2009年10月25日日曜日

HIVと私

・前置き
最近の投稿の内容が、ケニアでの研修日記、ではなく、ケニア滞在日記になっている気がします。
昨日(23日金曜日)もケンはカジャドゥにおらず、唯一した仕事らしい仕事は、PEにコンドームを渡したぐらい。
ケンの指示なくスラムにもあまりフラフラ行くなという言葉を最近頂いたので、本を読んで一日を過ごしました。
この半ばmasturbationのような内容のブログですが、そんなmasturbationの記録の一番熱心な読者が、間違いなくFatherであることを考えると、さらに気が重くなります。
さて、そんなブログですが、今回はタイトルのように「HIVと私」という内容で話をさせてもらいます。
学校の宿題のようなセンスのないタイトルですね。
以下、3本立てになっています。


・ADEOでHIV/AIDSに関わるということ
1年を休学しケニアに本部のあるNGOで研修をし、HIV/AIDSに関わる活動をしているわけだが、アフリカやケニアに以前から特別な思い入れがあったのかというと、申し訳ないのだが、特にそんなものがあったわけではない。
また、HIV/AIDSについても然りである。
ADEOでの研修を選択した一番大きな理由は、以前の研修生に対する憧れだったのではないかと思う。
大学1年の夏、持ち前の協調性のなさでいまだにクラスや医学部の部活に溶け込みかねていた頃、実家に帰省した際、兄に連れられて顔を出させてもらったのがアデオ・ジャパン(ADEOの日本支部)のミーティングや飲み会であった。
アデオ・ジャパンとして国内で展開している活動の話、アフリカ帰りの研修生の刺激的な体験談。
切れのあるミーティング、有能で活動的なメンバー達の横顔。
彼らがとても輝いて見えたし、自分にはないもの、今の自分の周りはないものがそこにはあるような気がした。
自分の学生生活も、彼らのそれに少しでも近づけるようなものにしたいものだと思ったりした。
が、それから結局、部活とバイトで1週間が終わるような、高知でのまったりとした学生生活を自ら選択することになる。
しかしそれでも、1年の夏に見た光景を忘れることができないでいたのも事実であった。
また、目をつむっていても進んでいく学年と、テスト前の一夜漬けの繰り返しで近づいてくる「医師」という文字にも焦りを感じていた。
そんな、ないものねだりの羨望と焦燥感からクラスを飛び出し、日本を飛び出し、何も考えずにひとまずたどり着いたのがここケニアであり、そこで出会ったのが単にHIV/AIDSだけだったのだと思う。

休学届のための保護者のサインと、1年間の軍資金のため、ありもしない脳みそで私なりにひねり出したもっともらしい理由を両親には並び立ててみたりはしたが、誰よりも両親が気づいていたように、休学する意味やアフリカで研修する意味、HIV/AIDSに関わる意味を、私は何も考えてはいなかったのだと思う。


・人の弱さとHIV/AIDS
説得力のあるようなことは何も考えられずにいた私。
ただ、HIV/AIDSに関わらせてもらっていることは、私にとってとてもいい経験になっていると思う。

少し話がそれるが、数年前の話をさせてもらいたいと思う。

病院実習をしている5年生の先輩何人からか、私を含め下級生がその実習の様子を聞いているときのことだった。
学年の中でも特に優秀だったある先輩が、こんな様なことを言っていた。
2型(つまり主に生活習慣による)糖尿病の患者さんを担当しているのだが、そもそも自分のせいで病気になった患者さんのうえ、入院までしているのに生活態度を改めようとしない。
そんな人に医療を施すのはナンセンスだと思うし、医師になったらそんな患者さんは相手にしたくない。
おそらくそんな旨だったと思う。
つまり、自分の手で自分の健康を害しているような人の相手はしたくないと。
その後、その先輩は有名病院に就職し、そこでもバリバリやっているという評判を耳にしている。

医師が医師たるには、まず知識と技術があってこそであり、人間性が医師を医師にしているのではないだろう。
そんな意味では、その先輩は医師の鑑だと思う。
だが少なくとも、その先輩はHIV/AIDSに関わるのには向いていないだろうとも思う。

というのも、HIV/AIDSは人の弱さにつけこむような形で感染し、発症するのだから。
無防備な性行為や注射針の回し打ちでHIVに感染し、検査や服薬を怠ることによってAIDSを発症するのだから。
HIV感染・AIDS発症には大いに自己責任という言葉が当てはまるであろうし、自分で自分の健康を害しているという表現も間違えではないだろう(※)。
そんなわけで、その先輩の求める患者さん像の範疇にHIV/AIDSは含まれないだろう。

(※)ただし血液製剤による感染や母子感染、望まない性行為、中国などで問題になっている売血による感染を除く。
しかし「望まない性行為」って何だ。
最初はレイプを想定して書いたのだが、途上国などでの絶対的な貧困状況の中で、他に生きる道の選択肢のない中で体を売ることで糊口をしのいでいる場合はどう捉えたらいいのだろうか。
あるいは、女性の社会的地位の低さとpolygamyの中で、自分を守るすべを取る権利もないまま夫から感染する女性とか。
実際、「私にとってコンドームに触れることは罪だ」って言っているムスリムの既婚女性もいるし。
というか日本の男だって程度の差こそあれ勝手だし。
ということで、上記の主張は、同等の権利を有するカップル間の性行為における感染、および自己の意思による薬物濫用による感染という、かなり限定的な状況の下でのみのものだと思ってください。

ただ、私自身としては、そんな人の弱さを相手にするような保健・医療も楽しそうかなと今は考えている。
もともと、高校の頃に医学部への進学を考えていた頃、私にとって身近な医師というのが、アルコール依存症や薬物依存症を抱える患者さんがよく通っていた診療所の医師であった。
自分の弱さに負けて自ら病を招いたような患者さんを相手に、諦めることなく見捨てることなく付き合っていくその診療所のスタッフたち。
そんな彼らが相手にしていた依存症という病気と、HIV/AIDSはどこか似たところがあるようにも思う。
予防することも可能な病気、自分で招いた病気、一生付き合っていかなければいけない病気、などなど。
もちろん違うところもたくさんあるが、人の弱さを見つめながら付き合っていかなければいけないという点では、どちらも同じであろう。

今の研修内容としては予防・啓発がメインになっており、治療分野は他の団体の守備範囲になっているため、あまり病気そのものと向き合う機会は少ないが、それでもこうやってHIV/AIDSに関われてよかったと思う。


・日本で見たHIV/AIDS診療
日本でもHIV/AIDSは広がっているというが、それでもまだ身近な病気としては捉えられてはいないだろう。
インフルエンザなどと違って、知り合いの誰それがHIVポジティブらしいなどという話は、日常生活ではあまり耳にしないのではないだろうか(それは単に感染率が低いということではなく、社会に対してカミング・アウトすることが困難であることも意味しているのだが)。
幸いというか、私自身はHIVポジティブの人がリソース・パーソンを勤めているワークショップに何度か参加したことがあったり、大学の関係でポジティブの人の話を聞かせてもらったりしたことがある。
なので、HIV/AIDSという言葉を聞いたときにも、具体的に今まで出合ったポジティブの人たちの顔が浮かんできたりする。
そして、私が日本で触れたHIVの現場として一番印象に残っているのが、以前にある病院に見学に行き、そこでお邪魔させてもらったHIV診療であった。
診察室の中という特殊な環境であったが、そこで私が見たものは、日本のHIV/AIDSの現状をよく表していたのではないかと思う。
そのときに個人的にメモしていた原稿があるので、ケニアでの研修とは特に関係ないが、ここでそれを紹介させてもらいたいと思う。

なお、その病院は長野県にある病院で、HIV診療の拠点病院に指定されている病院だった。
この長野県であるが、人口比で東京・大阪に次いでHIVの感染率が高く、異性間の性行為による感染の比率が東京・大阪に比して有意に高いという特徴のある県なのである。
その背景として、長野オリンピック前に海外から労働者が連れてこられ、彼らと共にCSWが長野県に入ってきたことが指摘されている。
その病院で、通称HIV外来と呼ばれている外来診療に私は参加させてもらったのだった。
もちろん対外的にHIV外来などと名乗っているわけではなく、HIVの患者さんを診療していると分からなくし、患者さんのプライバシーを守るため、一般の外来患者さんと共にHIV患者さんを診療しているのだった。

以下、そのときのメモを若干手直ししたものを転載させてもらう。


東京などの都市圏ではHIVといえば若者の感染する病気だと思われがちだが、長野県では中高年を中心に蔓延し、実際にその日の患者さんも3人とも中高年の方であった。
HIVという感染症そのものにくわえ、社会からの偏見、一日たりとも欠かせない服薬治療、飲み忘れによる耐性ウイルスの増殖など、患者さんの心を煩わせることはいくらでもあるのだろう。CD4やウイルス量などの目に見える数値に一喜一憂しながら、患者さんはこの病気と生涯付き合っていくことになる。しかし、実際に診察室で患者さんを前にすると、彼らがどこにでもいそうなあまりにも普通なおじさん・おばさんであることに少なからず驚かされた。私が勝手に持っていた悲壮な雰囲気は、一見すると見受けられなかった。
 1人目と2人目の患者さんは中高年の男性であった。1人目の方のウイルス量が増えていることを受け、先生が薬の飲み忘れはありませんかとたずねたところ、飲み忘れはないとの返事。しかし、診察室を出た後に先生がおっしゃるには、飲み忘れでもしない限り、そこまで検査結果の悪化は考えられないということであった。先生とのやり取りの間、その患者さんが見せるうつろな目を思い出し、なんとも切ない気分にさせられた。
2人目の患者さんも、同じくウイルス量の増加が認められた。問診の結果、こちらはHAARTの抗ウイルス薬と飲み合わせしてはいけない胃薬を飲んでいたためではないか、ということになった。患者さん向けの冊子をその患者さんに渡し、飲み合わせの説明をしたところ、患者さんは合点といった顔をした。しかし、患者さんが診察室を出たあとに先生がおっしゃるには、以前にも飲み合わせの説明はしているし、おそらくこれからも患者さんは飲み合わせの悪い薬を飲み、数値を悪化させるのではないか、ということであった。HAARTの登場によって、もはやHIVは死の病ではなくなったが、HIVやその治療と向き合っていくことが思いのほか困難であることを思い知らされた。
3人目の患者さんは、60歳過ぎだろうか、おばちゃんであった。ベージュの帽子を被り、きれいに着飾ったその患者さんは、彼女の明るい雰囲気からも、年齢からも、私の抱いていたHIV患者さんのイメージからはかけ離れたものであった。2人目の患者さんと名字が同じだと思ったら、2人はご夫婦ということであった。
そのとき、以前先生がおっしゃっていたことを思い出す。旦那さんがHIVの場合、奥さんも感染していると分かったとき、残酷かもしれないが安心する。HIVに感染しても奥さんにそれを感染させないような関係のカップルの場合、離婚に至るケースが多い。HIVに感染し、家族までも失った人は、ウイルスによって命を落とすのではなく、自らの手によって命を絶つケースがとても多い。一方、カップルでHIVに感染したケースでは、HIVに向き合うためのパートナーがいるわけで、独り身のケースよりも比較的良好な経過をたどることが多い。そんなことを先生はおっしゃっていたのだった。
さて、そんな彼女の診察中、ひとつ気になることがあった。彼女が「今日もお願いします」と言って、黒いビニール袋を先生に手渡すのである。最初、ここが田舎なだけに、家で採れた野菜や漬物などを、お世話になっている先生に差し入れに持ってきたのかとも思った。それにしても、数枚重ねにしたその黒いビニール袋は何か不自然であった。診察が終わり患者さんが診察室から出ていった後で、私は先生から、袋の中身が何か分かるかと尋ねられる。もちろん私には答えは分からない。が、先生にその袋を持たせてもらい、思いの外軽いことに気づく。結局答えが分からないまま、その黒い袋を開けさせてもらう。中身を見て驚く。中身は、HIV治療薬の空になったプラスチックのケースだった。先生がおっしゃるには、仮にも近所にそのケースを捨てたとき、ご近所さんからHIVの治療を受けていることが知られるのが怖く、そのために病院でケースを処理してもらうために患者さんは毎回ケースを持ってきているということであった。日本におけるHIVの受け止められ方を知らされるような、印象的な診療見学であった。

2009年10月22日木曜日

最近のひとり言

最近のひとり言

その1、ケンが帰ってこない
ケンがなかなか帰ってこない。


その2、ハクナ・カジ
日本でもそれなりに認知度が高いと思われるスワヒリ語の言葉に「ハクナ・マタタ」があると思います(スワヒリ語であると認知されている訳ではないようですが)。
ディズニーのアニメ映画、ライオンキングの影響が大きいのでしょうか。
英語で表現すると「ノー・プロブレム」、「問題ないよ」の意味になります。
「ハクナ」が「○○がない」の意味で、○○の部分に単語を入れていろいろと活用できます。

たとえば、「ハクナ・マチチ」は、「マチチ」がおっぱいの意味なので・・・、といったように使います。

カジャドゥを表す言葉としては「ハクナ・マジ」がいいでしょうか。
「マジ」は「水」なので、「水がない」という意味になります。
ただ、例年雨の降ることのないこの時期ですが、今年はエルニーニョの影響で最近何度か雨が降っています。
大雨が降っても道が冠水しないよう道の横に側溝を掘り、まだ続くであろうエルニーニョの大雨にカジャドゥの町は備えています。

ケニアの問題を現す言葉のひとつとして、「ハクナ・カジ」があると思います。
「カジ」は仕事の意味なので、「仕事がない」の意味になります。
実際、1人でカジャドゥの町を歩いていると、「仕事を紹介して欲しい」とか、「日本にいい仕事はないのか」とよく声を掛けられます。
最近も、ある知人からそんなことを尋ねられました。
今失業中なのだが、ADEOや他の団体に求職中のポストはないか、と。
ただ彼が今までの人と違っていたのは、何週間か前に彼をAPHIAⅡの職員として見ていたことでした。
VCT(HIVのVoluntary counseling and Testing)のカウンセラーの活動を評価するため、彼はリフトバレー州の本部から派遣されていたのですが、たまたま私がVCTを受けた後だったので、VCTの様子はどうだったかとインタビューがあったのでした。
またその後、彼が他の職員に渡す書類があるからと、オフィスに私しかいないときに彼と待ち合わせをし、彼からその書類を預かったこともありました。
インタビューのときの彼の紳士的な対応は印象に残っていましたし、オフィスで待ち合わせをした際、彼が遅刻することなく現れたのにはかなり驚かされたことは忘れてはいませんでした。
そんな彼も臨時の職員だったため、今は失業中とのこと。
大学を出ても「ハクナ・カジ」なことも珍しくないケニア。
難しい問題です。


その3、体調不良再び
火曜日、先週と同じ症状の体調不良にまた襲われました。
今回は昼間から調子が悪かったので、近くの診療所に連れて行ってもらいました。
今は元気です。
今回はお医者さんが出してくれた薬を飲んでいます。

ケンが以前に買ってきてくれた薬、200シリング。
何の薬かよく分からない薬を飲む不安、プライスレス。

今回の診察代と薬代、900シリング。
処方された薬を飲む安心感、プライスレス。

ちなみに、ここでは薬はばら売りにされています。


その4、英語
ケンの3歳だか4歳の娘さんが、最近保育園に行きだしているそうです。
何と驚くべきことに、そこで英語を習い始めているそうです。
先週末にケンの家に泊まったとき、その英語を披露してもらいました。
「Monday, Wednesday, Friday」とか、「Twenty, Thirty, Eighty」など、まだめちゃくちゃではあるのですが、きれいな英語の発音。
彼女の母親の、ケニア訛の英語よりも英語らしい発音だったのが印象的でした。

道端を歩いていると小さな子供から「How are you!?」とよく声を掛けられます。
まだ学校に通っていない彼らは、英語あまりを知らないなりに、知っている英語を「使う術」を持っているのだと、よく感じさせられます。
日本人の偏った英語の能力とは対照的ですね。

先日、日本の大学で教鞭を取っている兄弟がいるというおじさん(以前のブログ参照)と、カジャドゥの食堂で一緒にビールを飲みました。
食堂のテレビでは、キバキ大統領が英語で演説している様子が流れていました。
ケニア訛の英語で、原稿に目を落としたままゆっくりと演説する大統領。
そんな時、その男性は、「日本人は自分たちの文化に誇りを持っているから日本語しか使わないと聞いている」、「ケニアは共通の言語であるスワヒリ語を持っているのに、公の場では英語しか使わないのは残念だ」と語ってくれました。
その言葉を後押しするかのように、演説の締めくくりを大統領はスワヒリ語で行ったのですが、彼はスワヒリ語を話し始めたとたんに原稿から目を離し、活き活きと語りはじめるのです。
さらに、それにつられるかのように、今までテレビを見ていなかった食堂の人たちも、テレビに釘付けになるのです。
ケニアにおける英語の捉えられ方を現す、印象的な場面だったように思います。

国際コミュニケーション・ツールとしての英語。
今の日本の形がベストだとは思いませんが、どんな形での英語の受け入れ方が日本には求められているのでしょうか。

ビザ延長

先週末はナイロビのケンの家に泊まり、月曜日はナイロビのADEOオフィスに一度寄った後、有効期限が残り少なくなったビザの延長のため、イミグレーション・オフィスに行く。

最初はケンが連れて行ってくれることになっていたが、忙しいから一人で行ってくれと言われる。
イミグレーション・オフィスの入っているニャヨ・ハウスの場所自体は分かっていたし(ここではビルのことを○○ハウスと呼んでいる。森ビルではなくモリ・ハウスみたいな感じで)、手続は1人ででしかできないので、ケンの同伴がないことに特に問題はないのだが、実は先ほど、ADEOのオフィスでケンの同伴なく1人歩きをしないよう、イエローカードが出たばっかりであったのである。
タウンに行く分には構わないのでしょうか?

マタツに乗りさらに少し歩き歩きニャヨ・ハウスへ。
いろいろ不安を抱えつつ窓口へ。
記入する用紙を指定され、それを記入。
滞在先の欄にはカジャドゥと記入。
再び窓口へ並ぶのだが、正直滞在目的を聞かれないかドキドキ。
というのも、今回申請しているのがホリデイ・ビザだから。
本来NGOで働く場合であってもビジネス・ビザの取得が求められているのだが、過去のADEOの研修生の経験から、ビジネス・ビザではなくホリデイ・ビザを取るようにアドバイスされていたのだった。
もちろん日本で最初にとったビザもホリデイ・ビザであった。

当然ながら窓口でカジャドゥのそこで何しているのかと聞かれる。
彼女の言葉をオウム返しにし、一瞬言葉に詰まる。
視線が宙を漂い、考えてきていた言い訳を言おうとその視線が係員の元に戻ったとき、既に彼女は特に気にも留めていないことに気づく。
そして2200シリング払えと言う(日本円にして2500円ほどでしょうか。円高が進んでいるらしいですね)。
あら、安い。
そしてドルじゃないのですね。
あとでレシートを見たら2000シリングと書いてある。
差額の200シリングは何なのでしょうか。
ちなみに、あらかじめ入管のウェブ・サイトで必用書類や代金をチェックしていたのだが、そこにはシングル・ビザ50ドル、マルチ・ビザ100ドルと書いてあった気がする。
いろいろな金額が出てくるのはなぜなのだろうか。

よく分からないまま隣の窓口に行けと言われ、何か係員がした後、さらに隣へ。
書類を渡したまま、しばし待てと言われる。
近くのベンチに掛けて待つ。

前にいるのはインド人の子供。
かわいい。
髪の毛どこで切るのか聞きたかったが、一緒に遊んでいるうち結局聞くのを忘れてしまう。

不思議な風景。
黒人、白人、インド人、同じブルーのシャツを着た中国人3人組。
みんなどんな理由でここにいるのでしょうか。

しばらく待った後、何人かの名前が続けて呼ばれる。
その際呼ばれたのは、5人ほどいただろうか、私以外全員白人。
係員が何かを言い、私は何を言っていたのか聞き取れなかったが、白人たちについていく。
別室の前で待機、1人ずつ名前が呼ばれるよう。
恐る恐る、ガラス越しに中をのぞく。
滞在理由を聞かれるのかと心配に思っていたが、何と指紋押捺。
それも全部の指。
これで私ら犯罪者予備軍扱いですな。
そして法医学実習を思い出しますな。
私も真ん中あたりで名前を呼ばれる。
最初とか最後だったらもっと緊張していただろう。
笑顔ながら硬くなる私は、「リラックスして!」と言われる。
おばちゃんは緊張で硬くなった私の指を無理やりインク台、そして紙に押し付けるのだが、とてもうまくやっているように思われる。
実は法医学実習のときに採取した指紋を記念に取っており、いまだに筆箱に入ったままなのだが、それよりもきれいな指紋押捺。
さすがプロですな!
その後、コットンでふき取る。
が、うまくふき取れない。
次の人のを見て、灯油か何かが手を拭くためにあるのに始めて気が付く。
が、完全にきれいにはならず、灯油も蒸発せず。

と、ここで次に何をしたらいいのか分からなくなる。
周りの白人がいなくなっており、かなり焦る。
係員に聞いても要領を得ず、そんな彼らの適当な対応に近くにいる白人君と一緒に苦笑いするのだが、最終的に、最初に出向いた窓口に行けばいいことが分かる。
なぜ5番窓口?と思いながらその窓口へ向かう。
列に並びながら、並んでいる理由が分かってくる。
そう、もうビザの判は押されており、後はパスポートを受け取ればいいだけだったのだ。
ビザ、ゲットです。

ちなみに、ビザはシングルかマルチか分からず。
申請用紙で、既婚か未婚かと問われているのかと思い、シングルの欄に丸をつけたのだが、あれはビザの種類だったのかな・・・?
確か、シングルの対はMで始まっていた気はするのだが、MarriedだったのかMultiだったのか。
あと、延長の期間は2月2日まで。
帰国までビザの更新を再度しなくてもよさそう。

朝は急いでいたのでトイレに行けなかったので、ハウス内で大をする。
先週からの下痢から回復。
めでたしめでたし。
と思いきや、間違えて女子トイレに入っていたようで、扉を開けてから軽く恥をかく。
そんなビザ申請の一日。

写真1、日本で取ったケニアのビザと黄熱病のイエローカード
写真2、ケニアで延長した際に押された印(右ページ)

ビザ延長、2200ケニア・シリング。
ケニアでの半年、プライスレス。

体調不良

木曜日、ナマンガでの活動の後4時ごろにカジャドゥに戻るのだが、強い倦怠感に襲われ、仕事を早退させてもらう。
そして家で横になる。

夜7時過ぎにケンが帰宅し目を覚ます。
熱があり頭痛があるのだが、何よりもしんどいのは足の筋肉が痛いこと。
十種競技の1日目、400mが終わった後のような痛み。
私がかなりしんどがっているのでケンが薬を買ってくるという。
自己診断・自己投薬はためらわれたが、ケンは症状を聞いたりすることもなくマラリアだと決め付け、そのまま出かけていってしまう。
しばらくしてケンが買ってきたのは、抗マラリア薬、抗生物質、痛み止め、後もうひとつ何かの薬。
日本円にして200円ちょいの値段ながら、でかい錠剤を4種類も買ってくる。
なお、ここでは薬はばら売りにされており、パッケージがないので薬の詳細はよく分からない。
明日病院に行こうとケンは言っており、医者に見てもらう前にやたらと薬は飲みたくなかったが、体もかなりしんどかったし、何よりもケンが強く勧めるので、おとなしくケンに従うことに。

最初、ケンは食前に薬を飲めと言っていたのに、薬を飲む前、近くに住むAPHIAⅡのスタッフがお見舞いに来てくれ、彼女が食後のほうがいいと言ったら、今までの言葉はなかったように食後に飲めと言う。
食前に飲んだら胃に悪いと言う。
食前に飲むのが怖かったので、私は食事の直前に飲もうと料理ができるのを待っていたのだが、彼女が来てくれたことに胸をなでおろす。
そして薬を飲むのがさらに怖くなる。

当初は飲んだ振りをしようかとも考えたりもしていたが、食後、指示されたとおりに薬を飲む。
そして就寝。

翌日目を覚ますと、昨日のしんどさが嘘のように体が軽くなっている。
調子の悪さは残っているが、横になっている分にはしんどさはない。
大事を取りこの日は仕事を休むことにしたが、それでも薬が効いたのだろう。
今となってはどの薬が効いたのか分からないが、めでたしめでたしである。

ちなみに、木曜・金曜と3組がお見舞いに来てくれる。
いずれもAPHIAⅡの関係者なのだが、とても嬉しかった。
来てくれたこと自体嬉しかったが、彼らの丁寧な対応も嬉しかった。
上にも書いたとおり、薬を食前に飲むように言っていたケンに、食後に飲むようにアドバイスしてくれたり、別のスタッフは手で熱を測り、「関節に痛みはないか」などとマラリアを心配して質問したりしてくれた。

連携

先週1週間はPEの活動活性化にむけて、具体的にはヘルスセンターとの連携を強化すべく活動した週であった。

月曜日には、キテンゲラのユースとのミーティングをスムーズに進めるため、会場の確保、ミーティングへの医療従事者の参加などのヘルスセンターからの協力について話し合われた。

またこの日の晩、先週であった韓国人の女性と一緒に晩御飯を取った。
韓国の仏教系団体で働いている彼女、私よりも長いことケニアにおり英語・スワヒリ語共に私よりも上で、それらを使いこなしてここに溶け込もうとしているのが分かる。
が、ムズング(白人つまり非黒人)がここにいること、そんな彼女がスワヒリ語を使おうとする姿に、何となく不自然な空気を感じてしまう。
多分私の姿も、現地の人には同じように映っているのだろうか。


火曜日はPEの活動とは関係はないのだが、この日もミーティングがあった。
毎年12月1日はWorld AIDS Day(世界エイズ・デー?) になっているのだが、この日にカジャドゥ県内でイベントを開催すべく、その準備のミーティングであった。
県内でHIV/AIDSに関わる団体(ステークホルダー)一同が市内に集まって開催されたのだが、APHIAⅡの直接のスタッフの他、ADEOなどのAPHIAⅡの下で活動している団体、APHIAⅡとは直接は関係のないがHIV/AIDSに関わるその他の団体などが集まる。
まず県内のどの場所でイベントを開催するか、という段階から話し合うのには驚かされる。
以前にもブログに書いたが、都市部よりも地方での感染拡大が憂慮されており、そんな流れを受けて、今年は県内でも比較的田舎のほうの町でイベントが開催される方向に。
外から来た私にはどんなところなのか分からないが、話を聞いているとかなりの田舎な気がする。
World AIDS Dayに私はカジャドゥにいないので参加できないので残念なのだが、カジャドゥに来た後すぐにマイリティサであったイベント並みの大きなものが開催されるのだろう。

なお、このミーティングには、以前マイリティサで出合ったことのあるアメリカ人の白人女性も参加していた。
実はその後にもカジャドゥ市内やナマンガで見かけたことがあるのだが、今回初めて話をする。
アメリカのピースコ(Peace Corp、平和部隊かな? 日本の青年海外協力隊のアメリカ版?) に所属しマイリティサで活動しているという。
多分50歳くらいで、資格だけだが看護師だという。
いかにもアメリカ人といった感じの彼女、アメリカンジョークを飛ばし、ミーティング前には、この会議は英語で進めるのかスワヒリ語で進めるのかと質問している。
かなり聞き取りやすい英語を話してくれるのでリスリングに疲れることはないのだが、そのハイテンションっぷりには疲れる。
ミーティングのあと、アフィアⅡのスタッフが彼女の真似をしており、出しゃばり過ぎると周りからはああいう風に受け止められるのだと反省されられる。
彼女などは英語が不自由なく使える分、その振る舞いで現地との距離を作ってしまっておりもったいないと感じさせられる。
そして、努力次第で何とかなる英語で周りとの距離を作ってしまっている自分ももったいないことをしているのだろう。
他のアイセックの研修生と違い、ケニア人以外と付き合う機会の少ない私、外国人と接するのもいい勉強になると感じる。

ミーティングのあと、近くの県立病院までHIVの担当者に会いに行く。
PEの活動の支援を相談しに行くもので、以前にも何度も彼女を訪れているのだが、毎回彼女は不在。
さすがに今回、ケンはアポを取っているのかと思いきや、聞いてみるとアポを取っているわけではないという。
結局今回も外出のため彼女には会えず、毎度だがケンの効率の悪い動き方にあきれさせられる。
当初の目的は果たせず、配布用のコンドームを受け取り病院を後にする。

さらに病院のあと、マジェンゴ・スラムでPEのところへ寄る(前回の投稿参照。ラクダ君の話)。


水曜日、午前中オフィスで仕事をした後、昼からマジェンゴへ。
主な目的はPEに出会って話を聞くこと。
もうひとつは、飲み屋や宿泊施設を回り、売春が行われていそうなところを新しく見つけること。
町外れに宿泊所を併設する飲み屋を発見。
宿泊所内には保健省の名前の入った立派なコンドーム・ディスペンサーがありテンションがあがる。
さらに店員に聞くとしばらくコンドームが補給されていないとのこと。
要検討ですな。


木曜日、ナマンガへ。
APHIAⅡの中でもHIVのHome based Careを担当している団体があり、その団体のスタッフと一緒に行く。
彼女自身、その団体の仕事があったのだが、それに加え、彼女にはPEとのミーティングの中でその団体が採用している活動手法を紹介してもらったり、また私たちの活動を彼女に見てもらい助言をもらったりする。

彼女の話を聞いたり、実際に彼女の団体のCHW(Community Health Worker、ADEOでいうところのPE的な存在)の活動を見させてもらったりすると、やっぱりADEOよりも活動的なのが分かる。
予防・啓発分野を担当しているADEOと違い、すでに感染した特定の人を対象とする活動のため、CHWも活動しやすいということもあるだろう。
予防という不特定多数が対象の活動は、やはりつかみどころがないのだろう。
だが、それ以上に我々に改善の余地が多く残されていることにも思い知らされる。

また、ここナマンガでもヘルス・センター(小規模の病院に保健所の機能を加えたような施設)へ行き、担当者と話をする。
PEとヘルス・センターの連携促進のためだが、少なくとも今までは全然連携が取れていなかったことが改めて明らかになる。
前出の団体とは連携が取れているので、問題がヘルス・センターではなく我々にあるのが分かる。

また、金曜日にもケンはキテンゲラで同様の時間を過ごす。
ただ、私は体調を壊し、この日は休ませてもらったので詳細は分からず。

いずれにせよ、この週はヘルス・センターとの連携をスローガンに活動した週であった。
PEの活動の低さの根底にはモティベーションやインセンティブの欠如があり、この週の活動が成功裏に終わったとしても、現状を大きく変化させることはできないかもしれないが、PEの活動の環境を改善できるという点では大きな意味のある活動であっただろう。

2009年10月15日木曜日

インタビュー



ケンはいつも夕食が終わると、時間に関わらずすぐにベッドにもぐりこんでしまうのだが、昨晩(12日)は珍しく仕事の話、特にこれからやりたいことなどの話をする。

簡単にまとめると、2人でPE(ピア・エデュケーター)にインタビューとアンケートを行い、ADEOのナイロビのスタッフにプレゼンテーションしようというものだった。
インタビューの内容であるが、ケンの意図としては、半分はPEのHIV/AIDSに関する知識をテストするためのよう。
そして残りの半分で、ADEOの活動に関わって変わったこと、ADEOに期待することなどを聞こうというものだった。
さらにそれらをまとめ、ADEOがカジャドゥのPEに与えたインパクト、コミュニティに与えたインパクトをプレゼンテーションするというもの。

与えられた課題以外の仕事の話を、ケンとこうやってするのは初めてだった。
カジャドゥに来た当初、夕飯後にAPHIAⅡのレポートなどを一緒に読み、ディスカッションをしようと提案してくれたケンだったが、そんなことがあったのも最初の2日だけであった。
仕事の話をしていても、結局は上司やPEの愚痴、交通費の支給が不十分なことに対する不満を語ってくるだけだった。
それが、ケンとこうやって建設的な話ができたのはとても嬉しいことであり、大きな驚きでもあった。

多分、私自身、勝手にいろいろなことを諦めていたように思う。
上司やPEの文句を言い、前向きな話と言ったら他の団体に転職したいとか地元でビジネスを始めたいといったことしか言わないケン。
PEとしての自覚も知識も不十分なようにしか見えず、ADEOからの見返りを期待してのみPEになっているのではないかと思われるPE達。
言葉が通じないことを言い訳に積極性のかけらも見せない私。

決められた単純作業以上の建設的な仕事の種が見つけられてよかったと思う。
カジャドゥでの残された時間は短いが、ケンと協力しながら、私の存在がプラスになるような活動ができればと考えている。

ある日の夕飯



13日、カジャドゥ市内にあるマジェンゴ・スラムのPEに会いに行ったのだが、そのついでに、まだ辺りも明るい頃、PEから早めの夕飯をご馳走になる。

私は以前にも何度かそのPEにご馳走になったことがあるのだが、ケンは今回が初めて。
正直2人とも乗り気ではなかったが、PEの勢いに負けご馳走になることに。

程なく出されたのは若干の味の付いたお米と、淡水産の小魚をトマトなどと煮たもの。
すでに調理されていたものを再加熱してくれたのだが、気持ち程度にしか温まっていない。
大きななべに大量に残ったご飯を混ぜることもなく練炭の弱火で温めるだけなので、ほとんどの部分は冷たいまま。
少なくとも以前は熱の通ったものを口にできたのだが、今回はその過程が抜けている。
衛生的な環境とはお世辞にも言えず、私は恐る恐るそれらを口にする。

一方のケン、どんな反応を示すのかと思ったら、
「最近胸焼けがするから、冷たいお米は食べられない」
と言い張り、お箸、否、スプーンをつけようとすらしない。
私が食べている横で、小声で「こんな食事は全然衛生的ではない」とか「この小魚はいい部分をスーパーに出荷した後の残りかすだ」とか、「この小魚はちゃんと洗えていない」などと散々なこと言う(ケニアの淡水産の小魚は十分に洗わないと泥と小石が残っているのだ)。
私たち2人だけに食事が出されていたのだが、PEの子供を呼んできて、彼に食べさせようとする。
さらに、彼が手で食べようとすると、「イスラム教徒はスプーンも使わないのか」とケンは言う。
私たちもいつもは手で食事をしているのに。

オフィスで他のスタッフとの話を聞いていて思うのだが、私がケンとPEの間に感じる以上の差・心の壁を、ケンはPEとの間に持っているのだろう。

そんなケンを横目に、気が進まないなりに私はスプーンを動かす。
思えば、以前にこのPEの家で食事をしたあと、一度お腹が痛くなったことがあった。
しかし、何かを諦めながら、煩悩を捨て、無心になり食べる。
いろいろ考えながら食べるとつらいので、心をリセットして食べる、そう表現したらいいのだろうか。
が、どうしても不安が頭から離れない。
お皿の周りにたかるハエ。
以前にここのトイレで用を足したことがあるのだが、その不衛生なトイレとそこにびっしりと集まるハエを目にしているので、今目の前にいるハエがどこから来たのだろうかと思うと怖くなる。

ついに何とか完食。
思えば、ここに来てから出されたものはほとんど残していないと気づく。
ただ以前に、どうしても残してしまったものがひとつ。
それは他のあるPEの家で出された、彼女の家で作っている伝統酒だった。
彼女ら曰くトウモロコシから作ったアフリカン・ウイスキーなのだが、密造酒という表現も可能な代物。
コップに注がれたとき、家庭で作るお酒によく含まれるというメチルアルコールのことも気になったし、水割りに使っている水の衛生面にも気になったが、そのにおい自体にノックアウトされてしまった。
なんとも言えぬ甘いにおい。
鼻で息をしないようにしながら、恐る恐る口にする。
と、口にした瞬間、吐き気に襲われる。
何とかそれをこらえ、口にした分を飲み下す。
頑張って飲もうとしたが、そのときは結局お猪口一杯程度しか飲めず、謝ってコップに残った分を辞退する。

さて話は戻るが、そのご飯も終わりかけた頃、骨付きの肉(肉付きの骨?) を煮出して作っていたスープを出される。
火が通っているのを目にしているからか、ケンはこちらには興味を示す。
まずケンは、どこで肉を買ったのかと尋ねる。
返ってきた答えは、町の中心にある食堂。
ちょうど昨晩私たちが食事を取った食堂であった。
そこは肉屋を兼ねた食堂ではないので、食堂で出された肉の余りということになるのだろうか。
さらにケンは、何の肉かと尋ねる。
答えはラクダ。
何と先日私も目にし、写真も撮っていたラクダだという。
あのラクダ君たちのうちの1頭なのか!
これが生きることの本当の姿なのか!

スワヒリ語の会話の後、ケンに訳してもらいワンテンポ遅れながら会話に付いていく。

さて、アロエと共に煮たそのラクダ汁、まずケンが口にする。
ケンは悪くないとの感想。
それを聞き、私も口にする。
何と表現したらいいのだろうか、この味。
ケニアの肉、特によく口にするヤギの肉は日本の肉にはない獣臭さがあるのだが、そんな獣臭さを煮詰めたような味と表現したらいいのだろうか。
正直言って、まずい。
が、飲めないほどのものではなく、残すのも申し訳ない。
最後野嘔吐中枢が活性化され、下からこみ上げるような感覚に襲われつつも、「これはおいしいはずだ」と自分に言い聞かせながら何とか飲み干す。

なんともつらかった。
まずさもつらかったが、せっかく出された食事、PE家族の貴重な食材を削って出された食事を、喜んで頂いていない自分にもつらさを感じた。

そんなある日の夕飯であった。
写真:調理中、調理後

2009年10月11日日曜日

ポレポレ

今まで週末はナイロビに行ったり人に出会ったりしており、それなりに忙しく過ごしていたのだが、珍しく今週末は特に予定がない。
本当は、日本に姉妹がいるという月曜日に出会ったケニア人の家に遊びに行く予定だったのだが、昨日予定の確認の電話をしたら忙しいからやっぱり無理との返事が返ってきていたのだった。
ケンは昨日の夕方からナイロビに行っており、なのでカジャドゥに私1人。

10月も上旬がもう過ぎ去ったのだが、この10日間を振り返ってみると、大して仕事をしていないことに気づく。
前回のブログにも書いたように、一度、HIV感染が疑われた男性をVCTセンターに連れて行ったのが、それだけのためにほぼ2日を費やす。
PE用のIDカードのフォームを作ったのだが、それも大した時間はかからなかった。
(ただ、ポレポレと仕事をするケンは、そのフォームに写真や名前、その他の情報を入力する作業をいまだに終わらせていないのだが)
その他にも、配布用のコンドームを病院に取りに行ったり、APHIAⅡの報告書関係の作業が若干あったのだが、それとて大した仕事ではなかったように思う。
日本に比べ、消化している作業量がとても少ないように感じる。

今まで前任者が掛け持ちという形で担当していたここカジャドゥの業務。
そこに専属でケンが配置され、さらに私が加わっているわけなので、仕事が少なくても当然なのかなとも思う。
ここに来た当初は、前任者がまとめていなかった資料をまとめたりの作業があったが、それも終わってしまうと日常業務と呼べるものがあまりないのだろう。
交通費の補助が出ないため、ケンはカジャドゥ市内以外のプロジェクト地にわざわざ行ってPEの活動を見ようとはしたがらないし、今週はIDカードの作成という、ケンにとってはハードワークがあったので、カジャドゥ市内のPEの活動にも顔を出していないし。

そんなことを言っている私も、すっかりと彼らのポレポレとしたペースに慣れ切ってしまっている。
そして、何もすることがないとき、日本から持ってきた英語の単語帳を眺めたりするのである。
最近のマイブームは、データ管理ソフトであるマイクロソフト・アクセス。
今までほとんど触れたことがなかったのだが、APHIAⅡの報告用にアクセスが今月から導入され、そこでアクセスの面白さに気づいたのである。
以前に陸上部の主務をしており大会の記録の管理などをしていたのだが、アクセスがあればそんな作業が楽にできたんじゃないかななどと思いながら、ここ1週間少しずつ勉強中。

が、考える。
体も頭ものんびりとしたこんな生活を送るためだけにわざわざここまで来たのかと。
医学部の6年の中でも一番得るものが大きいと思われる5年目を休んでのこの1年。
この期間で自分なりにゆっくりと考えたかったこと、ヒントを見つけ出したかったこともあるし、研修中に私なりに現地のために何か生み出せるものがあればと思っている。
が、そんなモヤモヤをカタチにするような行動をいまだに起こせていないのが現状。
カジャドゥにいられるのも残りあと1ヶ月ほど。

ケニア人のようにポレポレと生活するのに慣れるのはいいが、頭の中までポレポレになってはいけないのだろう。
焦らず腐らず。

そんな土曜日の昼。
電車も自転車並みの速さでポレポレと進みます。

単純作業

ここ最近の仕事。

APHIAⅡに活動報告書を提出するのだが、これが無駄の多い単純作業。
PEの活動実績を各人ごとにまとめるのだが、その数字を羅列しただけの表を、なぜか3種類提出する決まりになっている。
ほぼ同じ内容の表というか報告書を。
ひとつは手書きで、ひとつはエクセルで、ひとつはアクセスで。
エクセルやアクセスの入力方法の詳細な指示がなく、自己流に入力している部分もあり、APHIAⅡの組織の上のほうで、報告した数字がちゃんと処理されているのか疑問を感じたりする。
そんな単純作業。


もうひとつはPE用のIDカードの作成作業。
写真入でラミネート処理されたIDカードを作ると、以前にPE達にケンが口約束していたらしいのだが、そのまま放置されていた仕事。
前回の月例ミーティングの際にそのことをPE達から指摘され、ケンもさすがに作らないとまずいと感じたのか仕事を始める。
ケンは最初、ワードを使って自力で作ろうとするのだが、残念ながらサイズがまちまち。
彼の仕事を奪うのはよくないと思いつつ、最初のデザインだけは私がやることに。
私が名刺作成用のワードのフォーマットを持っていたので、まず私がそれを使ってIDカード用のフォーマットを作る。
そして、ケンがそこにPEの写真や名前などをコピー・ペーストしていく。
写真のサイズを調整し…と、時間のかかる単純作業。

季節

心の中で休学をはっきりと決めてからだろうか、日本にいた頃、季節の変化を以前にも増して強く感じていたと思う。
夏から秋へ。
秋から冬へ。
冬から春へ。

都心で暮らしていたのなら季節の変化とは気温の変化程度のものだったのかもしれないが、高知という土地柄か、季節を感じさせるものが周りにあふれていたように思う。
特に、通学路の横に広がっていた田んぼなどは、季節に合わせてその表情を変えていたように思う。
あるいは、大学の門から伸びる桜並木。

そんな自然の移り変わりを目にし、心洗われるというよりも、なんとも言えぬ焦りを感じていた。
知識が身に付いている感触がなくとも試験にさえ通ってしまえば進級でき、そんなことの繰り返しで過ごしてきた今までの大学生活。
確実に学年は上がっていくのだが、その先が見えずにいた。
私の中身だけが取り残されたまま、季節が、時間が、足早にその横を駆け抜けていくような感覚。
葉の色が変わったかと思ったら、いつの間にか葉を落とした桜、いつの間にか小さなつぼみをつけた桜、いつの間にか満開となった桜、いつの間にか葉桜となった桜。
コスモスが咲いていたと思ったら、いつの間にか乾燥した土だけが広がる田んぼ、いつの間にか耕され、いつの間にか水の張られた田んぼ、いつの間にか田植えがされ、いつの間にか青々と成長した稲をたたえた田んぼ。
移り変わり行く季節を感じるたびに、いつも焦りを感じていた。

あるいは、来年は今と同じ場所で同じ景色を見ているのだろうかとぼんやりと考えながら、季節を感じていた。

私が日本を経ったのが8月上旬。
夏も盛りに向かっていく時期だったが、今はもう秋風が吹き始めている頃だろうか。

それに引き換え、ここ赤道の国ケニアでは、日本ほど強く季節を感じることはないのだろう。
確かに、ケニアに来た頃よく来ていたジャンパーを着ることも最近はほとんどないし、四季ならぬ雨季と乾季がケニアにはある。
だが、少なくともカジャドゥにいる限りでは、日本での2ヶ月分の季節の変化に相当するほどのもを感じてはいない。

そんなケニアで時間の経過を感じさせられるのは月の満ち欠けだろうか。
街灯のない高知の通学路でも月の満ち欠けはよく分かるのだが、季節の変化がない分か、月の満ち欠けはこちらのほうが印象に残る。
キムと過ごしたナイロビで満月を見たのだが、すでに2度、同じ満月をカジャドゥで目にし、そしてそんな満月もすぐに欠けてゆく。

ゆっくりながら、しかし確実に過ぎ行く時間。
そんな時間の中で、1年間大学を休学しただけの価値ある時間を、ケニアで研修するだけの価値ある時間を、今まで過ごしてきたのだろうか。
これから過ごすことができるのだろうか。

2009年10月6日火曜日

最近の出会い

最近の出会いをいくつか

1、大学教授
ひとつめの出会いは、カジャドゥからナイロビへのマタツの中で。
ナイロビへの1人道中、ずっとうたた寝をしていたのだが、ナイロビ市内に入ったあたりで目を覚ます。
マタツが目的地に近づき私がキョロキョロした後からだろうか、後ろに座っている2人組みがこそこそと何かを話している。
私のことを話しているのかなとも思いつつ、最初は特に気にしていなかったのだが、途中で彼らが日本語の単語を口にしているのに気づく。
振り向くと、遠慮がちに「こんにちは」と声をかけてくれる。
ケニア人の中年男性。
きれいでもなく、かと言って汚くもない、少しくたびれた感じの服を着た、普通のおじさん2人。
「どうもありがとうございます」や「おはようございます」といった言葉を知っており、「Good bye」は何というのだったっけ、などと言葉を交わす。
不思議だったのは、観光客相手の商売人のがつがつした感じや、若い人が声をかけてくるときの好奇心旺盛な感じではなく、彼らの遠慮がちな姿勢。
そして、彼らの知っている言葉が、少しばかり丁寧な言葉な気がする。
不思議に思って、どうして日本語を知っているのかと尋ねる。
曰く、彼の兄弟が長いこと日本の大学でスワヒリ語を教えているのだという。
なるほど。
スワヒリ語を扱っているだけあり、その大学は誰でも知っているような超一流国立大学。
そんな兄弟から日本語のイロハを習ったから、彼らがきれいな日本語を知っているのか。

ターミナルに到着するまでのしばらくの間、彼らと話をする。
彼らも、APHIAⅡの関係でカジャドゥで仕事をしているのだという。
詳細は分からないが、USAIDと契約を結んでいる団体の正規のスタッフではなく、ADEOでいうところのPE(Peer Educator)のような身分なのだろうか。
ケニアの田舎で仕事を持っているということは、決して悪い境遇ではないのだろう。
そうは思うが、どうしても日本にいるという彼の兄弟と比較してしまう。
その兄弟が日本でどんな生活をしているのか分からないが、少なくとも彼のようなくたびれたシャツは着ていないのではないかなと考えてしまう。
日本にいるときも時々感じていたし、ケニアに来てからより多く感じる機会のあった、この時代、日本という国の、あの両親の元に生を受けた私と、目の前にいる他者の、圧倒的な運命の違いという、不思議な感覚。
そして、同じ兄弟ながら、ケニアの田舎町に暮らす彼と、日本の大学で教鞭を取る彼の兄弟の差。
人間どんな人生が幸せな人生なのか分からないが、一人ひとりが全く違う人生を歩んでいるという事実に、なんとも言えぬ不思議な感覚を覚える。

すぐにターミナルに到着してしまい、いろいろな話はできなかったのは残念だったが、何はともあれ、カジャドゥで仕事をしている人の中に日本をよく知る人がいると分かり、とても嬉しい出会いであった。


2、HIV患者
ふたつめの出会いは、病院への紹介患者さん。
オフィスで仕事をしているときにPEから電話があり、病院に紹介したい人がいるから、時間があったら来てくれとのこと。
急ぐ仕事もなかったので、昼頃に私一人そのPEの家へと向かう。
すぐに病院に向かうのかと思いきや、その患者さんは来ておらず、まずは昼飯でも食べていけと言われる。
昼ご飯の用意が続いている頃、その患者さんが家に来る(実は私、その男性が病院に紹介する予定の人だと理解しておらず、しばらくはPEの単なる家族か親戚の1人だと思っていたのだが)。
痩せ身の中年男性。
昼ご飯を待つ間、そして昼ご飯を食べながら彼の話を聞く。
スラムでよく見かける、仕事にあふれたさえない風体の彼だったが、珍しくきれいな英語を操る彼。
話を聞くと、かつて小学校の教員をしていたのだという。
それだからか彼は博識で、日本のこともよく知っている。
太平洋戦争のこと、沖縄のこと、天皇のこと、そして日本赤軍のこと。
私ですら知らないことを知っており、さすがに小学校の教員のレベルを超えているだろと思ったら、30年ほど前に日本人と話をしたことがあるのだという。
その日本人というのが日本赤軍のメンバーで、国外潜伏の中でケニアにも滞在していたのだという。
その日本人は、英語・スワヒリ語堪能で、マサイの村々に滞在していたのだという。
30年以上前の話で、どこまで正確な話なのかは分からないが、ケニアの片田舎のスラムで聞く70年代日本の話題に食事の手を動かすのも忘れ聞き入る。

日本の話題と共に彼が語ってくれたのが、彼の性遍歴とそれにまつわる性病の数々、そしてアルコールと薬物依存の話であった。
詳細は省略させてもらうが、小学校教員をしていたまじめな頃の彼から、多くの歯が欠けやせ細った目の前の彼の姿へと至るまでの経緯にも、また聞き入ってしまう。
そして、STIの医学的知識のなさに反省させられる(SyphilisのTerminal Stageってどんなんだっけ? CBTの範囲だったよな…)。

結果、あまりにもゆっくりと昼ごはんを食べることになってしまい、PE曰く時間が遅いからと、病院への紹介は翌日することになる。
のんびりと食事をすることになったのは私のせいだが、病院に行くのを翌日に延ばすあたりには驚かされる。
さすがケニア。
さすがポレポレ。

翌日9時に待ち合わせをしたのだが、彼がPEの家に現れたのが10時前。
お茶(ミルクティー)や軽い朝食が出され少しくつろいだ後、さあ病院へ行くものかと思いきや、今度はPEが用事があるから待っていてくれと言う。
彼女が戻ってきたのは12時前。
昼食を家で食べてから病院に行こうと言われるが、そんなことをしていたら今日も病院にたどり着けなくなるのではないかと思い、彼らを説得して12時ごろ出発。
病院までの道のりをゆっくりと歩き、何とか病院着。
長かった。

ちなみに彼の紹介案件は、彼はHIV1ポジティブながら治療を受けていないので、治療につなげるべく検査を受けに行くというものであった。
病院の受付ではなく、まずは附属のVCT(Voluntary Counseling and Testing)センターに行き、HIVの有無の簡易検査をすることに。
精密検査から始めたらいいのにと私は思いつつ、別室に入っていった彼を待つ。
簡易検査の割に、かなり長いこと待ったと思う。
HIVポジティブの彼のために、特別丁寧にカウンセリングが行われたのだろうか。
そして、扉が開き、彼とカウンセラーが出てくる。
部屋に入ったときと変わらぬ表情の2人。
カウンセラーが「彼は大丈夫ですよ」と言う。
そうか、これで彼は治療につながるようになるのかと思う。
「あと2年もしたら自分は死ぬんだ」と言っていた彼も、抗HIV治療のスタートラインに立つことができたのか。
そんなことを私は思う。
が、話を聞いていると、何かが違う。
私の考えていたことと大きく違う。
何と、「大丈夫ですよ」というのは、「HIVネガティブですよ」の意味だったのだ。
あれ。
ずっと彼が自分はHIVに感染していると言っていたのは何だったのだろうか。

HIVに関わらず、他にも彼の健康状態に関しては憂慮される点も多かったが、カウンセラーの判断では特に問題ないということらしく、治療費のない彼に病名を付けることは彼にとってプラスには働かないのかと自分自身を納得させ、VCTセンターを後にする。
彼といろいろなことを話せたのはとても貴重な経験だったが、本来の使命が思わぬかたちで幕を閉じ、なんとも言えぬ疲労感を味わうことになった2日間であった。

余談だが、彼の検査の後、同行していたPEが最近みぞおちの辺りが痛むということを言い、彼女の診察のために、登録カード代(※ケニアでは診察費は原則無料なのだが、初診時に登録カードというものの購入が必要で、これが初診料の代わりになっている。医療機関によってその値段は異なるそうで、カジャドゥの公立病院は80円ほど)を私が払うことに。
以前にも同じようなことを書いたが、サステナビリティという観点からも、PEとスタッフの関係性を考えても、決してほめられた行為ではないし、私自身こういうかたちで自分の財布を開くことには大いに抵抗を感じるのだが、彼女の勢いに負けてしまう。
彼女は比較的アクティブなPEだし、こうやって紹介のために多くの時間を割いてくれているのは確かだが、私の懐からその報酬を出したことに複雑な心境になる。
彼女の家で食べた食事とそのお金を頭の中で天秤にかけたりもするが、そういう問題ではないだろうとも思う。
100円もしないような話だし、アルコールに消えるわけではなく彼女の健康のためになる訳だが、それでも私の頭を大いに煩わせてくれる一件であった。


3、ヨコハマ
みっつめの出会いは、カジャドゥの町中で。
簡単に説明すると、日本に滞在経験のあるケニア人に出会ったということ。
彼はJETRO(日本貿易振興会)の補助でアフリカの品物を輸出する仕事をしており、横浜に事務所があるらしい。
彼自身はナイロビに住んでいるのだが、カジャドゥの親戚に会いに来たとのこと。
昼食に誘ってもらい、彼らの親戚と一緒に食事を取る、というかひたすらビールを飲む。
なんと驚いたことに、ケニア人4人のメンバーのうち2人が日本にシスターがいるという。
それも同じシスターではなく、違う兄弟のシスターが。
そんなことで、日本の話で盛り上がる。
電車や女性専用車両の話、サラリーマンの話、日本人の勤勉さ、日本製品と中国製品などなど。
ケニア人から見た日本の話を聞くことができ、とても面白かった(かなり能のない感想)。
そして、外国人、特に黒人にとって日本は決して暮らしやすい国ではないのだろうとも感じる。
日本にいるナイジェリア人やケニア人などのアフリカ系黒人は、「どこから来たの?」と聞かれても、アメリカと答えることが多いという、以前に読んだことがある記事の話を思い出したりする。
確かにそうなんだろう。
どうするニッポン!?

食事をおごってもらっただけでなく、彼らの1人が電気屋だったので、家の壊れたコンセントのソケットをただで直してもらう。
これで家でパソコンが使えます。

ケニアに来てから、実際に日本に行ったことのあるケニア人と話ができたのは初めてだったので、とてもいい経験だったし、それがナイロビではなくカジャドゥであったのもまた面白いできごとであった。


4、エイシャン
初めてカジャドゥに長期滞在する白人(非黒人)に出会いました!
それもアジア人(エイシャン)。
昨日(5日)の朝、オフィスに行こうと道を歩いていたら、ひょっこり東アジア系の顔をした女性が現れるではありませんか。
ちょうど子供に向けて大声で日本語の歌を歌っていたところなので、日本人だとこれは恥ずかしいなと思いながら、最初「ニーハオ」と挨拶。
するとキョトンとされたので、英語で話しかけたところ挨拶が返ってきたのですが、話を聞くと彼女は韓国から来たそうです。
彼女もここカジャドゥで、韓国系の団体で働いているそうです。
時間がなかったのでゆっくりと話をすることはできなかったのですが、また機会を見つけて彼女と話ができたらなと考えています。
以上簡単な報告でした。

2009年10月3日土曜日

今回も言い訳



今回、またブログを更新しない期間を更新してしまいました。
今回もブログを更新しなかった理由(言い訳)や、その間のこと、そして最近気になった新聞記事などを中心にまとめさせてもらいます。


言い訳1 ~ソケットの故障~
ブログを更新できなかった理由ですが、最初に挙げられるのが、家のコンセントのソケットが壊れていたからということです。
いつも体を洗うためのお湯は電熱器で沸かしているのですが(ケニアの多くの家庭ではそうしているようです)、電熱器があまりに強力でコンセントの許容量を超えていたからか、コンセントがしっかりと取り付けられていなかったからか、ソケットが溶けてしまっていたのです。
家にひとつしかないソケット。
そのソケットを使い、晩、ケンが寝た後にブログ用の原稿を作成していたのですが、そのソケットが使えないため、家で原稿作成ができなかったのです。
とは言え、オフィスでうまいこと時間を作り、原稿を作成することもできないことはなかったので、正直なところ私がサボっていたから原稿ができなかっただけかも知れませんね。

ちなみにそのソケット、新しいソケットを買ってきて交換しようとしたのですが、ケンが新品のソケットを必要以上に分解したために組み立てられなくなり、いまだに使えないままです。
最近は忙しく修理のために電気屋さんを呼ぶ時間がなく、携帯の充電とお湯を浴びるための電熱器にしかコンセントを使わないケンにとっては優先順位がさほど高いようではなさそうで、一体いつになったら直るのでしょうか。


言い訳2 ~やる気~
ブログを更新しないまま放置していた最大の理由は、どうしてもやる気が出なかったからなのかと思います。
ケンの指示を待ながら仕事をし、その仕事自体に疑問を感じることもしばしば。
しかし一方で新しいことを提案する能力(企画力、行動力、言語力などなど)がないために、結局ケンの補助のようなことしかできない毎日。
そんな毎日を前に、ここ最近どうしてもやる気の出ない日々が続いていたようです。

一度、倦怠感から仕事をする元気がどうしてもわかず、気分がすぐれないからと一日休みをもらい、家で休んでいたこともあります。
ただ、今は気分を立て直しまた元気になっています。
どうぞご心配なく。

以上、ブログを更新していなかった言い訳でした。


最近のできごと1 ~マンスリーミーティング~
毎月、月末にあるPEとのミーティング。
今月(9月)もカジャドゥ県内の4つのプロジェクト地でミーティングがありました。
カジャドゥに来てから程なくしてあった8月末のミーティングから、もうすでに1カ月が経ったのかと思うと、かなり驚かされます。

前回はカジャドゥ市内とナマンガでのミーティングに参加したのですが、基本的に見学という立場でした。
なので、今回は自分も何かできないかと思い、HIVや休学後に参加した高校でのピア・エデュケーション活動を中心に、日本の話をできないかとケンに提案しました。
が、今回はケン以外にもAPHIAⅡのスタッフが監督に来ることになっているらしく、余計なことしないほうがいいかと判断し、今回は見送ることにしました。

お偉いさんが参加しているからか、私語も少なく前回よりも締りのあるミーティング。
が、あまりに私語が少なく、彼が「Let’s have one meeting!」と言うものだから、隣のPEにスワヒリ語を通訳してもらうこともできず、内容を十分に把握できないままにミーティングは進んでいきました(まあ仮に通訳してもらったとしても、PE達は専門的な英語を使いこなせていないようなので、通訳は難しいようですし、私のリスニング力に問題があり、十分に通訳してもらったことを理解することはできないのでしょうが)。
PE達が活動中に疑問に思ったことに対して、APHIAⅡのミーティングやコミュニティー・ヘルス・ワーカーがコメントするという時間があったのですが、私にコメントを求められることは特にありませんでした。
時に私のほうが正確なことを言えるのではないかと思うこともありますし、ミーティングの初めには医学生であること、医学的なことはある程度コメントできると思うと自己紹介していたので、私に話を振られないことにじれったさを感じました。
ただ、仮に私に話す機会が与えられたとしても、十分に英語を操れないであろうことは誰よりも自分自身が知っているので、何よりも私の力の低さにじれったさを感じます。

前回は参加しなかったキテンゲラとロンガイという2つのプロジェクト地のマンスリー・ミーティングに初めて参加できたこと、CSW(Commercial Sex Worker)を対象にしたプロジェクト地と(カジャドゥ市内とナマンガ)、Youthを対象にしたキテンゲラとロンガイの違いを実際に見られたことはよかったのですが、結局、相変わらず何のアウトプットもできないままのミーティングではありました。


最近のできごと2 ~守秘義務~
ここカジャドゥでの仕事は、おもにPEの活動の監督なのですが、それに加え、PEが活動の中で見つけた病院に紹介したほうがいいと思われる患者さん候補を、市内にあるDistrictの病院に紹介するという仕事があります。
監督不十分なためかPEたちはけっして活動的とは言えず、最初のうちは紹介はほとんどなかったのですが、ケンの上司からの指示があり、最近はポツリポツリと紹介が出てきています。
PE、紹介患者さんと共に病院に行くほか、ナイロビの病院でHIVの治療を受けていた患者さんが、カジャドゥに病院に変えたいので紹介して欲しいという要望があり、一緒に病院まで行ったこともありました。

一度、HIVポジティブの患者でもあるPEのために、他のPEと病院に行ったことがありました。
その後、この紹介の件は私の頭の中から忘れ去られていたのですが、上述のマンスリー・ミーティングがあった晩、ケンがその紹介のことを覚えているかと聞いてくるのです。
どうしたのかと思ったら、その紹介患者であるPEがHIVポジティブであることを含め、私と病院に行ったもう1人のPEが、その紹介のことを周りに喋っているのだと言います。
HIVのことを話されたPEは、それまではそのステータスを周りにはカミングアウトしていなかったらしく、とても落ち込んでいるとのこと。
私と病院に行ったPEは、白人と仲良くしていることを自慢したかっただけなのかも知れませんが、HIVのステータスを話された側にとっては大問題。
彼女の落ち込み様は、到底私には分かり合えるようなものではないでしょう。

ケンは特に私を責めたりはしないのですが、ここ田舎町のカジャドゥでは私の存在が目を引くだけに、殊に個人のHIVの問題に関しては慎重に行動しなければいけないのだと反省させられます。

そして、改めてHIVのカミングアウト(ディスクロージャー、公開)の困難さを感じさせられます。
HIVのことを話したPEについて、「差別を煽っている」と憤るケン。
他者のHIVのステータスを喋ることイコール差別を煽ることだとは私は思いませんが(私にも問題があったのに、こんな言い方は横柄かも知れませんが…)、それでも差別を煽ることにつながると捉えられるのが現状。
そして、HIVのスティグマを減らすためのメッセージを発信する立場にあるPEでさえ、自分のHIVのステータスは人には話せないという現状。

HIVのことを話されたPEには言葉を尽くしても謝罪することはできず、自責の念に駆られますが、それと同時に、スティグマが根強く残っているのだと知らされる一件でした。


最近のできごと3 ~食事のお誘い~
少し明るい話題をはさみます。
家からオフィスまでの歩きでの通勤途中、愛想よく道端の人に挨拶をするので、顔見知りも増えています。
と言っても、相手は私のことを覚えていても、私は彼らの顔を忘れていることはよくあるのですが。
外国から来た私にもとてもフレンドリーなケニア人たち、今までにも何度か家に招待され、ご飯をご馳走してもらったことがあります。
ケンと一緒だとワンパターンな食事になるので、他の家庭の料理をいただけるのは嬉しい限りです。
正直なところ、「この人は私に何か見返りを求めているのかな」という気持ちは心の片隅にはありますし、ケンは私がひとりで他の家に行くことを心配してはいるのですが、彼らの生活の場に招かれ、家庭料理をいただけるのはとても貴重な経験ですし至福の時間でもあります。


最近のできごと4 ~日本人研修生と~
先週末、アイセックを通してケニアで研修している日本人のとの飲み会がありました。
アイセックと通しての研修は主にナイロビ市内のため、他のメンバーはナイロビでもよく出会っているとのこと。
ただ、私にとっては久しぶりの日本人。
日本で一度出会って以来のメンバーや、ケニアに来てから知り合ったメンバー、そして初対面の人もいたのですが、何か長いこと運命を共にした戦友のような気分になります。
日本人以外にも何人か他の研修生もステイしている、研修生ハウスと呼ばれるステイ先でのまったりとした家飲み。
お互いの研修先の話、そこでの苦労、日本語だから語れること、日本人同士だから語り合えること、そんなことをまったりと喋り合いました。
日本の外にいる者だからこそ、日本について、あるいはケニアをはじめ他の国について考えることも多く、そんなことが話題の中心だったように思います。

また、今週で日本に帰る研修生から蚊取り線香や日本食、日本語の本を譲ってもらいました。
ここケニアでは、日本食と本は心のビタミン。
皆さんありがとうございました。


おまけ
写真は親らくだ(1枚目)と子らくだ(2枚目)
カジャドゥでらくだを見かけるのはレアなことらしいです。
らくだは実際に目にするとかなり大きく、親らくだの顔などは目線よりも遥か上。
子らくだといえ、隣に並ぶのは少し怖かったです。


新聞記事

最近気になった新聞記事。

その1、HIVの感染率
1週間ほど前に「ケニアAIDS指標調査」なるものが発表されたそうなのだが、その中でもHIVの感染率に関する記事が大きく新聞に取り上げられている。
内容としては、都市部を中心にHIVの感染率が低下しているものの、地方では軒並み感染率が上昇し、ケニア国内全体の感染率も上昇しているという。
具体的には、ケニア全体では2003年の6.7%から7.1%へ、カジャドゥの含まれるリフトバレー州では2003年の数値は新聞に載っていないが、6.3%に上昇しているという。
都市部の感染率の低下を、コンドームの使用を呼びかけるキャンペーンなどの効果としながら、地方での感染率の上昇を、そのようなキャンペーンの不十分さ、貧困、教育の低さに焦点を当てている。

確かにナイロビでは、スラムを歩けばよくNGOなどで働いていると思われる白人に出会い、決して少なくない団体がHIVに関わっていると思われるし、街中を歩けばよく「VCT(Voluntary Counseling and Testing)」の看板を見かける。
そして一方では、カジャドゥのような田舎では援助系団体に関わっている白人は私だけであるし(そもそも商用で滞在している白人もいないようだが)、常時VCTを受けられるのは町の中心から離れた公立の病院付属の施設だけ。
APHIAⅡ関連でいくつかの団体がHIV関係の事業を展開はしているが、ナイロビ市内と比較すると、やはりその規模は不十分なのだろう。

ケニアに限った話ではないのだろうが、日本と比較すると、都市と地方、富める者と貧しい者の差を強く感じる。
多くの品物が手に入るナイロビ市内のスーパーマーケットと、パンといったら400gか600gの選択の余地しかないカジャドゥの商店。
買うものや着るものに限らず、そんな環境の差異の中で、価値観までも住む場所によって違ってくるのではないだろうかと思う。

これからの地方でのHIV関連キャンペーンの重要性をお偉いさんは語っているそうであるが、もしかすると、単にキャンペーンを地方でしたら済む話ではないのではないだろうか、とも思ってしまう。
何はともあれ、私たちの活動の必要性を確認してくれたわけでもあるので、残りの研修期間、がんばりましょう。


その2、HIVのワクチン
日本でも報道があっただろうか、アメリカ軍の協力のもとタイ政府が行っていたHIVワクチンの研究結果。
新聞によって取り上げ方のトーンが違うのだが、十分な効果が上がったとはいえないながら、ワクチンの研究が一歩進んだというもの。
HIVネガティブのボランティアをワクチン投与群と偽薬(プラセボ)を投与する対照群に分け、研究を始めた2006年から3年経った今年のHIVの感染率を比較したところ、わずかながらワクチン投与群のほうがHIVの新規感染数が抑えられていたというもの。
今回の結果については多くの議論の余地はあるそうだし、アフリカで流行しているウイルスとは型の違うものを対象にしたワクチンなのだそうなのだが、それでもこれからのワクチン開発に対して明るい光が見えたと言ってもいいだろう。

PEとのミーティングのあった日にこのワクチンの件が新聞に載っており、ミーティングでもこのことが話題に上っていた。
スワヒリ語の議論の中で置いてけぼりを喰らっていたので詳しい議論の内容は分からないが、大方の意見としてはワクチン開発を歓迎しており、これからの研究に期待しているといったところのようである。
私自身も、もちろん研究が進み、効果的なワクチンが開発され、新規にHIVに感染する人を減らせるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思っている。
が、しかし同時に、HIVに対して効果的なワクチンが開発されることに若干の不安を感じなくもない。
というのも、HIVというウイルスが恐れるものでなくなったとき、私たちがSTIに対して鈍感になってしまうのではないかと思うのである。

現在はHIVの知識がある程度普及し(あくまでもある程度!) 、決して十分とはいえないながら予防策の知識・実践が広がっているのではないだろうか (あくまでもある程度だが!) 。
ところが、仮にHIV感染を抑えるワクチンが開発されたとなれば、今まで築き上げられてきたセイフティーなセックスの実践が崩れ去るのではないだろうか。
あるいは、社会レベルでも個人レベルでも、STIに対する敏感さが薄れてしまうのではないか、そう私は思うのである。
当然ながらHIV感染症はわれわれの社会にとって大きな脅威となっているが、いわゆるSTIと呼ばれる感染症はHIV感染症だけではないし、健康を大いに害しうる感染症は他にも多数ある。
HIVの悪夢から開放されたとき、それと同時に私たちはSTIからも解放された気分になってしまうのではないだろうか。
STIに対する敏感さを失い無防備になったとき、私たちはまた新たに何らかの感染症の脅威に出会い、性懲りもなくまたうろたえることになることになるのではないだろうか。

あるいは、現在のようにHIVに対するスティグマが根強く残った社会的認知のされ方の中で、同時にHIV感染症が過去の病気になったとき、すでに感染した患者は、変わることのない社会からの厳しい視線を受けながらこれから残りの人生を送ることになるのだろうか。
今はHIVに対する関心が高く、予防啓発・治療と並びアンチ・スティグマのメッセージが社会に発信されているが、それでも社会はHIVと生きていくことを容易に許してはくれていないだろう。
それが、HIVが社会の脅威でなくなると、そんなメッセージも発信されなくなり、一方でスティグマは残ったまま強まりこそすれ、弱まることはないのではないだろうか。
そう考えると、HIVとまだ折り合いをつけられていないままワクチンが開発されると、すでにHIVを抱えながら暮らしている人たちにとっては、なんとも暮らしにくい世の中になるのではないだろうか。

折しも先週1週間、ケニアでは全国一斉に麻しん(はしか)の予防接種キャンペーンが展開され、街頭やヘルスセンターでは予防接種を受けるべく子供を連れたお母さんが列を作っていた。
それを見て思い出すのが、日本の麻しんの予防接種率の低さと、麻しん輸出国の汚名をいただいているという現状。
もう数年前の話になるが、首都圏を中心に麻しんが流行し、多くの大学などが休校措置を取ったのを皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。
かつての日本は、戦後の動乱期を経験しながらも、保健衛生分野には国民から高い意識が集まり、保健衛生環境の改善に成功したはずであった。
麻しんについても、今よりも断然認知度は高かったであろうし、それだけ予防接種に対する関心は高かったであろう。
しかし、予防接種が普及し身近に麻しんを見かけなくなったことで、逆に麻しんへの関心は下がり、関心の低下が接種率の低下を招き、そんな隙を突いて麻しんの流行がいまだに抑えられずにいるのが現状であろう。
それを考えると、HIVのワクチンが開発されたとしても、結局は同じようなことが起きるのではないのかと、ついつい悲観的になってしまう。
そして、それは麻しんやHIVに限ったことではなく、健康問題全般に対して言えることなのではないだろうか。
最近はメタボが日本で叫ばれているようだが(叫ばれていた?) 、そのうちメタボをうまいこと回避する薬などができるのだろう。
そんなことを繰り返すうちに、だんだんと私たちはカラダや病気に対する敏感さを失っていくのではないだろうか。
だらだらと同じような内容の話を繰り返したが、まとめとしてはそんなところである。


その3、一夫多妻制
新聞に、一夫多妻制を法的に認めるかどうかの法案が議論されている(もう承認されたのかな?) という記事が載っているらいく、オフィスで話題になる。
記事自体を直接読んでないので詳細はよく分からないのだが、一夫多妻制のほかにも男性に有利な内容の法案のよう。
以前から一夫多妻制の必要性を主張しているケンは嬉しそうに持論を展開する。
曰く、ケニアは男性の人口よりも女性の人口のほうが何倍も多い。
だから、バランスを取るために一夫多妻制を認めるべきだと。
んな訳ないだろと私は思うが。
オフィスの女性陣はもちろん一夫多妻制には文句を言っている。

だが、彼らの中にも賛否両論あるようだが、話を聞いていると、概してある程度の男女の役割の差を前提に議論しているような気もする。
男性優位な今の社会を前提にしているというか。
そして、男性陣があまりにも女性差別と捉えられかねないようなことも平気で口にするのには驚かされる。
仮に日本でそんなことを言ったら、男女問わず周りから白い目で見られるのではないかと思われることも、彼らは女性陣を前に気にせず喋る。

日本とて男女が平等に社会に関われる国だとは思わないが、ケニアの男女の地位のギャップの大きさはよく感じさせられる。
欧米的な価値観が絶対だとは思わないが、時に男女の扱われ方の違いにアンフェアだと感じることもある。
そんな状況がHIVの拡大とも無関係ではないと思われるし、彼らが納得できる形でだんだんと状況が変わっていくことを願ってしまう。



(写真はヘルスセンターの敷地で行われている麻しんの予防接種の風景)

名前

最近仕事について書くネタが思い浮かばないので、今回は私の名前を中心に話をさせてもらいます。

名前。
ご存知の方もそうでない方もいらっしゃるかと思いますが、私の下の名前は「おさむ」です。
日本人以外にとっては発音しにくいようで、自己紹介をするときはいつもどうやって名前を覚えてもらえばいいか迷います。

ナイロビにいるときは名前を短くし「サム」と呼んでもらっていました。
ナイロビでのホストだったキムも、本当はキクユ族系の長い名前なのですが、彼も周りに名前を覚えてもらうためにニックネームとして名前を短く呼んでもらっており、私もそれに倣って「サム」と呼んでもらうことにしていました。
また、「オサム」が「awesome」に似ていて、あまりよくないのではないかと言われたのもひとつの理由。
さらには、かの有名なオサマ・ビン・ラディンの「Osama」に発音が似ているというのが最大の理由。
9・11以降、日本人以外に「オサム」と言っても、「ああ、あのオサマ・ビン・ラディンのオサマね」といった言葉が返ってくることが多く、どうしてもそれが嫌で「オサム」ではなく「サム」と自己紹介するようにしていたのでした。

「サム・Sam」も悪くない名前だったのですが、ひとつ問題があるとしたら「some」と発音が似ているところでしょうか。
「some」は使用頻度の高い単語なので、よく自分が呼ばれているのかと勘違いすることがありました。

ですが、今ADEOのナイロビオフィスやカジャドゥでは「オサム」と自己紹介しています。
というのも、初めてADEOのオフィスで自己紹介をしたとき、ケンに「オサム」もそんなに呼びにくくないよと言われたからです。
それ以降、ずっと「オサム」と自己紹介するようにしています。
が、当のケンは私のことを「オサミ」と呼び、正しく発音してくれません。
時々、私の名前の入った書類などを見て、思い出したかのように「オサム!」と笑いながら名前を読んだりすることもあるのですが、呼び方が直る気配はない様子。
彼の影響でカジャドゥオフィスのみんなも「オサミ」と呼ぶので、今では「オサミ」のほうが慣れてしまっています。

なお、私の通っているネットカフェはイスラム系のお兄さんが経営しているのですが、彼などは私のことをわざと「オサマ」と呼びます。
イスラム教徒以外から「オサマ」と呼ばれるときは、笑いながら「オサマ」と呼ばれることが多く、それがどうも嫌だったので「オサマ」と呼ばれないようにしているのですが、イスラム教徒からは笑いながらそう呼ばれることはあまりありません。
本物の「オサマ」に対して少なからず共感を抱いている人も多いようですし、アラビア語で「オサマ」とは「ライオン」の意味らしく、彼らにしてみれば「オサマ」は決して悪い名前ではない様子。
なので、彼らから「オサマ」と呼ばれるときは、特に訂正せずにそう呼んでもらっています。

カジャドゥでのもうひとつの名前は「カン」。
同じ集合住宅内の子供たち、特に英語の分からない3歳位の子供たちや、近所の子供たちからそう呼ばれます。
ケニアの子供たちはアジア人を含めた白人を見ると「ムズング!(白人の意)」と声をかけてくるので、ここに来た当初は、「カン」もその類なのかと思っていました。
が、話を聞いてみるとそうではないよう。
私がカジャドゥに越してくる半年ほど前まで、韓国人建設業関係者の2人組みがその集合住宅内に暮らしていたらしく、そのうちの1人が「カン」さんだったようです。
英語の通じる子供たちにはもうちゃんとした名前、「オサム」と呼んでくれるのですが、それよりも小さい子供たちにとっては私は相変わらず「カン」のまま。
用事が終わって集合住宅の門を開けると、今でも彼らは「カン!」「カン!」といって駆け寄ってきてくれます。
「カン」は誰にでも呼びやすいようですし、中途半端に「オサミ」と呼ばれるよりも気持ちがいいので、彼らにはそのまま「カン」と呼んでもらっています。

ちなみにもう1人いた韓国人は「キム」さん。
家の近くの子供の何人かは私のことを「キム」と呼ぶのですが、あまりにも韓国風な名前なので私はあまり気に入っていないのですが、こちらは子供の間ではあまり普及していない様子。
カンさんの方が子供と親しくなっていたのでしょうか。

ナイロビにいる研修生の1人に「雄大」くんという日本人の友達がいるのですが、彼にとっても何と呼んでもらうかは問題なようです(口に出してみたら分かるでしょうか)。

ケニアの特に若い人たちは、いかにもケニア的な名前よりも、西洋的な名前、キリスト教の聖人に由来する名前が多い様子。
ミドルネームでおじいさんやおばあさんの名前を引き継いでいたりもするようですが、傍から見ていると伝統的な名前が減っていくのは残念な気もします。
その国らしく、同時に外国人にも覚えてもらいやすい名前というのは難しいですね。