2010年1月18日月曜日

最近のニュース

Busia District Hospitalに見学実習に行くこともできず、かといってADEOのプロジェクト再開を目にすることもなくブシアでの最終週が終わる。うーん、これが噂に聞くPole poleなのか。ケニアの時間感覚には慣れたつもりだったが、まだまだ甘かったようである。

さて、最近のニュースについて。

暴動
金曜日、ナイロビで暴動があった模様。普段はテレビを見る機会はあまりなく、ブシアに来てからは新聞もあまり読むことはなかったのだが、この日は私の送別会ということで飲み屋におり、そこのテレビでたまたまニュースを目にする。最初そのスワヒリ語のニュースを目にしたとき、アフリカのどこか別の国の暴動かと思っていたのだが(実際、日本と比べてケニアにいるとアフリカ内のニュースがよく流れているのだ)、その街がナイロビであることに気付く。そのニュースの流れている間、今まで賑やかだった店内がテレビに釘付けになる。
もちろん私はアナウンサーの言葉を理解することはできないのだが、話によるとイスラムの宗教指導者がケニアで逮捕され、それが契機となりイスラム教徒の若者と警察が衝突したということであった。2007年末の選挙後の暴動の話を聞くことはあっても、平穏なナイロビしか知らなかったので驚く。また、送別会のメンバーの一人、ハビブはムスリムのため一人だけお酒を飲んでおらず、そのことでちょうどイスラムや宗教の話をした後だった。
暴動のニュースが終わり、先週末から始まったサッカーのアフリカ杯など他の話題にニュースが移ると、店内は先程まで何もなかったような賑やかさに戻る。
翌朝のブシアの町も、今までと変わらない平穏な様子。新聞を買うのだが、1面と、もう他の1面に記事が載っているのだが、思っていたよりも扱いが小さいようにも感じる。

記事を読みながら、年末にあったYouth向けのイベントの後、ハビブが語ってくれた言葉を思い出す。曰く、歌や演劇、ダンスのコンペをするとみんなその練習に没頭し、悪さをするエネルギーもなくなるだろ。だからこういったイベントを開催することに意味があるんだ、と彼は語ってくれた。
一方のナイロビの暴動を思う。イスラム宗教指導者の逮捕が原因ではあるが、暴徒と化した若者のうち、ケニア国籍でもないその指導者、アメリカが言うところのテロリストに対して、確固たる主義主張を持って抗議しようとした者はどれほどいたのだろうかと思う。実際、ケニア第2の都市、ムスリムの多い沿岸部のモンバサでは、ナイロビのような暴動は起きなかったという。警察の対処の仕方にも問題があったというが、何よりも根底には、行き場のないエネルギーと鬱憤の溜まった若者の存在があるのではないだろうか。仕事もなく、自身が体を動かしエネルギーを発散させられるようなスポーツもなく、一方できれいな身なりの裕福な人たちが行き交うのを目にしながら生きる毎日。きっかけ自体に大きな意味はないのではないかと思う。
東アフリカの中では比較的落ち着いた大国ながら、何とも不安定な国なのだろうか。


日食
金曜日、ケニアで日食があった、らしい。
後になって、空がやたらと暗かったことの理由を知る。
ほぼ皆既日食だった、らしい。
うわー、すごく惜しい。
オフィスの鍵が開かず、近くの食堂にいたときだったのではないかと思う。
マルセラがチャパティとハーブティーをご馳走してくれていたときだったのだろうか。
上にも書いた通り、最近はニュースをこまめにチェックすることもなかったので見逃してしまったのだろうか。
ただ、日食の翌日の新聞にも、カラー写真とたった1行の説明しか記事がなかったので、昨年の日本のような取り上げられ方はされていなかったのだろう。
うわー、すごく惜しい。


ハイチ

ハイチで地震があったそうですね。
日本人の中で、地球儀の中でハイチの位置を知っていた人はどれほどいたのでしょうか。
個人的には、医学部への進学を考えた最初のきっかけが、ハイチの支援を行っている医師の方との出会いであり、昨年春の時点でTOEFL・TOEICのスコアがAIESECの基準に届かなかったらハイチに行くこともわずかながら頭の中にあったので、複雑な思い。

2010年1月15日金曜日

最後の患者さん

Nambale Health Centreでの最終日、私が診察室で見た最後の患者さんは、午後診の途中で「自分の順番はまだか」と聞いてきた人だった。医師チェボンがまだだと待合室に帰したのだが、その後、彼の順番は最後から3番目程のところで周ってくる。ただ、彼は検査に時間がかかりそうだからという理由で、最後に改めて診ることになる。
彼の後にいた何人かの患者さんにマラリアの診断が下され、薬が処方された後、彼は再び診察室に呼ばれる。診察室に入ってきたのは30半ばの、しかし歳よりも老けて見える男性だった。シャツの胸の辺りが白く汚れており、みすぼらしい感じのする患者さんだった。そんな彼の抱えている問題はといえば、胸の辺りの皮膚がただれているということだった。チェボンの指示でシャツを脱ぐ彼の胸を見て驚く。体の右半分にのみ、胸の中央から背中の中央へ向けひとすじの帯状に皮膚がただれているのだ。シャツのしみはこのただれた皮膚のためだったのか。そしてその皮膚のただれは、素人目にも帯状疱疹と呼ばれるものだと分かった。また、教科書の写真に載っているようなものよりもかなり程度のひどいものだった。さらにいえば、そこまで帯状疱疹が進行するのには、免疫の働きの一部が低下していることが疑われた。この国の状況を考えればHIV/AIDSの感染が疑われることは当然だった。
すぐに彼はHIVの検査をすることになる。VCTのようにカウンセリングがあるわけでもなく、いきなりの検査。指の先に針を刺し少量の血を採り、簡易検査キットの上へとたらす。血の量が少なかったからか、コントロールの反応が不明瞭で、この検査は有効か無効かと、チェボンとウェレが話している。話を理解しているのか分からないが、始終うつむいたままの患者さん。そして、コントロールの反応ははっきりしないままであったが、HIVの反応自体ははっきりと陽性を示していた。
この簡易検査は本当は陰性でも陽性反応を示すことがあるので、もう1つの精度の高い簡易検査キットでの検査へと進む。
検査結果が出るまでのしばらくの間、彼は検査室の外で遊んでいた彼の子供たちを呼び寄せる。7歳くらいと2歳くらいだろうか、かわいい盛りの兄弟。この診察室でよく見かけるマラリアの子供たちと違い、元気で無邪気で笑顔を見せる彼ら。自分たちの父親が今検査していることの意味をつかめていないのだろう。隣のうつむき加減の彼らの父親の姿とのギャップが何とも物悲しい。しかし、今こうして笑顔を振りまいている子供たちのステータスも気になるところではある。
何分かして検査結果が明らかになる。チェボンが、じゃあこの結果を説明してみて、と私に言う。そんな振りしないでくれよと思いながらもそれに答える。結果はもちろん陽性。結果が目に見えていても、それを改めて言葉にするのは何とも言えない気分にさせられる。ただ不誠実ながら、彼もある程度結果を分かっているのかなと考えるとこちらの気は楽であったし、HIV感染者がそこまで珍しくないここケニアなので、結果を口にしやすいなと思ってしまう。だがやはり結果を宣告される者にとっては想像もつかないほどの重苦しい意味を持つのだろう。
チェボンが改めてスワヒリ語で結果を説明する。くわえて、この政府立の診療所に併設されている、HIV/AIDSの患者さんを専門に診療しているAMPATHの診療所で今後フォローしていくことなどが説明される。早く家に帰りたい時間なので、あっさりと、ごく簡単に。そして、相変わらずうつむき加減で、何を考えているのか分かりかねる表情でチェボンの話を聞く患者さん。そんな彼が、Nambale Health Centreで私が見た最後の患者さんだった。
実はこの診療所でHIV感染の診断がつくのは、私が見た中ではこれが初めてのケースであった。ここまでHIV/AIDSが多くの場で語られ、VCTも整った場で、こうして症状の発現後に感染の診断が下されるというケースを見ることになった。これは、ケニアといえども決して一般の人のHIV/AIDSへの関心が高くないということを示しているのだろうか。それとも、感染の可能性が少しでもあると知りながら、病気や死への恐れから逆にVCTや医療施設への足が遠のいてしまったということなのだろうか。
このヘルス・センターに来てから、一番最初の患者さんはマラリアの少年、2人目の患者さんは近頃(と言っても20週以上)月経が来ておらず、妊娠検査をしたら陽性反応という患者さんだった。最初の患者さん、最後の患者さんとも、何ともケニアを象徴するような患者さんたちであった。

ケニアで献血

今週からBusia District Hospitalで見学実習をさせてもらう予定だったが、行けずじまいのまま今週が終わろうとしている。ブルーノが病院の担当者のところに連れて行ってくれることになっているのだが、ブルーノ曰くその担当者がいつもいないらしく、なので病院に連れて行けないとのこと。以前にその担当者から見学実習の許可をもらっているので、また改めて彼の許可をもらいにいくというのはよく分からないのだが、今週は仕方なくまたオフィスで過ごす毎日。このままではBusia District Hospitalで見学実習ができなくなりそうなので、献血だけでもできないかと思い、Busia District Hospitalまで連れて行ってもらう。
高校生の頃、私は自分の血液型を知らず、献血をしたら血液型が分かると聞き献血に行って以来、日本にいたときはよく献血に行っていた。ケニアに来てからもナイロビでキムと一緒に歩いているときに、街頭で献血のキャンペーンをやっているのを見たことがあったのだが、そのときは残念ながら時間がなく献血することはできなかった。献血好きな私としてはケニアで献血ができたらいい思い出になるかと考え、いつか献血ができたらという思いが頭の隅にあったのだ。それが今回、暇だからという理由で実現する。
ADEOのワイク、ADEOの隣のオフィスで働いているケンと昼ごはんに豚を食べに外に行き、その帰りにDistrict Hospitalに向かう。まずは病院の受付で献血はどこでできるのか尋ねる。と、私は覚えていなかったのだが、受付に座っているスタッフは以前にNambaleで挨拶をしたことがあるようで、私が誰か分かっているので親切に説明してくれる。献血は検査部で受け付けているとのこと。検査部へ向かう。以前に来たときはそんなに人は並んでいなかったのだが、この日はかなりの人が検査部の前に並んでいる。やっぱり今日は諦めて後日来ようかとも思ったが、ワイクが並んでいる人を抜かして検査部の受付の人に話をしてくれる。検査部で受付をしていたのはここの部長さんで、Nambaleのウェレと以前に救急車で患者さんを運んだときに出合ったことのある人であった。彼が私のことを知っているからか、それともムズングだからか、あるいは献血のために来たからか、列に並ぶことなく献血をさせてもらえることになる。並んでいる人たちごめんなさい。
案内されたのは、普段は一般の検査を行っている小さな部屋。程なくして他の患者さんの検査を終えた女性が私のところへ来る。まず簡単に採血のための質問がある。壁に質問票が貼ってあったが、それを使用するでもなく口頭での質問。以前にHIVの検査をしたのはいつかとか、簡単な質問がいくつか。日本の質問票に比べるとかなり大雑把なものだった。そして、採血後の血液の扱いについて説明がある。HIVや梅毒といった病原体の検査を行うのだが、そのためにキスムに送るとのこと。そしてまた病院に戻って使用されるまでには1週間ほどかかるとのこと。HIVの検査にはELIZAというウイルス自体を検出する方法が行われており、これはウイルスに対する抗体を検出するVCTなどで行われている簡易迅速検査よりも大幅に正確なもの。これだけHIVの蔓延しているケニアながら、カカメガなどのウェスターン州内で精密検査ができず、わざわざ隣の州であるニャンザ州のキスムまで運ばなければいけないというのは驚きであった。
私は日本で成分献血というのによく行っているということ、その成分献血とはどんなものなのか説明する。ただ、彼女には成分献血がどんなものか十分に理解してもらえていなかったように思う。私の英語力にも大いに問題があるのだろうが、成分献血の機械のような高価な医療機器など滅多に目にすることのないであろう彼女は、なかなかイメージが付かないのだろうか。そして、高知の献血センター内にある機器類の値段の方が、この病院内にある機器類の合計よりも高いんだろうなとも思う。成分献血の機械とか、見た目は新しそうなものを更に新型のものに取り替えていたし、献血センター内で血球算定ができるんだもんな。
さて、普通の患者さんとは交わすことのないであろうそんな悠長な会話の後、採血が始まる。これがケニアに来て間もない頃だったらいろいろなことに驚くのかもしれないが、今となっては特に驚くこともない。ただ、針を刺す前の皮膚の消毒の適当さにはやっぱりあきれる。Nambaleの時間外診療のとき、消毒用の脱脂綿がないので乾いた脱脂綿で皮膚を拭き、それで筋肉注射をしていたが、消毒液が含まれているだけましなのだろうか。ただ、日本では針を刺した後に最初に流れ出る血液は輸血用に回さずに検査用に使用しているのに対し、ケニアではその血液も輸血に使用されるので、皮膚消毒の適当さはやっぱりいただけないと思う。この皮膚の消毒に限らず、ケニアでは医療者の中での感染症に対する標準的な予防策がお粗末なように思う。私が今まで見た中では、まともなのは、お金も出ておりスタッフの講習が整備されているVCTセンターぐらいなように思う。ないない尽くしのケニアだから仕方ないことの様にも思うが、本来なら予防可能な感染症のために医療費が費やされているとしたら、やっぱり改善されるべきだとも思う。あー、でも病気にかかったところで日本の様に濃厚な治療が提供されるわけではないから、治療費を高騰させる原因とはなりえないのだろうか。医療経済学ではこんなことも研究するのでしょうか。いや、必用のない苦しみを味わうことのないようにするという視点でものごとを考えるべきなのか。そんなことを考える。
また、床に置かれた採血バッグとそこへ流れていく血を見ていると、ふと以前に読んだことのある本の一場面を思い出す。紛争中もチェチェンにとどまり負傷者の治療に専念したチェチェン人の医師。そんな彼の書いた手記の中で、彼が自ら献血をしている場面が描かれていた。陣痛に苦しむ妊婦さんを前に一人オロオロする私とは違いますな。今以上に考えの若かった私は、それを読んで大いにしびれ、そして献血好きになったものだった。
そんなことを考えているうち、採血バッグは私の血でいっぱいになる。献血終了。
ちなみにケニアでもRed Crossで献血をしたらソーダやお菓子がもらえるそうだが、院内での献血だったため今回はそれはなし。残念。せこいぜオサム。
そんなケニアでの献血。

2010年1月10日日曜日

分娩 その1

Nambale Health Centreでの2週間の研修が終わった。
自らフィールドに出て行く努力もせず、オフィスで仕事が見つけられないという、とても消極的な理由で医療機関での研修をすることにしたのだったが、今となってみるとNambale Health Centreに行ってよかったと思う。もちろん、4月から始まる大学病院での臨床実習に向けての、頭のリハビリのための刺激、という意味でも有意義なものだったと思う。だがそれ以上に、診察室の中だったからこそ垣間見ることのできたもの、今までの研修では見ることのできなかったケニアの側面の1つを見ることができたのではないかと思う。
と、そんなことを書きながらも、2週間の中で一番印象に残ったものといったら、分娩に立ち会ったことである。ADEOの研修やHIV/AIDSなどと全く関係のない話になってしまうが、今回はそのことについて書かせてもらおうと思う。

Nambale Health Centreでの研修2週目の水曜日、前から興味のあった分娩立会いについて相談してみることにする。私がヘルスセンターに到着したときには、それまで私が診察室で一緒に見学をさせてもらっていたセンター長の医者が来ておらず、ひとまず看護師さんに話をしてみる。彼女はもちろん構わないと言って、そのまま分娩室に連れて行ってくれる。時々、分娩室にもその隣にある妊婦さんの待機室にも誰もいないことがあったのだが、このときは分娩室に一人、そして待機室にもう一人妊婦さんがいた。それぞれAさんとBさんと呼ばせてもらうことにしよう。看護師さんは分娩室の中に入るのだが、私は入っていいものかと一瞬戸惑う。履いている靴に泥がついていることも気になったが、看護師さんが問題ないというのでそのまま分娩室へと入る。ここのセンターのもう一人の医師、ウェレがすでに来ており、何やら検査をしている。と、見覚えのある検査キット。HIVの簡易検査キットだった。今頃になってHIVの検査かよと突っ込みたくなる。ウェレ曰く、Aさんは以前にナイロビで検査したことがあるそうなのだが、ここのセンターに来るのは初めてらしく、改めて検査しているのだという。結果は、以前に検査したとおりポジティブ。ウップス。
私は分娩室に入ってから、分娩に立ち合わせてもらってもいいか、Aさんに尋ねる。患者さんの権利などという言葉のないこの国なので、何をそんなこと聞いているのかというような顔をウェレにされる。陣痛に顔をしかめながら、Aさんは顔を縦に振ってくれる。日本だったら、いきなり分娩室に入ってきた見知らぬ若い外国人に、こうは答えてくれないであろう。
HIVの検査が終わり、赤ちゃんの進み具合を見た後、ウェレは朝食をまだ取っていないからと言って、どこかへ行ってしまう。そして、部屋には助産師のおばゃちゃんも1人いるのだが、彼女は長靴に履き替え鍬を持ち、庭の手入れがあるからといって彼女も消えてしまう。部屋には私と、苦しがっている妊婦さん2人と、Aさんの付き添いの家族が1人。焦る。かなり焦る。Aさんの付き添いというのは、Aさんの直接の子供ではなく、Aさんの養子らしく、彼女は焦った私の顔を見て苦笑いをしている。
すでに分娩室にいるAさんも苦しそうなのだが、待機室のベッドの上で横になっているBさんも苦しそう。時折、苦しそうな顔をした2人から「ドクターやシスターはどこにいるの!?」の聞かれるのだが、辺りを見回してもウェレの姿もおばちゃんの姿も見当たらない。焦る。途中何度か、処置室の看護師さんなどが分娩室に器具を取りに来たり様子を見に来たりするのだが、生まれるのはまだまだ先だと言ってすぐにいなくなってしまう。焦る。救急車に乗っている救急救命士さんは、彼らに許された範囲内での処置を終えた後、一体どんな顔をしてあの狭い空間の中で患者さんと向き合うのだろうか。マスクで顔が少しでも隠れている分、今の自分よりも彼らのことがうらやましいと思う。
しばらくして、Bさんがベッドから起き上がり、苦しそうによたよた歩き出し、待機室を出て用具室の前でしゃがみこんでしまう。焦る。幾度となく聞かれる「ドクターはどこ!?」の質問にしどろもどろになりながら、彼女の腕をさする。さする。さする。
それからさらにしばらくして、やっとウェレが帰ってくる。そして彼は、Bさんを分娩室へ入るように指示する。ウェレ曰く、もうすぐ生まれるとのこと。しばらく分娩室で頑張っているAさんを横に、Bさんの分娩の準備が始まった。
ウェレは赤ちゃんの進み具合をチェックし、私にも手袋を付けるようにと言う。「え、何も分からないんですが」、と戸惑いながらも手袋を付ける。日本から医学書を持ってきており、このセンターに来てからも、そしてウェレとおばちゃんの帰りを待つ間にも、出産関係のページを読んでいたのだが、どう考えてもその何ページかの文章が今この場で役に立つとは思えなかった。
ちなみにウェレと私が付けているその外科用手袋は、消毒液やコットンと共にBさんが買ってきていたものだった。普通のゴム手袋と違い、日本の感覚からしても高い外科用手袋。待機室の彼女のベッドの上には1ドルほどのお金が散らばっていたのだが、それが外科用手袋などを買った後の彼女の所持金だったのだろうか。右も左も分からぬような私がそんな高価な外科用手袋を付けていることが、何とも申し訳なく思われた。
分娩は進む。
ウェレは強い口調でBさんに指示をし、その横で戸惑いつつも、「大丈夫」というようなメッセージを、私は必死でアイコンタクトで送る。
そして、赤ちゃんは生まれる。
分娩室に入ってから、本当にあっという間のできごとの様に感じられた。実際、ほんの短い時間のできごとだったのではないかと思う。
生まれてすぐ、赤ちゃんを布で包み、体重計へとのせる。
3200グラムほど。
赤ちゃんは胎脂にまみれ、小さく、そしてとてもかわいかった。
お母さんよりも先に私が赤ちゃんを抱いたことになるのだが、申し訳なくもあり、嬉しくもあった。
女性がよく腰に巻いている、あの薄っぺたい布一枚で包まれたまま、赤ちゃんはしばらく体重計の上で放置。
胎盤を娩出させたり子宮を収縮させる薬を注射したりとウェレは忙しげ。出産後にも妊婦さんの様態が急変することがあり、産科DICというものになると設備の整った施設でもかなりの致死率だと授業で習ったことがあり、しばらくの間、私は無駄にハラハラする。しかし、大きな問題はなさそうであった。
ウェレが片づけをし、Bさんが分娩室の隅で体を水で流している頃だっただろうか(分娩室の隅にうずくまり、冷たい水に震えている姿は何とも不憫なのだが…)、助産師のおばちゃんがやっと帰ってくる。赤ちゃんを見て、「うん、2200グラムね」と言って赤ちゃんを待機室へと連れてゆく。いやおばちゃん、3200グラムだってば。
Bさんと一緒に私は待機室へと移る。ウェレは消毒や片づけでしばらく分娩室にこもったまま。あんたが片づけから何までするのかい。
待機室では、赤ちゃんにお乳を飲ませようとし、Bさんは赤ちゃんに乳首をくわえさせようと頑張っている。先ほどまでの表情と一変し、お母さんの顔になった彼女の表情がとても印象的だった。ずうずうしくもそんな親子の様子を覗き込んでいると、彼女は私のほうを向き、優しい笑顔で「ありがとう」と一言。
私は涙が出そうになる。

待機室の開け放たれた扉から、外を眺める。
すぐ横にあるハイビスカスの木には花がいくつか咲き、にわとりが餌をつつき、少し離れたところでは子牛が草を食んでいる。
何とものどかな景色だった。
1年後、5年後、10年後、あるいはもっと先、今こうやって待機室の入り口にたたずんで眺めているこの景色を、ふと思い出すことがあるのだろうか。
そのときは、どんな景色を眺めながら、どんなことを考えながら思い出すのだろうか。
このあまりにも劇的だった数時間を振り返りながら、ふとそんなことを考える。

それが私が始めて立ち会った分娩だった。

2010年1月3日日曜日

Nambale Health Centre

今週からADEOのオフィスを離れ、ナンバレ(Nambale)という町のヘルス・センター、日本で言うところの公立の診療所で見学実習をさせてもらっている。もともとブシアに来た当初から病院の見学をしたいとオフィスに希望を伝えており、オフィスでも是非そうしたら言いといわれていた。本当は数日間ほどでも医療現場の見学ができたら十分だと考えていたのだが、思ったほどADEOのオフィスでの仕事がなく、結局年末から研修が終わるまでの期間丸ごとを見学実習に充てさせてもらうことになった。
ドナーからの資金の送金が滞っており、その関係で年末はほとんどADEOとしての業務が停止していた。だったのだが、年明けからまた活動が再開できそうな目処が立ってもいた。ただ、ADEOでスタッフの補助的な立場で研修するのと、医学生として医療現場で見学実習させてもらうのでは、多くのことを吸収できるのは後者かと考え、思い切って残りの時間を個人的に使わせてもらうことになった。研修から離れることについて申し訳なさを感じていたのだが、ADEOのスタッフからは快く送り出してもらえた。逆に、あまりにも快く送り出されるものだから、オフィスでの存在価値がそんなにないのかななどと思い、切なくなるほどだった。ADEOには宿泊費などを補助してもらっており、その値段もケニアの平均的な人の収入を考えるとかなりの額だったが、そんなADEOに特に貢献することができないのはなんとも申し訳なかったし、残念でもあった。本当はADEOの研修生として、オフィスの中で、あるいはフィールドで仕事を自ら見つけ出すのが正解だったのかもしれない。見学実習というのも医学生ならではの逃げ道のようにも思う。そんな思いを抱きつつも、これから始まる全く新しい研修内容に期待を膨らませつつ、ケニアでの研修第3部はスタートした。
研修の概要であるが、最初の2週間はナンバレのヘルス・センターで、残りの時間をブシアのDistrict Hospitalで見学実習させてもらうことになっている。どちらも公立の医療機関なのだが、ヘルス・センターは町や村レベルの診療所で、District Hospitalは県(District、日本の都道府県のよりも規模は小さいので「郡」と訳したらいいのかもしれない)の中心となる病院という具合である。ブシアの町に住んでいる人などは直接District Hospitalに行くことになるのだが、そのほかの町に住む人の場合、初診やCommon Diseaseのケースではヘルス・センターに行き、それぞれのヘルス・センターでは対応しきれないケースや専門的な診療が必要なケースをDistrict Hospitalに紹介する、という仕組みになっている。さらに細かく説明すると、ヘルス・センターよりも小さなレベルとしてDispensary(看護師・保健師が詰めている診療所)があり、一方、ブシアのDistrict Hospitalよりも専門的な診療な場として州や国レベルの病院があるというシステムになっている。ケニアの地域医療(てか地域医療って何だ?) を知るのにいいだろうと思い、ヘルス・センターとDistrict Hospitalを覗かせてもらうことにした。
さて、ナンバレというのはブシアの町の中心から20キロほど離れたところにある町で、町の中心部から数キロ手前にヘルス・センターは位置している。このナンバレのヘルス・センター、以前のADEOの研修生がプロポーザルを手掛け、在ケニア日本大使館の草の根資金協力によって建てられたVCTセンターを併設するなど、ADEOとの関係の深いヘルス・センターである。そんなつながりで、今回私はナンバレのヘルス・センターにお邪魔させてもらうことになったのだ。ナンバレの人口は3万ほどらしく、いくつかの私立の診療所、そして5つほどのDispensaryがあるものの、ナンバレの中では中心的な医療機関である。そんなナンバレのヘルス・センターが、私の見学実習先だった。

診療の場
ケニアに来てから、医学生という立場で見学実習のために診療の場を見るのは今回が初めてだった。カジャドゥにいたときには、一度体調を崩して私立のクリニックを受診したことがあった。また、PEからの紹介患者さんの付き添いなどのためにカジャドゥのDistrict Hospitalにはよく足を運んでいたが、それも診察室の前までだったのだ。私がそれまでイメージしていたのとかなり違う部分もあったし、イメージ通りな部分もあった。
私が考えていたのと違う点としては、患者さんの抱えている疾患だろうか。HIVの感染率が7%を超えるこの国では、病床の多くをHIV/AIDS関連の患者さんが占めているというイメージを持っていた。実際、カジャドゥでもブシアでも、District Hospitalの敷地内には、病院の規模の割には大きな結核隔離病棟がある。ただ、入院施設を持たないこのヘルス・センターでは、HIV/AIDS関連の患者さんはほとんどいなかった。その代わりに多かったのがマラリアだった。マラリア、マラリア、マラリア。診察室の壁に、先月の疾患数トップ10を集計した棒グラフが張ってあるのだが、マラリアの棒が突出していた。そして、実際に患者さんの多くがマラリアだった。患者さんの病歴を聞き、顕微鏡血液検査に送り、検査結果を見て抗マラリア薬を処方する。そんな繰り返しだった。そしてもう1つ、その多さに驚いたのが妊婦さんの数。産科関係で受診する人も、マラリアなど非産科関係で受診する人もいるのだが、妊婦さんがとても多いのである。産科の某K谷先生が「出産可能年齢の女性を見たら必ず妊娠を考えろ」と言っていたし、実際救急の場でもそのように言われるようだが、その言葉が決して言い過ぎではないと思うほどに妊婦さんだらけだった。あまりの妊婦さんの多さに、ヘルス・センターからの帰りのマタツの中、道行く若い女性は皆妊娠中か授乳中なのではないかと思えてくるほど。何はともあれ、ヘルス・センターがマラリア疑い患者及び妊婦専門診療所に見えてくるほどであった。

医療設備
ルワンダに行ったとき、甥御さんが医師というルワンダ人のシスターがいて、その関係でキガリの病院に行ったことがある。そこで驚いたことの1つが、新生児専門病棟のスタッフが成人用の聴診器を首にぶら下げていることだった。日本の新生児専門病棟だったら新生児用の小さな聴診器をぶら下げているところだろう(ポリクリに行っていないのでよく知らないが)。
ほんの聴診器にしてもそうなのだが、ルワンダにしろケニアにしろ、こちらは本当に物がない。ナンバレのヘルス・センターには医師2人が常勤しているのだが、血圧計や聴診器を2人で使いまわしているのだ。そして、聴診器と共に使用頻度の高い、胎児の心音を聞く筒(日本語名が分からないのだが、産婆さんが使ってそうなイメージの筒。日本の医者は使うのかな?) も共有。日本では医学生ですらみんな持っているマイ聴診器を彼らが持っていないのは驚きだった。日本では高血圧を気にしている中高年などが自動の血圧計を持っていると言うと驚かれる。ちなみに、私は日本から自分の聴診器を持っていっていたのだが、おバカさんのくせにそんなものを持っていることが何となく申し訳なく思われ、出せず仕舞いでかばんの中にしまったまま。
聴診器のような機器すら十分にないので、ケニアには画像診断装置は本当に少ない。超音波やエックス線はブシアのDistrict Hospitalに行かないとできないし、CTはさらに大きな街に行かないとない。さらに、MRIなどは国内に数台しかないらしい。高価な医療設備に関しては、無駄にPETなどを備えた人口80万の高知県の方が、東アフリカの国々全体よりも充実しているのではないかと思う。

お金
ケニアの公立医療施設で治療を受ける場合、診療費は原則無料。カルテの様な手帳を初診時に購入することになっているのだが、基本的に出費はその手帳だけということになっている。手帳の値段は医療施設の大きさなどによって値段が変わり、Dispensaryは10シリング、Health Centreは20シリング、District Hospitalは50シリングという具合になっている。日本の感覚からいったらほぼ無料に近い値段だが、ここケニアではそんな小額なものであっても過剰な受診を抑制する効果があるのだろう。
さて、この手帳の購入だけで事が済めばいいのだが、残念ながらそうもいかないこともあるようである。一番多いパターンが、薬がないというもの。ヘルス・センターの中に小さな薬局があり、そこでは無料で薬をもらえるのだが、なんせ在庫の種類も数も少ないので、在庫がない場合は患者さんが他のプライベートな薬局で買わなければいけなくなる。休日診療のときも薬局が閉まっているので、そんなときは薬局に在庫があるはずなのに、患者さんは外に買いにいっている。問題があってヘルス・センターに来ているのに、またわざわざ遠くまで薬を買いに出かける患者さんを見ていると、なんともかわいそうな気持ちにさせられる。その他にも患者さんの出費となるケースがあるのだが、病気なり怪我なりで病院に掛かり、さらに出費を迫られる患者さんは、まさに泣きっ面に蜂といったところだった。