当のケンは私のことを「オサミ」と呼び、正しく発音してくれません。
時々、私の名前の入った書類などを見て、思い出したかのように「オサム!」と笑いながら名前を読んだりすることもあるのですが、呼び方が直る気配はない様子。
彼の影響でカジャドゥオフィスのみんなも「オサミ」と呼ぶので、今では「オサミ」のほうが慣れてしまっています。

なお、私の通っているネットカフェはイスラム系のお兄さんが経営しているのですが、彼などは私のことをわざと「オサマ」と呼びます。
イスラム教徒以外から「オサマ」と呼ばれるときは、笑いながら「オサマ」と呼ばれることが多く、それがどうも嫌だったので「オサマ」と呼ばれないようにしているのですが、イスラム教徒からは笑いながらそう呼ばれることはあまりありません。
本物の「オサマ」に対して少なからず共感を抱いている人も多いようですし、アラビア語で「オサマ」とは「ライオン」の意味らしく、彼らにしてみれば「オサマ」は決して悪い名前ではない様子。
なので、彼らから「オサマ」と呼ばれるときは、特に訂正せずにそう呼んでもらっています。

カジャドゥでのもうひとつの名前は「カン」。
同じ集合住宅内の子供たち、特に英語の分からない3歳位の子供たちや、近所の子供たちからそう呼ばれます。
ケニアの子供たちはアジア人を含めた白人を見ると「ムズング!(白人の意)」と声をかけてくるので、ここに来た当初は、「カン」もその類なのかと思っていました。
が、話を聞いてみるとそうではないよう。
私がカジャドゥに越してくる半年ほど前まで、韓国人建設業関係者の2人組みがその集合住宅内に暮らしていたらしく、そのうちの1人が「カン」さんだったようです。
英語の通じる子供たちにはもうちゃんとした名前、「オサム」と呼んでくれるのですが、それよりも小さい子供たちにとっては私は相変わらず「カン」のまま。
用事が終わって集合住宅の門を開けると、今でも彼らは「カン!」「カン!」といって駆け寄ってきてくれます。
「カン」は誰にでも呼びやすいようですし、中途半端に「オサミ」と呼ばれるよりも気持ちがいいので、彼らにはそのまま「カン」と呼んでもらっています。

ちなみにもう1人いた韓国人は「キム」さん。
家の近くの子供の何人かは私のことを「キム」と呼ぶのですが、あまりにも韓国風な名前なので私はあまり気に入っていないのですが、こちらは子供の間ではあまり普及していない様子。
カンさんの方が子供と親しくなっていたのでしょうか。

ナイロビにいる研修生の1人に「雄大」くんという日本人の友達がいるのですが、彼にとっても何と呼んでもらうかは問題なようです(口に出してみたら分かるでしょうか)。

ケニアの特に若い人たちは、いかにもケニア的な名前よりも、西洋的な名前、キリスト教の聖人に由来する名前が多い様子。
ミドルネームでおじいさんやおばあさんの名前を引き継いでいたりもするようですが、傍から見ていると伝統的な名前が減っていくのは残念な気もします。
その国らしく、同時に外国人にも覚えてもらいやすい名前というのは難しいですね。

2009年9月19日土曜日

ポエトリーと新宿二丁目

今回は、少し前のこと、8月上旬にナイロビに滞在していたとき、キムに連れられて一度足を運んだポエトリーについて、そして、その関連で日本にいたときのことを投稿させてもらいます。
書きかけまま放置していた日記や曖昧になりつつある記憶を元に、最近改めて後半部分を書き加えたものです。
つぎはぎしながら書いた文章なので読みにくい部分もあるかと思いますが、よろしくお付き合いください。


ナイロビにいた頃に行ったポエトリーから話を始めさせてもらいます。
ポエトリーとは詩の朗読会のようなもので、数分間の持ち時間の中で出演者が好きな話題の詩を順番に披露していくというものでした。
事前に応募した人たちが出演できるそうなのですが、プロフェッショナルの人からアマチュアまでが参加できるそうです。
好きな話題と書きましたが、その多くは恋愛のようでした。
ただ、恋愛に限らず、自分のアイデンティティーや友人、家族、あるいは社会問題についてなど、どんな内容でもいいそうです。
まったりしたものをイメージしていたのですが、ある人はやさしいトーンで語り、ある人はラップのようにテンポよく力強く詠いあげ、ある人はバラードのように歌うなど、表現の仕方も様々でした。

正直なところ、速いテンポの朗読であったり、スワヒリでの朗読であったりで、内容をほとんどつかめないようなものも少なくはありませんでした。
ただ、そのムードは十分楽しめましたし、自分の心を打ち明け合うというイベントはとても新鮮でした。
映画館で開催されており入場無料だったのですが、日本ではなかなかないのではないでしょうか。

参加者の1人はプロの方だったのですが、その人はポエトリーよりも気軽に参加しやすい形にしたワークショップを開催している団体の方でした。
今回のポエトリーのように映画館のスクリーンの前に立ち大勢を前にして詩を披露するのではなく、少人数のグループでディスカッション形式で行うのだそうです。
そのワークショップでは、恋愛から始まり社会的な問題まで、例えばセックスやセクシュアリティーについてのディスカッションもしているそうで、コミュニケーションスキルを磨く有効なツールであるとイベント後に語ってくれました。

私がこれから関わることになるHIV/AIDSの予防啓発活動を展開していく際にも、このポエトリーという手法は、何らかの形で活用できるのではないだろうか、などと考えたりもしました。


ところで、ナイロビでポエトリーを見に行ってふと思い出したのが、日本で一度だけに見に行ったことのあるポエトリーのようなもの。
詩の朗読会、と言ったほうがいいかもしれません。
会場は新宿2丁目のディスコ、ケニアに向けて発つちょうど1ヶ月ほど前のことでした。

新宿2丁目と聞いてピンと来た方も多いかと思いますが、新宿2丁目はゲイの町として知られています。


ところで、なぜ私が新宿2丁目で開催されるポエトリー・朗読会に行ったか説明させてもらったほうがいいでしょうね。

HIV/AIDSと聞いて、皆さんは何を想像されるでしょうか。
怖い病気というイメージを持っている方も多いかと思うのですが、同時に、アフリカの病気、自分には関係のない病気と考えているか方も多いのではないでしょうか。
しかし、実際には日本でも新規感染者数は増加しており(ちなみに先進国の中で新規感染者数が増加しているのは日本だけなのですが)、幅広い年齢層にじわりじわりと感染が広がっているのが現状です。
適切な予防法を用いずにセックスをすれば感染しうる病気であるため、いわば誰しもが感染する可能性のある病気といってもいいでしょう。
ただ、日本の感染者の傾向を見ると、依然に男性間の性行為による感染が少なくないというのも、またひとつの現状でした。

ケニアのNGOでHIV/AIDSに関わろうとしているのに、自分の国の現状・現場を知らずして人様のことをとやかく言うのは違うのではないか。
ケニアに行く前に日本のことももっと知っておかなければならないのではないか。
そのように考え、私の知らない日本の現状の一面が見られるのではないかと期待し足を運んだのが新宿2丁目でした。

また、私の中で、どうしても日本におけるHIV/AIDSの問題と、アフリカにおけるHIV/AIDSの問題の間に接点が見出せずにいました。
おそらく「貧困」がキーワードのひとつとなるアフリカの問題。
一方、日本のHIV/AIDSの感染拡大という問題を考えても、何が問題の根底にあるのかも、拡大の結果どんな問題が生じているのかも、はっきりとしたものを捉えられずにいました。
そして、アフリカのHIV/AIDの問題と日本のHIV/AIDSの問題とが、全く別次元の問題のようにしか思えなかったのです。
それでも、アフリカと日本の間にも、HIV/AIDSを考える際の共通のキーワードがあるのではないだろうかとも思われたのです。
そんな私の知らない「何か」が見つかるのではないかと思い、新宿2丁目へと向かったのでした。


「Living Together」と題された、その詩の朗読会。
東京都のサポートのもと、ディスコで月に一度開催されているらしい。
ネットで簡単に下調べをしたものの、あまり詳細の分からないままであったが、まずは実際に行ってみることに。

手帳にメモした地図を手がかりに、地下鉄の最寄り駅から会場まで向かうのだが、街の雰囲気に戸惑いを感じる。
何かが違う。
手をつなぎ道を行きかうのは、男性カップル。
飲食店の前にアルバイト募集のチラシが張ってあるのだが、チラシの中の写真で微笑んでいるさわやか系のお兄さんは、制服を着ているのではなく、なぜかカラーブリーフ一丁。
壁に貼ってある、マッチョ系お兄さんのイラストのステッカー。
完全に肩に力が入る。
日本にいてこんなに緊張しながら街を歩くのは、初めて横浜の寿町を歩いたとき以来ではないかと思う。

何とか目当てのビルにたどり着き、ディスコのある地下へと階段を下る。
緊張が高まるなか、恐る恐る店のドアを開ける。
薄暗いディスコ。
カラーボールが天井からぶら下がっている。
一瞬、店のスタッフの視線が私に集まる。
ディスコという場所自体あまり縁がないので緊張するが、店のスタッフが全員男性であることが、さらに緊張を誘う。
店内に人影はまばらで、スタッフのお兄さんに詩の朗読会はここでいいのかとたずねると、1時間ぐらいしたら始まるから、それまでゆっくりしてくれとの回答。
が、全然くつろいだ気分になれず。

思う。
道端を歩いているときや電車に乗っているときなど、「あの子かわいいな」とか「乳でかいな」などと、いやらしい目で見知らぬ女の子のことを見ることがあるのだが、それと同じような形で、もしかすると誰かが私のことを見ているのかもしれない!
私のケツが狙われているかも知れない!
勝手な妄想が頭から離れず、ケツに力が入る。
休学してから都内の高校などに性教育の出張授業に行ったりしており、そこでは「いろんな愛の形があっていいと思う。異性間の恋愛だけではなく、同性間の恋愛だってありだと思う」などともっともらしく言っていたが、そんな言葉を撤回したくなる。
完全に偏見のかたまり。

受付のお兄さんに話しかけ、「HIVに興味があってここに来ました」的な自己紹介をする。
そんな会話の後、お兄さんの口から「ところで、ノンケですか?」という質問が出てくる。
「ノンケ? …!?」
ノンケって何だ!?
恐らく「その気がない」という意味なのだろうが、「その気」というのがヘテロのことなのだろうか、はたまたホモのことなのだろうか!?
ここで答えを間違えると、今までとは違った人生をこれから歩むことになるのではないかと若干パニックになる。
結局、ノンケとは異性愛者とのこと。
そんな風に周りの人とぎこちない会話を交わしながら、朗読会が始まるのを今かと待つ。
そして、だんだんと人が増えてくる。

到着してから1時間ほどした頃だろうか、イベントが始まる。
最初に、このイベント、「Living Together」の説明がある。
私たちの暮らしている社会にはHIVが存在している。
そんな社会で、HIVポジティブの人もネガティブの人も生活している。
そんなことを受け入れながら、HIVと、あるいは、ポジティブの人もネガティブの人も一緒に生きていこう。
「Living Together」にはそんなメッセージが込められているのだと説明がある。
はっきりと覚えていないのだが、そんなメッセージだったと思う。

説明の後、詩の朗読会が始まる。
HIVポジティブの人、ゲイの人、周りの人、そんな人たちの詩や手記を集めた詩集があり、そこから気に入った詩を選び、朗読するというもの。
匿名で寄せられたその詩集から朗読する詩を選ぶのだが、自分の書いた詩を選ぶのも他の人の詩を選ぶのも自由。
詩の朗読の後は、朗読をした人のフリートーク。
その詩に対する思いや体験談など、朗読した詩との関係の有無に関わらず、好きなことを語る時間となる。
毎回3人ほどが出演し、それぞれが詩の朗読とフリートークを繰り返す。

1人目はHIVポジティブのゲイ。
自分がゲイであることを受け入れること、ゲイとして生きていくことを選択すること、HIVポジティブであることを受け入れること、HIVポジティブとして生きていくこと。
そのどれもが決して容易いものではないことを、詩の朗読と彼のフリートークで知らされる。
彼なりにそんなことを受け入れた上でこのステージに立っているのだろうが、そんな彼が私と同じ歳であることを知り、さらに強い衝撃を受ける。
ヘテロセクシュアルでHIVネガティブな自分であるが、彼と同じような重荷を背負ったとき、果たして自分の足で歩くことができるのだろうか。
そんなことを考えさせられる。

2人目は二丁目でバーのマスターをしているポッチャリ系のゲイ。
HIVのステータスがどうだったかは、今私は覚えていない。
でも、ここで大切なのはHIVのステータスがどうこうではないのだろう。
記憶があいまいになりつつあるが、フリートークの中で彼は自分の過去をこんな風に説明していたと思う。

もう少し若い頃、STIに気を止めることもなく、かなりハイリスクなセックスを繰り返してきたという彼。
だがあるとき急に病気のことが不安になり、保健所に検査に行くことに。
保健所を前にしたときさらに不安が押し寄せ、足が止まり、その場に泣き崩れたという。
何とか友人の励ましで検査を受けるのだが、結果は予想に反しネガティブ。
そのときハイリスクな行為からは足を洗うことを誓う。
と、ここで話が終わるかと思いきや、どうしたことかまた過去と同じようなセックスをするようになったのだという。
そんなことを何度か繰り返し、最終的にどんなきっかけで危険なセックスから卒業したのかは覚えていないが、今に至るというという。

3人目は、ゲイでもHIVポジティブでもなく、厚生労働省の医系技官。
このイベントを告知するポスターにはネクタイを締めた彼の写真が載っており、ポスターからは新宿2丁目に似つかわしくない空気を漂わせていた。
が、彼のトークはそんな先入観を裏切るものであった。
医者としてではなく、お役人としてではなく、1人の人間として、家族について、命について彼は語った。
初め、フリートークで彼が自分の子供や家族の話を始めたときは、なんてこの場にふさわしくない内容なんだろうと思ったのだが(ゲイである彼らは家族と疎遠になるケースが多いし、男性間では子供は持てないので)、彼は自分の父親と子供の死について語り、それは場違いでもなんでもなく、HIVという言葉もゲイという言葉も出てこないながら、会場をひきつけるものであった。

三者三様の朗読とフリートークであったが、どれも興味深いものばかりであった。
そして、ここで感じた一番の感想は、これは確かにゲイを主な対象にしたイベントではあったが、ここで語られた恋人同士の関係や社会との関係、HIVと生きるということは、特にゲイに限ったものではなく、セクシュアリティーに関係なく敷衍して捉えられることができるのではないのだろうかというものだった。
実際のところ、日本全体で見たら男性間の性行為による感染が多いのだが、個々のケースで見れば、たまたま男性間での感染であったり、たまたま異性間での感染であったりするわけで、その前後に出てくる問題は、決してゲイだから出てきた問題ではないのだと思う。
多少のシチュエーションの違いはあれ、異性間であろうと同性間であろうと、お互いのSTIのステータスが分からない状態で関係を持とうとするのなら、コンドームを使うことがベストなことに変わりはないだろう。
そして、コンドームの使用を含め、カップルの間でのさまざまな課題に対すてコミュニケーションの機会を持つことの重要性というのは、ゲイのカップルだけではなくすべてのカップルに必要なものなのではないだろうか。
あるいは感染後のことを考えても、HIVをどうやって受け入れ、どうやって付き合っていくのか、また、HIVに感染した状態でどうやってパートナーと付き合っていくのかといった問題は、セクシュアリティーによって決定的な違いがあるものではないのではないだろうか。
そんなことをイベントの後に考えていたと思う。


そして、いままでのケニアでの活動を合わせて新宿二丁目でのイベントを考えてみると、さらにスティグマとイグノランスというキーワードが浮かんでくる。

日本とはHIV感染率の桁が違うケニア。
一方で、HIVに対する意識も高く、HIVの検査を受けている人の割合も日本とは桁違いに高いケニア。
そんなケニアであるが、いまだに感染が拡大しているのもまた事実であるし、アウトリーチに出ても、VCT(カウンセリングとテスト)を受けようとしない人に少なからず出会ったのも事実である。
そんな時、ケンやPEたちに、どうしてケニアでは感染がこんなにも広がり、またVCTが本来必要とされているほど十分に普及していないのかと尋ねると、必ず返ってくる言葉がスティグマとイグノランスであった。
正直なところ、この2つの言葉だけで語れるものではないと私自身は思うし、日本との違いの中で、他にもおぼろげながら見えてくるケニアの抱える問題点というものも感じたりする。
それでも彼らが言うように、スティグマとイグノランスの影響は大きいのだろう。
そして、今思うと、それは日本もまた然りなのだろう。

奔放で無防備なセックスを繰り返し、あるとき急に病気のことが不安になり、保健所に検査に行くも保健所を前にしたとき、あまりの不安から泣き崩れたというバーのマスター。

自分たちはもうすでにHIVの存在する社会に暮らしているということ、HIVに限らずSTIは自分にも関係しるということ、しかし予防策をとればHIV感染の可能性は0に近づけることができるし、感染しても適切な治療により死を恐れる病気ではないということ。
かつてのマスターがそんなちょっとしたことを知っていれば、彼は不必要にHIVにおびえることもなかっただろうし、HIVから逃げようとすることもなかっただろうと思う。
それと同じく、ケニアの人が知っていれば、日本の人が知っていればとも思う。

時代に即していない知識や誤った知識からスティグマが生まれ、スティグマが知識の更新の障害となり、イグノランスな状態となる。
イグノランスがさらにスティグマを助長し…。
そんなスティグマとイグノランスのスパイラルがあり、日本にしてもケニアにしても新規の感染例は止まらず、VCTへの足を遠のかせているのだろう。

だからこそ、適切な情報・知識が大切になってくる。
それに加え、問題を他人事として捉えるのではなく、自分に引きつけて捉える姿勢も大切になってくる。
だが、多くの人がそんな姿勢を取るようにするのも決して簡単なことではないのだろうとも思う。

そんなときに思い出されるのが、新宿二丁目での詩の朗読会「Living together」やナイロビでのポエトリーである。
ゲイという同じセクシュアリティーを共有するもの同士、あるいは若者同士が集う場で、自分の思いや悩みを語り、仲間の話に耳を傾け、皆でそれを共有する。

ポエトリーの場でHIVについて語るのは少し話題が重過ぎるかもしれないし、日本でHIVの詩の朗読会ができるのも、そこが新宿二丁目という特殊なコミュニティだからなのかもしれない。
それでもなお、ポエトリーという手段がHIVと向き合う際に、とても力強い手段になるのではないか、そんな風に今感じている。


今までのところ、ケンにくっついて仕事の手伝いをする程度のことしかできていないが、これから私のバックグラウンドを活かしつつ、何らかの形でケニアでアウトプットができないかと考えたりもする今日この頃。

2009年9月18日金曜日

言い訳

言い訳。
最近停電が多い気がします。
朝は電気が通っていたのに、昼頃に停電になり、夜にまた復帰するというパターンが多いようです。
そんなわけで、ブログ用の日記をつけるのを最近サボり気味です。

言い訳。
コンピューターウイルスが多い気がします。
ネットにつなげるときはできるだけウイルス対策ソフトの更新をしているのですが、それでもフラッシュディスクを共有することがよくあるので、スキャンする前にまた感染しているというパターンがよくあります。
おかげで、前は接続できたはずのネットにうまくつなげないことがあったりします。
一番の問題は、カメラのメモリーまで感染したのか、メモリーをカメラに入れても作動せずリジェクトされることです。
そのため、写真が撮れない今日この頃です。
ウイルスに感染 → ネットに接続できない → ウイルス対策ソフトがアップできないという悪循環。
月曜日はネットに接続できたのですが、対策ソフトのダウンロードに時間がかかり、そんな間に停電になり、結局ダウンロードできませんでした。
数日前はネットにすら接続できず、ネットカフェにいながらネットに接続するためだけに時間を使うという悲しい時間をすごしました。
そうこうしているうちに時間がたち、イスラム教徒が開いているネットカフェなのですが、祈りの時間だから店を閉める時間だと言われてしまうのです。

ただ、この原稿が投稿できたということは、ちゃんとネットに接続できたということなのでしょう。
めでたしめでたし。

2009年9月10日木曜日

アウトリーチ

9月5日
この日はプロジェクト地のひとつであるキテンゲラでのアウトリーチの日。
キテンゲラはナイロビとカジャドゥの間に位置する街で、渋滞がなければナイロビまで30分もしないぐらいの街。
ナイロビ・カジャドゥ間のマタツに乗っている際に何度か通過している街でもある。
そして、アウトリーチというのは、病院や施設の中で待つのではなく、街に出て行きそこでVCT(Voluntary Counseling and Testing、HIVのカウンセリングとテスト)を行うというもの。


ケンは前日からナイロビにおり、私1人でキテンゲラまで向かうことになっているのだが、前日の診療所見学の遅刻に懲りて、この日は余裕を持ってカジャドゥを出発。
ケンに9時に来るように言われていたのだが、その15分以上前に到着。
さすがにまだ誰も来ておらず、その後しばらくケンや他のスタッフが集まるのを待つ。
が、9時を過ぎても誰も現れず。
ケンに電話すると、まだナイロビ市内におり、渋滞のせいで当分キテンゲラには着かないとのこと。
すぐに到着できない場合でも「すぐに着く」ということの多いケニア人だが、「すぐ着く」とすら言わないということは相当待たされるのだろうと覚悟する。
その代わりにケンは、PEの1人に電話し、すぐに私のところに来るように連絡してくれると言う。
ケンとの連絡の後、さらに待つこと数十分、キテンゲラ内のPEのリーダーをしているというリンダが登場。
見知らぬ街で1人で待たされるという若干不安な状態から開放される。

他のスタッフが集まるまでリンダとおしゃべり。
仲のよい知り合いが日本におり、その友人から日本人は英語の使えない人種だということを聞いているらしく、私の英語に対してそこまで悪くないよと言ってくれる。
また、ケンが電話したときにはまだ寝ており、みんなが集まったら一度家に帰り、シャワーを浴びたいとも言い出す。

しかし一体9時というのはどこから出てきた時間なのだろうか。
よくケンに「明日は何時に起きる?」と聞いたときに返ってくる時間は、大概ケンが実際に起きてくる時間よりも1時間ほど後。
ケンは集合時間などの時間を早めに言うことが多いのだが、さすがに今日は9時集合だろうと思っていたのだが、どうもそうではなかったのかも知れない。

さて、そんなこともありながらだんだんとスタッフは集まり、準備が始まる。
VCT、つまりカウンセリングと血液検査はプライバシー保護のためにテント内で行われるのだが、今回はそのテントを2張り設置する。
また、APHIAⅡのバーナー(垂れ幕)と、もうひとつのステークホルダーのバーナーを設置する。

なお、このようなイベントの後には写真付きでレポートを提出するのが求められており、その際の写真にはさりげなく自分の団体のバーナー(今回はAPHIAⅡのバーナー)が入るようにした方がいいと知っていたので、写真を撮るのにベストな場所にAPHIAⅡのバーナーを張りたかったが、もうひとつのバーナーにその位置を取られてしまう。
(イベント中に撮影した写真にAPHIAⅡ Donated by USAIDのバーナーが写っているのですが、分かりますでしょうか)


本来であればケンの統括のもとで準備が進むべきなのだろうが、渋滞のためにケンはかなり遅刻し、彼が到着したころにはもう準備も終わりかけたころ。
そしてVCTのアウトリーチは始まる。

ちなみに遅刻してきたケンだが、今日中に送らなければならないメールがあるが、キテンゲラの街は停電でネットカフェが使えず、隣町まで行かなければいけないと言い出し、始まってすぐにいなくなってしまう。
ケンが帰ってきたのはそれから何時間も経ってから。
以前、ケンはキテンゲラのPEたちは全然活動的でないと文句を言っていたが、彼が不在な中でもしっかりと働くPEたちの姿を見ていると、以前にケンの言葉に疑問がわいてくる。

カジャドゥ県内の他の3つのプロジェクト地のPEはほとんどが女性なのだが、キテンゲラは男性のPEも多く、活動的な気がする。
そして、女性にしても、中年層がメインのカジャドゥ市内のPEとは異なり、キテンゲラでは全体的に若い印象を受ける。
他のプロジェクト地と異なりここのPEたちが若く活動的なのは、APHIAⅡでの活動を通して就職口が見つからないかと考えているからのよう。
今年・来年で大学を卒業する予定というPEも何人かいるが、就職事情の厳しいケニアのため、まだ就職が決まっていないという。
そのような中、APHIAⅡの他の団体で働いているあるスタッフはこうやったボランティア活動を通して就職したらしく、彼女のようにUSAIDの関係で就職できたらと何人かが口にしていた。
ケニアで働くことの難しさを知らされるとともに、改めてUSAIDがドナーとなっている比較的安定した団体は恵まれた職場なのだと知らされる。


さて、VCTに話を戻すと、マタツ乗り場の一角を陣取ってのアウトリーチのため人通りも多く、自然とマタツの客引きや暇そうなお兄ちゃん、マタツの乗客などが集まる。
そして、PEが無料の靴磨きサービスをし、それ目当ての人も集まる。
さらに手の空いたスタッフが道行く人に声をかけたりするので、VCTのテントには順番待ちの行列ができるほど。

VCTを受ける人を見ていると、多くの人が自分はHIVに感染していないとは言い切れないとの認識のようで、だからこそHIVのステータスを知るために検査を望んでいるよう。
ケニアはアフリカの中ではHIVの感染率は決して高くはなく、カジャドゥの感染率は5%以下だが、それでも多くの人がHIVを自分に関係しうる問題だと考えているのが分かる。
日本でHIVを自分に関係しうる問題だと考えている人などほとんどいないであろうし、クラミジアなどのSTI・性感染症についてもまた然りなのではないだろうか。
そう考えると、ケニアの問題意識の高さには、私たち日本人も学ぶところがあるのではないかと感じる。
ちなみに、VCTテントの横でやっている無料の靴磨きのサービスだが、検査を受けずに靴磨きだけしていなくなる人もいる。
彼らはHIVに関心がないのからVCTを受けないのかとスタッフに聞いてみたところ、関心がないわけではなく、自分のステータスを知るのが怖いからVCTを受けないのだという回答。
HIVに感染している可能性がある人ほど、早期診療のためも検査を受ける必要があるのだが、自分は感染している可能性があると思っている人が逆に検査から遠ざかってしまっているのは残念なこと。
社会にスティグマがいまだに根強く残っているのは確かだし、政府からの補助により無料ではあものの、しかしHIV治療は十分に整備されていないのがケニアの現状だが、それでもVCTがより身近なものにならないものかと考えさせられる。
また、少なからぬ人が検査は有料だと思っているようで(実際有料で検査を行っている病院もあるのだが)、そのような認識が広がっているのも、これから改善していかなければならない点であろう。


ケニアの強い日差しの下、会場周辺は検査待ちの人や冷やかしの人が集まり、とても盛況。
ただ、テスト自体に時間がかかるわけではないのだが、テストの前にカウンセリングがあるので一人当たりそれなりの時間がかかり、VCTが2つのテントででしかできず、あまり多くの人数をさばけないのが残念なところ(ちなみにテント内でカウンセリングとテストを担当しているのはPEではなく、カウンセラーの資格も持った看護師のおばちゃん)。
実際にVCTを必要としているキテンゲラの人口に対し、今回VCTを受けた数十人という人数はあまりにも少ないようにも感じるが、それでも人目につく場所でこうやったイベントができたことで、街の人にはある程度の影響を与えられたのであろうか。

日本のNGOの見学

予定がころころと変わる今日この頃。
ケンの話を正確に聞き取れていないから予定が変更してばかりなのかと思っていたこともあったが、そうではなく、実際に予定がころころと変わっているよう。
この前もカジャドゥに来ることになっていたスタッフが、来る予定になっていた当日になってから、来るか来ないかで一日のうちに話しが二転三転したりしなかったり。

4日(金)はナイロビのオフィスに行く予定だったのが、前日に予定が変わり、私だけカジャドゥに残ることに。
ただオフィスでする仕事は特にないとのこと。
オフィスでぶらぶらと時間をつぶすのも嫌だったので、ナイロビで活動している日本のNGOに見学をお願いできないかと考える。
かなり急なお願いになってしまったが、木曜日の昼過ぎに連絡し、翌日の見学を受け入れてくださるとの了承をいただく。

その団体は日本の病院が母体となっているNGOで、ナイロビ市内にクリニックを構え、HIV患者の診療を行っているほか、日本からの支援をもとに市内のスラムに住む子供たちの支援を行っている団体。
日本を発つ前、日本にいる間にも何人かの人からも寄ってみるように勧められた団体であり、また、その経営母体となっている病院に3年ほど前に見学に行ったことがあり、病院でケニアにあるNGOのことも少しだけ伺っており、頭に残っていた、そんな団体だったのだ。
カジャドゥでの研修が始まる前に寄りたかったのだが予定を空けられず、ずっと寄りたいと思っていた団体だったのである。

当日、時間に余裕を持ってカジャドゥを出たつもりだったが、ナイロビ市内に入ってからの渋滞で30分近く遅刻。
ケニア人にも勝るとも劣らぬ時間にルーズなことをしてしまったが、待ち合わせの場所に来てくださったYさんは温かく迎えてくださる。
ちなみに、ナイロビに長いこと滞在して団体を引っ張っていっていらっしゃるのはMさんだそうなのだが、丁度そのMさんは数日前からナイロビを離れており、Mさんが留守の間の数ヶ月間、Mさんと入れ替わりで日本の病院から派遣されたのがYさんだった。

Yさんに案内され、待ち合わせ場所からクリニックへと向かう。
クリニックに入ってすぐの待合室には、決して多くはなないのだが患者さんが順番待ちをしている。
今までの私の活動は、スラムなどでのフィールドワークやオフィスでの仕事がメインで、病院の患者さんとすれ違うようなことはあまりなかったので、病院独特の重たい空気に身構えてしまう。
あるいは、目の前にいる患者さんはHIV陽性者かもしれないと思うから、肩に力が入ってしまったのだろうか。
今回ケニアに来てから初めてネクタイを締め革靴を履いてきたのだが、病院特有の空気を前に、Tシャツとジーンズを着てこなくて正解だったかなと思う。

恐る恐る入ったクリニックであったが、スタッフの方との自己紹介が始まると重苦しい空気は吹っ飛び(と言っても勝手に身構えていただけだが)、ケニアらしい明るい空気となる。
夏休みには日本からの学生がちゅくちょく来ているらしく、そもそもMさんをはじめ日本人が深く関わっているクリニックだけあって、いい意味でスタッフの皆さんは日本人慣れしており、飛び入り見学の私を歓迎してくださる。
日本人は英語が苦手なことを理解していてくれていることもあり、居心地の良さを感じる。

自己紹介の後、Yさんにクリニック内を案内していただく。
日本の田舎の診療所にすら見劣りするぐらいの機器しかなく、薬棚のあまりのシンプルさには驚かされたが、それでもHIV関連の治療薬は最低限取り揃えられているそうで、ナイロビでHIVをもつ人たちにとってはなくてはならない大切なクリニックであることが伝わってくる。

HIV感染は直ちに死を意味するものではないというのが、現在の教科書的知識ではあるが、それはあくまでも適切な時期に感染が分かり、適切に治療・服薬が行われたらの話であるのもまたひとつの事実。
偏見・差別といった言葉で片付けることは簡単だが、検査を受けにいくことにも、家族などに感染の事実を伝えることにも、規則正しく服薬を続けることにも、常にハードルが付きまとうのであろうことを、こうやってクリニックに来ることで考えさせられる。
カジャドゥでの活動が予防に軸を置いたものであるため、感染が判明したその後というものを深く考えずにいる自分に気づかされる。
予防活動であっても、目の前にいる人がポジティブであってもネガティブであっても受け入れられるようなメッセーを伝えていくことが求められているのだと、改めて考えさせられる。


クリニック内の簡単な案内のあと、スタッフが支援しているスラムの子供たちのところへ巡回に行くというので、Yさんとともにそれに同行させてもらう。

国内線の飛行場に隣接した土地にそのスラムは広がっている。
そしてスラムのすぐ隣は、きれいな家の立ち並ぶ中流階級向け住宅地。
カジャドゥにいるために危機管理意識が薄れかけているのだが、ここは始めて足を踏み入れるスラム。
Yさんのアドバイスでカメラなどの貴重品はオフィスに預け、そしてネクタイをはずしスラムへ。

月々1口1000円から始められるという日本からの支援金をもとに、スラムの子供たちがクリニックで診療を受けられるという事業を展開しているのだが、1人の支援者に付き1人の子供が割り当てられ支援が行われ、支援者のところには写真や子供からの手紙が日本へ送られるのだという。
今回はその子供たちのところを回るというのがスタッフの主な用事。
一軒一軒スタッフが家を回るのに私たちは同行し、子供の様子を聞いたり写真を撮ったりしている様子を見学させてもらう。

見学させてもらうと書いたが、正直なところ、Yさんばかりとずっと喋る。
やはり日本語での会話は楽だし、日本人同士のほうが何でも喋れる。

スラムの様子であるが、カジャドゥのマジェンゴスラムとは様子が全然違う。
マジェンゴは田舎だからかとても広々としており、庭付きの家も少なくないが、ここはナイロビ市内とあって所狭しと家(小屋?) が建ち並んでいる。
スラムの中を迷路のように走る路地は細く、前日の雨でぬかるんでいる。
家もこちらのほうがみすぼらしいように思われる。
ただ、日本のNGOがスラムの支援に入っていることが知られているからか、友好的な雰囲気を感じる。
マジェンゴのように酔っ払いにお金をせびられることもなく、所在無さげに道端でぶらぶらしている働き盛りの年齢層の男性も、そこまで多くないように感じる。
スラムと呼ばれる地域に住んでいる人でも、マタツに乗りスラムの外に働きに出ている人も多いという。
実際、クリニックのスタッフでもここのスラムに住んでいる人がいるのだという。
スラムと言っても、ナイロビ市民にとっては立派に居住地域として機能しているのだろう。
しかし、不法滞在という言葉はしっくりこないながら、彼らは法的根拠があってここに家を建てているわけではなく、仮に再開発のための立ち退きを迫られた場合は、逆らえないのだという。

昼過ぎにスラムを後にする。
9月に入り夏休みも終わったようで、学校帰りの制服姿の子供たちがスラムの横の空き地で遊んでいる。
写真は、クリニックと、スラムの幼稚園のようなところでのもの。