2009年8月31日月曜日

活動報告

今週水曜日(26日)と木曜日(27日)は、それぞれナマンガとカジャドゥでPE(ピア・エデュケーター)とのミーティングがあり、ケンに連れられて見学させてもらう。
内容としてはどちらも同じようなもので、ADEOに登録されているPEが集まり、ケンの司会進行のもとAPHIAⅡの予防活動に関する話し合いなどが行われるというもの。


ナマンガには7時に出発すると前日には言っていたのに、当日カジャドゥを出発したのは8時過ぎ。
9時ごろにナマンガに到着するのだが、心配しながらこんなに予定より遅れて大丈夫なのかとケンに聞いても、ミーティングはまだまだ始まらないから大丈夫とのこと。
いつもはここには10時過ぎに着いているとのこと。
???
じゃあ昨晩あんなに「明日は早い!」って言っていたのは何だったのだろうか…。

会場となる広い飲み屋に行ってみると、まだ誰も来ていない。
みんなが遅刻なのか、それとも始まる時間がまだなのだろうか…。

と思っていたら、ケンはおもむろに書類を取り出し、ミーティングまでにこれをまとめなきゃいけないのだと言い出す。
昨日までに終わらせろよと言いたくなるが、それを手伝う。

ちゃんとコミュニケーションが取れていないから、いつもケンの行動が唐突に思えるのか、実際に彼の行動が唐突なのだろうか…。

だんだんとPE達が集まってきて、書類の整理の目処が立ったころにミーティング開始。
(写真1)

最初にあったのはPEの知識のおさらいのようなもの。
ケンが「HIVとは何か」とか「STIとは何か」といった質問をし、PEたちがそれに答えていく。
司会のケンは、最初は英語で話していたものの、PEたちの流れに合わせて途中から完全にスワヒリ語。
詳しい内容は分からないのだが、見ているとなんとなくケンとPEたちとの間に温度差があるように感じてしまうし、また、PEたちが本当にHIVやSTIのことを分かっていないのではないのかという雰囲気を感じる。
研修用の冊子にHIVの説明が載っており、それを音読するようにケンがPEに指示しても、難しい英単語の並ぶ文章を前につっかえながらでないと読めないPE。
あるいは勝手におしゃべりをしていたりする。
恐らくあまり知識とやる気のないPEたちと、それをうまく制御できていないケン。
医学的な知識に関してだけは私にも説明できるような気もし、自分に説明させてくれと言いたかったが、迷った末、今回はでしゃばるのはやめ、流れを見守ることに。

その後に活動に関しての注意事項についてケンから説明があったり、その月のPEの活動記録をまとめた報告書を回収したりする。
今回の私の唯一の仕事が活動報告書の回収。
以前に未提出だった場合はそれを合わせて回収するように言われるのだが、ケンの指示する方法では過去の報告書は回収漏れが出てくるように思われ、自分の方法でやらせてくれと主張。
ケンに反対されるのだが、最終的にその件は私に丸投げされ、私のやり方で進める。

このことに限らず、ケンや、ケンがカジャドゥに赴任する前にカジャドゥ県内を担当していた前任者の資料のまとめ方にはいつも疑問を感じさせられる。
もっと順序立って整理したら後々効率的で楽なのにと思う。
実際に私のやり方でやってみると、最初は反対されるのだが、後で同じような仕事があると、私のやったやり方でやってくれと指示が来る。
ただ、私がやらなかったらケンはまた以前の通りにやるだけで、自分のやり方を主張しても焼け石に水な気がする。

英語ができないこともあり、ケンは私の能力に対して信頼していないのかなとも考えてしまう。
このミーティングのときだったかよく覚えていないが、ミーティングの参加者にケンが私のことをスワヒリ語で紹介したのだが、後で聞いたところによると「英語とスワヒリ語が全然できない」という紹介の仕方をしていたらしい。
実際そうなのだが、ケンにそうやって言われていることを他の人の口から聞くと、やっぱりへこんでしまう。

ミーティングのあとに食事があり、また参加者に小額ながらお金が渡される。
食事が出てきたときは、ケンと私で数十人分の食事代を自腹!?とビビる(といっても日本円に直すと払えない額ではないが)。
そんな馬鹿な、と思いながら聞いてみたら、APHIAⅡのプログラムとしてお金が出ているから心配ないとのこと。
納得。
そして、今までどうしてボランティアのPEがわざわざ時間を作って集まってきているのかも納得。

※APHIAⅡのおさらい※
USAID(アメリカ国際開発局、庁かな)がドナーとなりケニア国内で進められているプロジェクトで、HIV/AIDSを中心に保健分野の改善を図るもの。APHIAⅡ Rift Valleyというリフトバレー州を対象としたプログラムの中で、さらに私の研修しているADEOはカジャドゥ県内のHIV/AIDSの予防分野を担当している。より具体的に説明すると、カジャドゥ市内およびナマンガ市のCSW(Commercial Sex workers)のほか、Rongai(ロンガイ)市やKitengela(キテンゲラ)市の学校に通っていない若者にターゲットを絞り、ピア・エデュケーターを通した予防啓発活動を行っている。


このミーティングのあと、ナマンガで幼稚園を運営している日本のNPOの代表の方と出会う。
その活動の見学に来た理学療法士などの学生の方も何名か。
久々に出会う日本人にうれしくなる。
ケンにマタツに乗るからと言われ、ゆっくりと話をすることができなかったのが残念だったが、ナマンガで5年ほど小児科をしている日本人の先生もいらっしゃり、連絡先を交換する。


翌日のカジャドゥ市内のPEたちを対象としたミーティングもほぼ同じようなもの。
ただ、私も何度かPEの活動を見に行っているので、顔見知りも何割かおりやりやすい。

ミーティングのあとのケンはとても疲れた様子。
ねぎらいの言葉をかけると、「彼女たちはうるさすぎて収拾がつかない」、「前任者はここでのプロジェクトがあまりにも大変だから逃げ出したんだ」との愚痴が帰ってくる。
昨日同様あまりほめられたミーティングの様子ではなかったが、月例のミーティングということで、次回のミーティングにはもう少し建設的な関わり方ができればと思う。


カジャドゥのミーティングのあと、以前に私も出会っているPEが丁度昨日子供を産んだから、お祝いに行こうと言われ、マジェンゴスラムへ。
そんなお腹の大きなPEなどいたかなと思いながらケンに付いていく。
彼女の家に着いて納得。
ケニア人はふくよかな女性も多く、私が妊娠に気づいていなかっただけだったよう。

生後1日ということで、とても小さく、とてもかわいい。
びっくりしたのが、赤ちゃんは大人ほど黒くなく、もちろん手のひらは大人同様黒くないのですが、手の甲など私も同じくらいの黒さ。
そしてまばらに生えている髪の毛がストレート。
最初に「中国人の子供みたいでしょ」と言われたとき、冗談なのか分からなかったほど(ちなみに彼女は何度か訂正したのに私のことを中国人と言う)。

今後、もしも仮にだが、子供が産まれたケニア人の女性に、「この子はあなたの子供よ! 色も黒くないし髪の毛もストレートでしょ!」と言われても、これで戸惑うことはないでしょう。
めでたしめでたし。


また、この日は水を買いに行く(写真2)。
近くの貯水タンクから自分で水を汲み、汲んだ量に対してお金を払う。
100リットル弱を購入したのだが、今回が2回目の水の購入なので、これがカジャドゥに来てから家で消費した量ということになる。
直接飲む水と洗濯用の水は別になるが、かなり切り詰めているのが分かる。


その翌日28日と翌々日、ケンは他のプロジェクト地(前述のロンガイとキテンゲラ)で同様にミーティングがあるということでそちらに出かけ、私はカジャドゥに残り、PEの活動記録をまとめる作業を行う。

前々日・前日にPEたちに提出してもらった活動報告書をもとにデータを集計するという作業で、このレポートの提出先はADEOの本部、そしてAPHIAⅡ Rift Valleyの本部。

データをまとめていてだんだんとやっていることに疑問が生じてくる。
APHIA2(つまりはUSAIDなのか)の作成した報告書用の冊子があり、PEたちは1月1枚(活動を頻繁に行っている場合はそれ以上)の用紙に活動内容をまとめ、それを提出するという仕組み。
予防活動を行った対象人数やコンドームの配布数、以前にHIVのテストを受けたことのある人の数などが報告の内容となっている。

まとめ作業をしていると、「はじめてPEによる接触を受けた人(New Participants)」の人数が、「はじめてPEによる接触を受けた人+以前に受けた人(Total; New Participants and Former Participants)」の人数より多くなっていることがざらにあったり、他のPEとすべての項目ですべての数字が同じものがあったり。
明らかにおかしなデータのほかにも、以前に何度かPEの活動を見させてもらったときとの現状とはずれているとしか思えない数字が並んでいたり。

この結果をもとにADEOの活動実績が決まり、そして、国の保健医療の明日を検討する際の材料になるのだろうか。

この作業をやっていて面白いのは、PEであるケニア人の名前をいろいろと知れること。
ただ、名前の字の汚さには閉口させられるし、時には自分の名前のスペルを間違えている者もおり、驚かされる。


一晩中止むことのないモスクのスピーカーから流れる祈りの言葉が、今晩も街にこだましている。

2009年8月29日土曜日

ブログの更新

またまた間隔が空いてしまいましたが、ブログを更新します。
まとめて更新するので、よかったら過去の分から読んでみてください。


ADEOの同僚・ケンと一緒の生活。
仕事場も家も一緒ということで、二人三脚をしているのではないかと思うぐらいの距離感での毎日の生活。
ブログの更新のために「ネットを使いたい!」と言っても、彼のリズムに合わせているとなかなかネットを使う機会を見つけられない毎日。
ここ1週間ほど毎日のように「ネットを使いたい!」と言っているのだが、ネットカフェに連れて行ってもらう約束をしたのにすっぽかされたり、仕事や彼の用事が終わったころにはお店が閉まっていたり、今日こそはと思ったら停電だったり。

そんな毎日が続いていたのですが、今日はケンはミーティングでカジャドゥを離れ、私はカジャドゥに残ることになったので、たまっていた分の投稿を更新します。
(ただ、ここ3日間の分は停電などでパソコンが使えず、まとめ切れていないので後日更新しますが)


今回も、過去の写真をまとめてアップします(文章の途中に埋め込むのが面倒なため)。
1・2枚目は、14日にマイリティサでマサイ族と100m走をしたときのもの。

3枚目は、APHIAⅡのオフィスのある通りの写真。
銀行などが並ぶ、カジャドゥ市内で2番目ににぎやかな通り。

4枚目はマジェンゴスラム(カジャドゥ市内になるスラム)の子供たち。

5枚目はタンザニアとの国境の町、ナマンガのケニア側入管。
ケニアの国旗、そしてマサイ族の老人が写っているのが分かるでしょうか。

6枚目はセンサス(人口調査)に訪れたスタッフの女性を、カジャドゥの家の前で撮影。

ケンの家へ

ケンの家へ

この週末(8月22日から)もカジャドゥを離れ、ナイロビ郊外にあるケンの家に行く。
仕事のためもあるが、24日(月)の晩にケニア中で人口調査(センサス)があり、調査期間中は家にいる必要があるので戻るのだという。
私自身はナイロビに戻る必要があるわけではないが、一緒にナイロビへ向かう。

ナイロビへ向かう前、27日にあるMTGのための会場探しをする。
一軒目のホテルはだめで、2件目のホテルで予約。
ホテルといってもたいした建物ではないのだが。

ホテルの食堂で世界陸上男子マラソンを見る。
ケニア勢がトップを走る。
ナマンガで言われた、ケンの「日本人はアスレチックじゃない」という言葉が頭に残っているからか、やっぱり悔しい。
結果はケニアが上位を占める。
佐藤が6位で活躍を見せてくれ、ほっとする。
海外にいると日本人の活躍をより強く意識してしまう。

昼飯の後、ナイロビへ移動。
ケンの家へ。

最初はマークがおらず、エスタ、グロリアと遊ぶ。
(※3人ともケンの子供で、マークとグロリアは双子の兄弟で9歳、エスタは1歳ちょいの女の子)
その後にマークが帰ってくる。
私と二人の距離が近くなっていることに妬いているような気もする。
子供を平等にみるっていうのがとても大変などだと思う。

一度出会っているからか、子供たちがよくなついてくる。

カメラで遊びまくるから電池切れになる(翌日の調理の様子などを写真に撮れず残念、まあチャージャーを持ってこないほうが悪いのかな)。

夜はグロリアと一緒のベッドで寝る。いやらしい意味じゃなくて。
寝返りをうったりするので、あまりよく眠れず。


日曜日は一日中、ケンの子供たちと遊ぶ。

とてもいい息抜きになったが、子供たちのハイテンションにペースを合わせているので、それなりに疲れる。
でもやっぱり子供はかわいい。

昼に世界陸上の女子マラソンを見る。
昨日も男子マラソンを見たのだが、日本人選手の走りに手を汗を握る。
結果は、中国人選手についで日本の尾崎が2位。
途中でケンたちはアフリカが勝つに決まっていると言っており、実際昨日の男子マラソンではケニア勢が優勝していたのだが、女子マラソンでは見事アジア勢が活躍してくれ、何か自分が勝ったようないい気分。

エスタ、グロリア、モリーンと牛乳などを買いに行ったり、グロリア・マークとまた別のところに牛乳を買いに行ったり。
今までになかった楽しいひと時。

モリーン(ケンの家で同居している親戚の学生)が外国語を学ぶことの大変さを知っているからか、スワヒリ語の勉強に協力してくれる。
ネイティブに教わるにしても、考えながら教えてくれる人に教わりたいと思う。

子供たちはかわいいが、お菓子などを買ってくれとねだられるのには疲れる。
別に高いわけじゃないが(アボガドやバナナが5シル!)、買うのがいいのか迷う。
そして私の持ち物を何でも欲しがる。
マークは私の懐中電灯を持ったまま気に入り、なかなか返してくれない。

この日の晩は豪勢に鶏を一匹さばいて調理してくれる。
もう締めたあとであったが、羽をむしられた生々しい鶏が一羽。
とても上手にさばいていく。
チャパティ(小麦粉を練り、薄く焼いた主食のひとつ)の作りを見させてもらい、最後の一枚を実際に焼かせてもらう。

その晩、ベッドでケンの息子マークと一緒に寝るのだが、寝ている最中にマークにブランケットを完全に奪われる。
寝る前にトイレに行ったのだが、その間にもうマークがブランケットに包まって寝息を立てているので、悪くてブランケットの端で寝ようとするが、結局ブランケットの外に追いやられる。
気温が低く寒くて熟睡できず。


月曜日。
翌朝起きたら風邪気味。
腹を壊すより先に風邪を引く。
以前に海外に行ったときも、下痢ではなく風邪をひいたことがある気がする。
寒さもさることながら、疲れもたまっているのだろうか。

この日は調子がすぐれないながら、ADEOのナイロビオフィスへ。
資料の整理などをする。
PEが提出する活動報告をまとめ、後にPEの活動の評価をするのだという。

仕事の後、親子でADEOのスタッフをしている家族の家に、彼らの車に乗せてもらうがてら寄る。
ケンの家から歩いて15分といったところだろうか。
車を持ち、家も大きい。
子供は6人(養子が2人)

スワヒリ語のニュースで、日本から食糧支援の資金が提供されたとのこと。
このニュースを見たかったが、家で英語で見られるからとその家を後にする。

ケンの家に直接帰らず、近くの飲み屋による。
スティーブン、おかみさんなど見知ったメンバーがいてほっとする。

その後帰宅。
晩御飯を作ってくれるのだが、あほみたいに塩辛く、そしてRoycoの味がして、ケンがいつも大量の塩とRoycoを料理に使うのが理解できる。
(※Roycoはケニア版「味の素」みたいな調味料で、かなりポピュラーだと思われる)
(※ケンに限らず、ケニア人は塩と砂糖を大量に摂取する。紅茶に砂糖大さじ3杯とか)

晩、風邪を悪化させないように気にしながら寝る。
ただブランケットに完全にくるまれることはなし。


火曜日
朝起きても調子が悪い。
それを言ってもあまり取り合ってもらえず。

そして一緒に薬を買いにいこうと言われる。
安静が一番の薬だといってもこれも取り合ってもらえず。

近所の子供と外に行くのだが、まず体調がすぐれずしんどい。
そして私を独り占めしようとするからしんどい。
お土産やお菓子をねだられるからしんどい。
しんどい。

その後、カジャドゥに帰るためにケンと家を出発し、ナイロビ市内でデジカメのコンパクト・フラッシュ・ディスクの読み取り用のカードリーダーを購入する。
これでデジカメのデータを取り込み、アップできます!
(※日本から持ってきた謎なケーブルは何のケーブルだったのでしょう…)
カードリーダーがちゃんと使えるかケンが試すが、その扱いの荒さにイラッとくる。
ケンに感謝しつつも、どうもイライラする。
体調が悪いこともあり、私は始終機嫌斜め。

ケンは親戚に会う用事があるということで、先に1人でカジャドゥへ帰る。
逃げ帰る、といった感じか。
カジャドゥの品揃えの悪さにかなりガッカリきていたので、ナイロビのスーパーで食料を調達したかったが、ケンが荷物をマタツ(ケニアの乗り合いバス)乗り場に預けていた関係でスーパーにいけず。

半径100m以内にケンがいる状態が続いており、一人の時間が持てたのは久しぶりな気がする。

ネットカフェに行きたかったが、門の鍵の関係で外に出ることを諦め、家で日本から持ってきた本を読む。
その間カメラの充電。
そして写真をパソコンに取り込む。
カードリーダーがちゃんと作動しうれしい。

家にいる間にセンサスのオフィサーが来る。
10年に一度の国勢調査のようなもので、センサス前にはテレビでも特集が組まれ、協力を呼びかけたりしている。
なんとこのセンサスのために、翌日が急遽休日にするよう大統領が宣言。
それほどに大掛かりなもののようである。
ナイロビのケンの家にセンサスが来たのか、来たとしたら自分はカウントされたのか、どちらもよく分からなかったので、カジャドゥで登録してもらうことにする。
ケンはナイロビの家で登録されるらしいので、カジャドゥの家では私だけ登録することに。
世帯主の名前のほか、同居人、宗教、民族、学歴や職業に始まり、障害の有無、飼っている家畜の種類や頭数、家の造り(石造りとか)、トイレの様子、調理の方法(練炭とかガスとか)、水の入手法などが質問項目になっている。
ケニアらしいとても面白い項目であった。
民族も宗教も生活環境もばらばらな人たちが暮らすケニアにとって、その国民の生活像を正確に把握するのはとても大変な作業であることは容易に想像がつく。

8時ごろにケン帰宅。
ナイロビで分かれたときは私の機嫌が悪かったが、帰ってきたケンは明るく、ほっとする。
ケンはウガリ(東アフリカの主食、とうもろこしの粉で作る)だけ調理し、その他は手伝わずに後の料理は私が調理。
また私は機嫌が悪くなる。
魚や卵の生食の話などで笑われ、さらにイラッときて、最初は英語、その後日本語でキレる。
が、日本語で切れることに対し「You make me funny」と笑われる。
キレるのも馬鹿らしくなり、その後機嫌を取り戻しまた普通に会話。

あと、ご飯のときに塩を取りすぎだといったら、自分は6g(食塩の摂取目安)も取ってないと言われる。
そして、日本人は魚などを生で食べるから、醤油を使うことになり、そのために塩を取りすぎているんじゃないかと逆に言われる。
どうなんでしょうか。

まだ調子が悪く、風邪気味。

ケンにはイラッとさせられることも最近多いが、一方で人の良さを感じたりもする。夜中にパソコンをつついていても何も言われないし。

10日ほど前のことから

15日
マジェンゴスラムへ。
マジェンゴはカジャドゥの市内にあるスラムで、そこで活動しているPE(Peer Educator、ピア・エデュケーター)の様子の視察に行く。

いろいろ感じる。

アウトリーチ活動としてスラムを歩いていると、スラムの住人から金をせびられる(直接私に金をくれと言う。PE経由で私に言おうとする。APHIAⅡはなぜ金をくれないのかと言うなど)。
お金のこと以外にも気になることはいろいろ。
よりいい形でのアウトリーチがあるのではないかと考える。

人口の多くがマサイ族のこの町。
仕事もなく道端にたむろする人の中で、酒臭い人も少なからずいる。
酒のにおいを漂わせながらお金をせびられると切なくなる。

ひとつ気づいたのが、写真を撮るという行為が決して簡単ではないのだということ。
PEたちの活動の様子や町の自然な様子をカメラに収めようと思っても、カメラを構えると皆の意識がレンズへと向かい、決してありのままの様子が捉えられない。
私がムズング(白人)ということが影響しているからなのか、カメラワークがまだまだからなのか。


ちなみに、スラムと言っても私たちの住んでいる地区との違いが分からない。
確かに家は小さく粗末でトタンでできていたりするが、その中はきれいに整えられ、家の外にはしっかりと庭もある。
スラムの外にある私たちの家のほうが石造りで大きくはあるが(と言っても10フィート四方だが)、QOLはスラムと変わらないのではないかと思う。

そして、言葉が通じないのはやはりもどかしい。


16日
週末で休みなのでナイロビのケンの家へ。
家族(一族)の経済的な問題を話し合うとのこと。
ケンの家で夕飯をご馳走になった後、ケンの兄弟・従兄弟と近くのバーで話し合い。
4人+私。なぜ私を混ぜてくれたのだろうか?女性は参加していなかったのに。
そして、なぜか真剣トークのときは皆英語。
私がいるからなのか…?

バーの女将さんに気に入られる。
ただ、コニャックドボドボを注がれ、殺されかける。

帰ってからケンの子供の二段ベッドで寝かせてもらう。
蚊がうるさく、マラアリアが怖くて寝付けない。
翌日、蚊帳があることに気づく。

それにしてもケンの家の女性はよく働いている。
奥さん、そして一緒に住んでる親戚の女の人二人。


16日
朝、ケンの子供たちと打ち解ける。
三人兄弟で、上の二人は双子。
日本で祖母からもらった和紙で作った小さな人形、コーラのおまけだったキーホルダーなどをお土産としてあげる。

今まであまり撮っていなかった写真を撮る。すごく喜ばれる。
働いてばかりの女性人二人とも写真撮る。

こっちの男はやっぱり家事をしないのだろうか。

その後、マタツでカジャドゥへ戻る。


17日
午前中はAPHIAⅡのオフィスへ。
初オフィス。

昼前からdistrict hospitalへ。
PEの子供のHIVの精密検査の付き添いと聞いていたが、主な用件は病院に配布用のコンドームをもらいに行くためだったよう。

町の中心からは少し離れており、そこまで歩いていく。
途中の道路で写真を撮る。
この道路がヒトを運びモノを運び、カネを動かし、そしてHIVを運ぶのだろうか。
ちなみに道路は中国のカネで作られたものとのこと。

病院近くのオフィスに無料のコンドームディスペンサーがあるが、明らかにニーズにマッチしていない場所にあるように思われて仕方ない。
ケンたちはそこからもコンドームを持ち出す。
海外からの支援や政府のお金で購入されたこのコンドームを、PEのアウトリーチの際に町の人に配布するのだという。

PEの子供の件は大丈夫だったよう。

用事が済んだ後、そのPE親子、マサイのPEのおばさんに昼飯代をせがまれる。
マサイのおばさんも、今度村に来てくれたら安くマサイの伝統的な生活を案内してくれるという。
何となく萎える。


18日
この日はオフィスでダラダラの日。

APHIAⅡの他の団体のスタッフと、そのスタッフがJICAにプロポーザルを書いているマサイ向けのヤギの話をする。
マサイ族が現金収入を得るために、乳搾り用のヤギを提供して欲しいとのこと。
サステナビリティということを考えると、彼の提案に「でも」と突っ込み続けることに。
現金収入が必要→ヤギが必要→草が必要→水が必要→灌漑が必要→井戸が必要…といった感じで、ヤギを提供したら終わる話ではないし、その先を考えるとどうしても環境にマイナスの影響を与えることにしかならないような気がする。
難しい。
途上国の乾燥地域に暮らす彼らと、先進国から遊びに来たような人間とでは、問題のプライオリティーの置き方にどうしてのギャップが生じてしまう。
難しい。

彼に限らず、ケニアに暮らす人の多くが欧米や日本に求めるのは、金を持ってくることのよう。
スラムに暮らすマサイも、PEたちも、この国の中では優秀だと思われるオフィスのスタッフも、基本的には同じ思考回路な気がしてならない。
まあ、先進国に暮らすものの上から目線のエゴにまみれた評価なのだが。

上述のスタッフは、タンザニアでもマサイ向けにいろいろな活動をしたことがあるとのことで、他の国と日本との比較を聞く。
ある国はお金の使い方にやたらと厳しく、デンマークや日本は腰を据えて技術を定着させてくれ、また、しっかりと現場を見ているとの評価。
また別の国は金は出すが技術の移転はなく、フィールドに出てこないとのこと。
国によって公的援助の様子も全く異なるよう。

そしてその彼曰く、ODAであっても草の根に直接届くものが大切だとのこと。
彼自身マサイ。
政府経由だと(政治の中心を担っているのはキクユ族ということで)マサイは取り残されるし、そもそも政府は腐敗してるから金は回ってこないとのこと。

また、この日は先週にマイリティサに行ったときのことをまとめる。
先週ブログに投稿した分で、文字に起こすのに時間がかかっていたので。

オフィスを後にし、前にケンが洗濯を洗濯屋に頼んでいたのだが、それを受け取る。
洗濯屋だと思っていたら、洗濯してくれていたのはPEの1人。
スタッフと金銭のやり取りが生じることに、どうしてもいい気分になれない。
双方向ならいいが、片道のお金の流れ。
PEからさえも、私(プラス、ケンもか)が金を落としていくいい客だという認識を確実に持たれていることに悲しくなる。


19日
ブログの更新をする(前回の更新)。
長々とパソコンに向かっていたら、APHIAⅡのミーティングに遅刻する。
APHIAⅡのお偉方が集まったミーティングは、皆すらすらと英語をしゃべるものの、まったく付いていけず。
リスニング力+ボキャブラリーに問題があることが分かる。
かなりへこむ。

午後はPE達とマジェンゴ・スラムへ。
伝統酒の蒸留所で子供たちに囲まれる。
なぜ子供がたくさんいたのかはよく分からず。
皆かわいい。そして英語がきれい。
ここの子供にはお金をせびられないから気が楽。
ただ、カメラの扱いが雑だから常にひやひや。

そこへ行く前、近くの丘で写真を撮る。
ビニール袋が一面に飛び散っている。
乾燥した殺伐とした感じと、ビニール袋の鮮やかさに惹かれてカメラを構える。
周りのみんなには、「眺めもよく、乾燥してる雰囲気がよく分かるから」と嘘をつきながら写真を撮る。
彼らがファインダーに写して欲しいと思うものと、私の撮りたいものとにギャップあり。

その後、水浴び用の水を温めるヒーターを買う(今までは冷水で水浴びをしていたのです)。
その店においてある中国製品にJapan Qualityと書いてあり、イラっとくる。
家に帰ってヒーターを使おうと思ったら故障していて使えず。
ちなみに、そのヒーターにもイギリスなんとかって書いてあった気がする(返品して交換してもらったのでよく覚えていないが)。
ケニアに来て感じるのは、ケニア人の日本製品への信頼が、日本という国への信頼に結びついているということ。
それなだけに粗悪な中国製品(こちらの品物の粗悪度は、日本では想像できないほどに粗悪なのですが)に「日本」や「Japan」の文字を見ると腹が立つ。


20日
ピア・エデュケーターの視察のために、この日はナマンガ(Namanga)へ。
ケニアとタンザニアの国境の町。
国境を越えられるからとパスポートを持つようにとケンに言われる。
お金は要らないのか心配になるが、いらないとのこと。

カジャドゥからはマタツで1時間強。
最近の疲れがたまっており、マタツは座り心地がとても悪いが、それでもウトウトする。
一列3人の席に4人が座っている。

ナマンガについてからはテンションが上がる。
カジャドゥと違い、緑が多い。
それだけで気持ちが明るくなる。
そして、国境の街なだけに活気を感じる(この活気がHIV/AIDSを呼び寄せているわけだが)。

ケニアの入管の写真を撮る。
と思ったらマサイのおばあさんに200シルで写真を撮ってくれと言われる。
手をつかみ、激しく。
マサイ族の人たちは観光客相手に写真のモデルになることでお金を稼いでいるのだ。
断るのに苦労する。
国境の街、多くの観光客もここを通るだけに、観光客に支えられた生活・経済があるのだと知る。

ナイロビやカジャドゥだと、町を歩いていると「チャイニーズ」と道端にいる人に言われるが、こちらでは「ニホンジン」あるいは「コンニチハ」と声がかかる。
東アジアから観光に来るのは日本人が多いのだということを、ここの住人はちゃんと知っているのだろう。
実際、日本人らしき人を一人見かける。
マイリティサにいたスタッフのアメリカ人のおばちゃんも見かける。

道端でマサイのサンダルの露天があり1足欲しかったが、一番フィットするやつが若干壊れてて買うのをやめる。
ただ、品揃え、というかサイズが豊富で形も若干違うものが多くあるので、ぜひまた来ようと思う。
マサイのサンダルというのは、動物の革(具体的には何の革かちょっと忘れたが)で作ったサンダル。
というのは過去の話で、今は廃タイヤから作られたもの。
履き心地がよさそう。

PE、ピア・エデュケーターの視察ということで、PEの何人かが働いているサロンへ行く。
話を聞くというかスワヒリを教えてもらう。

私自身は特に仕事らしいことは何もせず。
ただ、カジャドゥのPEよりも自分たちのほうがアクティブだとPEの1人が主張しているのは耳に入り、その点は気になった。

PEの1人は自分を日本に連れて行ってくれと何度も言う。
自分が日本人だからそう言うのであって、1人の人間として魅力を感じるからそう言うのではないのではないかと聞いても、そうではないとの返事。
これをモテルと言うのか分からないが、卒業してからもこんな感じになる可能性があるのかと思うと、本当に嫌になる。

飯をおごってくれと言われ、飯を食いに。
国境を超え、タンザニアに食べに行く。
と言いたいところだが、結局昼飯を食べたのはケニア。

ただ昼飯の前にタンザニアに行く。
国境はあまりにも無防備。
と言うか、2メートルぐらいの高さのブロックが縦に列をなして並んでいるものの、壁になっているのではなく、モアイ像みたいに間を空けて並んでいるだけなので、その間ががら空きで数人並んで通れるくらいの感じ。
越境に若干テンション上がる。

国境を越えても観光客慣れしていることを感じる。

USAIDのVCTテントをタンザニア側でも見かける。

ケニア側に戻り、昼飯を食べる。
自分がおごることになっており、なんとも言えない嫌な気分。

この後カジャドゥへ帰るのかと思いきや、飲み屋へ。
飲み屋のテレビで世界陸上をやっている。それも十種競技!
かなり気になるが、テレビの見られない屋外で飲む。
正直ここにいるよりも世界陸上を見ていたいと思ってしまう。

ちなみにこの日の世界陸上は、ボルトが200で世界新を出し、ブラシッチがハイジャンで優勝し、高知で出会ったことのあるポーランドの円盤の選手が銀メダルで、その表彰式があったりと、テンションの上がる日でした。
ただ、十種にブライアン・クレイが出ておらず、ロマン・シェブルレが不振だったのは残念でした。
でも日本人として池田が十種に出ていたからいいことにしましょう。


21日
ナマンガから帰り、ブランチを取った後オフィスへ。
他のAPHIAⅡのメンバーは皆会議などでオフィスにおらず。

仕事はファイルの整理。
さすがアフリカ、名前順に並べるべきものがそうなっておらず、ひたすら並べ替えの作業をする。
ケンもファイルの整理をするのだが、名前をアルファベット順にしていない。
全部自分でやりたくなる。
それじゃだめなのだと思いながら。

オフィスへの行き帰り、道端で出会う子供たちが心を癒してくれる。
カジャドゥに来てから、目線の会う人や子供には基本的に皆に挨拶をするのだが、結果、オフィスまでの道端の子供はみな私のことを覚えてくれているらしく、元気よく挨拶してくれる。
1・2歳の子も、ひたすら「How are you?」と「Fine!」を繰り返して叫び続けてくれる。
すごくかわいい。
気疲れすることも多いが、子供たちに声をかけられると心がほぐれるのが分かる。

夕食時、PEにおごらなければならないことに文句を言う。
「日本人→金を持っている→ケニア人におごったり恵んだりすべきだ」とい図式に嫌気が差し、ここ何日か主張していることだか、自分は学生で奨学金で借金がたくさんあることも主張。
ケンは、PEのモチベーションを保つためにはおごることが必要だと言われる。
ケンの話がいつのまにかだんだん反れ、彼自身の愚痴になり、活動のための交通費などをナイロビのオフィスが出してくれないことへの文句に変わる。
彼の給料や勤務に関する契約を把握しているわけではないのでなんとも言い難い。


ここ何日か、精神的にとても疲れを感じる。
スラムの酔っ払いに始まり、PE、そしてAPHIAⅡのスタッフであっても、日本人はここで金を落とすべき存在、あるいは金を日本から引っ張ってくるべき存在だという見方で捉えていると強く感じる。
なんとも言えぬやり切れない気持ちになる。

あるいは、言葉が思うように通じず、そのことも精神的に負担になっているのだろうか。

そして、ケニアに来てから2週間以上が経つが、相変わらず一向に言葉が上達している様子が感じられない。
ナイロビでの大学生の間での暮らしと比べ、周りで飛び交う言葉が圧倒的にスワヒリ語(そしてマサイ語も)が多くなり、完全に周りが何を言っているのかわからない状態が続き、そんな状況に不感症になっている気も、同時にする。

何も考えずにケニアに暮らしているだけで、英語もスワヒリ語も喋れるようになるよとケンは言い、「sorry?」と「What?」を繰り返す私に飽き飽きしているよう。
もっとスムーズにコミュニケーションを図りたいし、そのためにも英語もスワヒリ語も上達させたいが、思うようにはいかないのが現実のよう。


ケニアまでの飛行機で一緒させてもらったT野君が語ってくれた、「研修を通してのインプットとアウトプット」という言葉が重くのしかかる。
個人的に研修を通して貴重な経験を積み、将来に活かせるようなものを得るのがインプットだとしたら、研修の中で研修先の団体なり現地なりにプラスの影響を与えることがアウトプットになる。
研修をよりよいものにするためには、サステナビリティということを念頭に置いた上で、インプットとアウトプットのバランスを考えながら研修を行うべきなのだという。
私の場合は半年の研修のため、最初の2・3ヶ月は焦らずに現地になれることを優先し、それから自分なりにできることを探していこうと考えていたのだが、この20日の調子を見ていると、アウトプットはもちろん、インプットすらできるのかあやしくなってくる。
今後、どうなるのでしょうか。

2009年8月19日水曜日

久々のブログアップ

カジャドゥに来てから5日が経ち、町の雰囲気にも慣れてきた今日この頃。

ゆっくりとネットが使えるので、以前に作成したブログをまとめてアップします。

あと、写真もアップします。
ナイロビではカメラの電池の充電ができなかったり、
こっちに来てからカメラとパソコンをつなぐケーブルを日本から持ってくるのを忘れていたことに気づいたりとハプニングだらけ。
なので、アップした写真は他の人から送ってもらったものです。

一枚目はナイロビで宇津木監督とソフトボールをしたときのもの。















二枚目はピアエジュケーターとカジャドゥのスラムに行ったときのもの。














三枚目はカジャドゥの町の中心部から少し離れたところにある幹線道路。














三枚目の写真からも伝わるかと思いますが、町はとても乾燥しています。

話によると、ここ何年か雨が降っていないとのこと。
なので、この町では水がとても貴重です。
ケンと私も、水を節約しながら毎日を送っています。

大きなポリタンクに水を買ってきて、それをチビチビと使うのですが、
飲むための水、調理用の水、水浴びや洗濯用の水(塩水)と、衛生度によって水を3つの用途に分け使っています。

ただ、水をすくうコップが汚れていたりするので、きれいな水も家に置いてあるうちにだんだんとと汚くなっていっているのが現状。
手を洗う水も、食器を洗う水もケチケチ使うので、腹を壊すのは時間の問題な気もします。


気候については、アフリカのイメージに反し、昼間の暑いときはTシャツでも汗をかくのですが、夜などはとても冷え込みます。
昨日などは曇っていたために日中も寒く、ケンは一日中ダウンジャケットを着ているほどでした。


マサイ族が人口の多くを占める町、カジャドゥ。
この町でピアエジュケーターとスラムに行ったり、関係団体とミーティングがあったり、県内の他の小さな町や村に行ったりというのが、ここ数日の仕事内容です。
今後も、仕事内容や町の様子などを、可能な限り頻繁にアップしていきたいと思います。

ちょっと前のこと

アップする順番が逆になってしまったのですが、今更ながらカジァドゥへ行く前のできごととかをのせてみます。

・言葉
なかなか言葉が上達している気がしません。
ただ、キムとの会話はだんだんとスムーズになっている気がします。
ところで、ワンブイと一緒にテレビを見て、分からないところを適宜説明してもらったったのですが、これは言葉の理解に役立ちそうです。
英語にしてもスワヒリ語にしても。

ちなみに2人の両親は、2人の間では出身部族の言葉(キクユ語、ケニアの人口はキクユ族が最多)、子供達とはスワヒリ語で話し、私には英語で話しかけてくれます。

ケニアのドラマでも、登場人物はあるときは英語を話し、あるときはスワヒリ語を話したりと、場面によって使い分けています。

若者はシェングという英語とスワヒリ語のミックス言語を話すそうですが、さらにスラムでは同じ出身部族の言葉をそこに混ぜるので、若者であったり同じ部族出身の者であっても時に話が分からないことがあるそうです。


・キムとゲーム
ナイロビで過ごすキムとの最後の日の晩、停電の中、近所の大学生の女の子と3人で庭でだべる。
そしてゲームをする。
数字を順番に言っていき、ある数の倍数とその数を含む数をとばしながら数えていくというゲームをする(例えば「7」だったら、14とか17とかをとばす)。
間違えたら罰ゲームとして、残りの2人から質問を受けるというもの。
当然ながら罰ゲームでは恋愛話が出てくる。
大学生という社会的に特殊なポジションにいるからなのか、とても社交的な性格ながら、2人ともとても奥手な気がする。
ゲームを楽しみつつ、これを隣のスラムの人とやったら罰ゲームの話の内容も全然変わるのかな、なんて思う。


・停電
ナイロビはよく停電しています。
だからパソコンが使えなかったりして、ブログの文章もメモをもとに後日パソコンで打ち直したりしています。
ネットにもうまいことつなげず、さらにタイムラグができたりします。

カメラの電源をオンのまま放置していたらしく、電池がいつの間にかなくなっていたのですが、停電が続きしばらく充電できず。
ナイロビ市内の写真を撮れずじまいに。


・カジァドゥへ
当初は水曜日(12日)にカジァドゥへ移動する予定だったのですが、宿泊先の準備が整っていないとのことで、出発が翌日に延期に。
ちなみに、これを知ったのは当日にADEOのオフィスに着いてから。
重いスーツケースをオフィスまで持ってきたものの、翌日までオフィスに置いておくことに。
やはり日本とは違った時間が流れている気がします。

マイリティサ

8月14日

ADEOでの初日の仕事は、ケンと一緒にAPHIAⅡ(※)の現地プロジェクトの視察。
カジァドゥから車でマイリティサ(Mailtisa)という町行き、そこで行なわれているイベントの視察を行なう。


※ここで簡単にAPHIAⅡの説明をさせてもらいます。
APHIAⅡ(アフィア・ツー、AIDS, Population and Health Integrated Assistance Ⅱ Project)は、USAID(United States Agency for International Development:アメリカ国際開発局(?)) がドナーとなり、ケニア国内で進められているHIV/AIDSの対策を中心に保健状況の改善を目的としたプロジェクトのことです。
APHIAⅡ Rift Valleyというリフトバレー州を対象にしたプログラムにADEOも参加しており、APHIAⅡのプログラムの一環として主にHIV/AIDSの予防活動を担当しています。
(なお、ADEO以外にもいくつかの団体が関わっており、他の団体はHIV/AIDSの治療分野、マラリアや結核といった感染症、食糧配給などを担当しています)
ADEOの研修生としてリフトバレー州に来ているということで、私もAPHIAⅡのプログラムを中心に研修していくことになります。


マイリティサまではマタツを一度乗り換えて向かう。
最初に乗ったマタツでは、隣に座っているのはマサイ族の老人。
多くのマサイ族がそうするように、木の杖を持ち、赤い布を体に巻いている。
マサイ族の習慣でピアスで耳たぶを引き伸ばしており、彼の耳たぶの穴は指が数本通りそうなまでに広がっている。
カジァドゥにはマサイ族の人が多く、これから向かうマイリティサはマサイ族の町とのこと。

ナイロビではマタツの乗客の制限人数を守っており、制限以上に乗客を乗せているところを見たことはないのだが、こちらではそうではないよう。
一列3人掛けのところに4人を座らせる。
車内に汗のにおいが広がっている。

カジァドゥは田舎なりに大きな町で、いかにも民族衣装といった服装の人はそこまで多くないのだが(といってもナイロビよりは多く、洋服を着ていてもナイロビよりも見劣りするのだが)、途中の小さな町で見かける人はマサイ族の民族衣装を着ている人も多い。
マタツに乗りながら、人々の様子の変化を感じる。
日本では例え田舎に行っても着ている服が東京などと極端に違うことはないのだが、日本から離れいわゆる発展途上国に来ると、首都から少し離れただけで人々の様子が変わっていくのが分かる。


到着したマイリティサはカジァドゥから車で約1時間強の小さな町。
マサイ族のコミュニティで、服装から見るからにマサイ族と分かる人も多い。
遠くに見える小高い山の向こう側はタンザニアらしく、ケニアでもかなり南部に位置する町のようである。


フィールドワークとして、現地でどんなプログラムが行われているのか見て、また、そもそも住民がどんな生活を送っているのか知ってくれとケンに言われる。
イベントの流れを把握していないままながら、視察は始まる。
町の住人を集めての啓発イベントで、私たちが到着したときにはもうすでにイベントが始まっていた。

最初にあったのが、APHIAⅡのスタッフによる寸劇。
スワヒリ語やマサイ語での寸劇のためセリフ自体は分からないのだが、楽しそうな雰囲気で、住民の関心を大いに惹きつけているのがよく分かる。
いくつかのテーマで順番に寸劇が行われており、最初はHIV/AIDSの偏見について。
そのほかにHIVの予防法や伝統医療(呪術医療や薬草)、割礼についての寸劇が行われる。
いずれも重いテーマではあるし、また彼らの伝統に対抗するようなテーマも多いはずなのだが、老若男女、みな楽しそうに劇を楽しんでいる。
彼らが寸劇をどう受け止めているのか気になるところだったが、聞けずじまいに(もっと積極的にならなきゃいけませんね!)。

寸劇のあとは、いくつかの対象ごとに分かれ、レクチャーが行われる。
寸劇のあった広場の隣に学校があり、子供・青年男性・青年女性・高齢者といった風に分かれ、対象ごとに違う教室でそれぞれに向けたレクチャーが行われる。
APHIAⅡはいくつかのステークホルダー(関係団体)がかかわっており、それらのスタッフやピアエデュケーターがレクチャーを行っている。
内容としては寸劇と同じように、HIV/AIDSや割礼について。
こちらもみな真剣に話を聞いている。

英語で私に説明をしてくれたスタッフによると、HIV/AIDSの感染拡大の根源にはHIV/AIDSに対する無知、そして知ろうとしない態度があるという。
ただ、多方面からHIV/AIDS認知向上のプログラムが提供されている彼らは、少なくとも日本の一般人よりはHIV/AIDSに関する知識を有しているような印象を受けるし、HIV/AIDSをより身近な問題として捉えている分だけ、日本の現状よりましなのではないかと思ってしまう。
単に知識不足なのではなく、男性優位な社会、割礼や呪術を始めとした伝統、コンドーム入手の困難さ(現金収入が十分でないために購買能力がない、あるいは放牧の民にとって購入できるような店が多くないといったこと)など、多くの問題が根底にあるのだろう。
決して簡単な問題ではないことを痛感させられる。

男性向けの教室と女性の教室をぱっと見て気づいたのが、女性のほうが伝統衣装で着飾っている人が多いのではないかということ。
家にとどまることを強いられる傾向にある女性だから、伝統的な文化を保つことになったり、家の外に出るハレの日だから着飾っているのだろうか。
単なる私の推測なのですが。
疑問を感じたらすぐに聞くという態度を押し出していかないといけないと、後になって反省する。


レクチャーのあとに、パン2切れと飲み物の支給がある。
さすがUSAIDが関わっているイベントは違うなと感じる。
飲み物はコカ・コーラ社のコークやその他のサイダー。
ケニアの田舎まで販路を広げる巨大企業っぷりには脱帽させられる(ところでサントリーとアサヒはどうなったのでしょうか)。
そして、民族衣装を着たマサイ族がコーラのビンを持つ姿に、何か違和感を感じさせられる。

私は子供のグループでパンを配るのを手伝う。
白人である私が彼らにパンを配ることがどんな影響を与えるのかと考えると、責任の重さも感じる(日本人も非アフリカ人なので、ムズング(白人)と呼ばれる)。
私が財布を開いているわけではないが、私の行為が依存体質を形成する一助になっているのではないか考えると気が重くなる。

2枚ずつ配るのだが、途中で2枚ずつだと子供たち全員に行き渡らないことに気づき、途中の子供から1枚ずつに減らす。
文句を言われるかと思いきや、特にそんな声も上がらず、少し驚く。

パンとコーラは住民がイベントに参加する際のインセンティブになっているのだろうが、その後にすぐ帰ったりする人がたくさんいるわけではなさそうであった。
娯楽の少ない彼らにとって、このイベントも大きな娯楽になっているのだろうか。


そのあと、VCTと書かれたテントでHIVの検査を実際に受けてみる。
VCTとはVoluntary Counseling and Testingの略で、無料でHIVのカウンセリングや検査が受けられるところ。

イベントの参加者は多い割りに検査を受ける人は少なく、順番待ちせずに検査が受けられた。
HIVを持っていることはないだろうと思いつつ、若干緊張しながらテントへ入る。

検査の前に、検査方法や匿名で受けられることなどが、簡単ながらちゃんと説明される。
そして、検査前に質問表を埋めていく。
もちろん質問表は匿名。
ただ後で個人が識別のできるように、パスワードとして母親の名前を記入する。
母親の名前・・・。
どう考えてもマサイの名前ではないが、まあいいか。

検査は血液中の抗体の存在を見るもので、数分で結果の出る迅速検査。
もしそこで陽性反応が出たら、さらに別の検査に進む、というもの。
左手薬指に針を刺し、少量の血液を採取、測定キットに滴下しさらに試液を加え反応を待つ。
針はディスポーザルのものを使用、採決前にアルコール消毒、検査してくれたスタッフもディスポーザルの医療用ゴム手袋を使用するなど、衛生面にも十分に配慮されているのが分かる。
そしてお金をかけていることも。

待ち時間におしゃべり。
今までにHIVの検査をしたことがないと言うと、とても驚かれる。
ちなみに、日本ではHIVの検査を受ける人は1000人に1人しかいないらしい。
人から聞いた数字でリソースは分からないが、日本の現状を考えてみると恐らくそんなものだろう。
自分も検査をしたことがないので人のことは言えないが、保健所で検査を無料で受けられるのだから、他のSTI(性感染症)を含め、日本でも検査がもっと身近なものになればいいのにと思う。
(クラミジアなどの検査ができるかは、保健所によって違うので、事前に確認の必要はありますが)
検査してくれたスタッフはナイロビで研修を受けたといい、検査試薬について質問したらとても的確な答えが返ってきたところを見ても、ちゃんとトレーニングを受けているのが分かる。
そこでコンドームの配布や、模型を使ったコンドーム装着の練習もできるとのこと。
装着の練習はしなかったが、リアルで、そして大きな模型を前に自信喪失。


その後、スポーツ大会があり見学する。
最初は中距離走というかロードレース。
誰でも参加できるようで、気合の入ったスポーツウェアの人からジーパンの人までがいる。
距離やタイムの詳細は分からないが、皆なんとなく早そうな感じを受ける。
リフトバレー州はオリンピック金メダル級の優秀な長距離走者を数多く輩出していることでも知られているので、実際に早い人もいるのではないだろうか。
中距離走で勝ったのは、長身でナイキの陸上用スパッツをはいた選手。
ナイキのスパッツが放牧で得られる現金で購入できる代物ではないことを考えると、陸上の大会の賞品・賞金で得たものなのだろうか…。

そして次は100m競走。
というか約100m競走。
コースもレーンも何もない広場にスタートとゴールのラインを決め、観客が囲むなかを駆け抜けるだけ。
まず女子の部があり、全員一斉にスタート。
次に男子の部。
8人ぐらいずつ組になり、順番にスタート。
途中でスタートラインが変わったり(それも20mくらい!)、順番がすぐに決まらなかったりしつつも、盛り上がりながら進んでいく。

1年近く練習していないなのだが、一応大学で陸上競技部に所属している私も100m走に参加。
マサイのランナーとの対決にわくわくする。
なかなか順番が回ってこなかったが、しばらくすると順番が回ってくる。
ウォーミングアップも何もせず、ジーパンをまくり上げての参加。
グラウンドに棒で書いたスタートラインに並ぶ。

「On your marks, get set…」

「…Go!」

スタートのタイミングに完全に遅れ、最初からかなり離される。

…100mのゴールラインが遠い…。

…体が重い…。

途中で1人抜かせたが結局8人中5位ぐらいだったのではないかと思う。
陸上部の部員としてあまりにも情けない結果。
しかし周りのみんなは喜んでくれたし、何よりもマサイと陸上で対決できたことに大満足。

そのあともスポーツ大会は続き、一度広場から離れた後に戻ったときにも、サッカー大会や女子のやり投げ大会が続いていた。

ちなみにやり投げといっても木の棒を投げるだけで、陸上のやりを使っているわけではなく、また踏み切りラインの代わりに茨の木を置くなど、身近なものでうまいこと代用している。
物質的な援助の功罪については十分配慮する必要はあるものの、プロポーザルでも書いて用器具をそろえたくなるような気持ちになる。
ストップウォッチやハードルに「Donated by Japan」などと書いたりして。
(ちなみに、学校の机などには、携帯電話会社の宣伝よろしく、「Donated by Netherlands」とでかでかと書かれている)


スポーツ大会が続いている間、途中で一旦会場から離れ、近くのカルチャーセンターを見学しに行く。
カルチャーセンターといっても十畳ぐらいの小屋に、マサイの工芸品などが飾ってあるだけのもの。

お土産用に工芸品の販売も行っており、どこまでが展示物でどこまでが販売用なのかよく分からないが、店番のおじさんが丁寧に展示物の説明をしてくれる。
この民芸品の材料はケニア産ではないとか、この人形はよそで作られたとか、この楯はマサイのものではなくて南アフリカのものだとか、これはナイロビのお土産屋で買うといくらだがこっちで買うといくらするかなど、無駄に丁寧に説明してくれる。


しばらくしてから、再びイベントの方へと戻る。


ふと、ここの町の子供たちはお金をねだってくることがないと感じる。
ナイロビ市内ではよく子供がお金をねだりに来るのだが、ナイロビに比べて明らかに見劣りのする服しか着ていない子供でも、ここではそんなことはないのである。
このことを聞いてみると、各国からの援助がこの狭い町の中に入り、孤児になっても孤児院があり、食べ物と教育が最低限行き届いているからではないか、という答えが返ってくる。
狭いコミュニティながらこのイベントの間は私を含め何人かの「白人」がいることを考えると、返ってきた答えになんとなく納得がいく。


スポーツ大会の後、撤収作業が始まる。

アメリカ人の白人の中年女性が、イベント中に出たゴミを1人で拾っている。
田舎ではゴミ処理のシステムがなく、生ゴミであろうとプラスティックであろうと、みんなポイポイとゴミをそこら中に捨てていく。
観光を売りにしているケニアなだけに、非常にもったいないように感じられる。
ただ、どうしても彼女を手伝う気にはなれなかった。
どうしてだろうか…。

ちなみに、彼女の集めたゴミは車に乗せられカジャドゥまで持って帰られることになったのだが、しかし、途中で「邪魔じゃん」といって道中に車の窓から投げ捨てられていた。
もっとも、カジァドゥまで持ち帰られたとしても焼却施設があるわけではなく、道端で適当に焼かれる程度の結果にしかならなかったのだろうが。


イベントは無事終了。

帰りはAPHIAⅡの予算で購入したと思われるTOYOTA Hiluxに便乗させてもらう。
USAIDやAPHIAⅡと書かれたステッカーが貼られており、後ろ半分がオープンな荷台になった車。

どこに乗るのかと思いきや、その荷台に乗せられる。
スピーカーやジェネレーターなどの機材に並んで4人が荷台に乗るのだが、利己主義をして一番安全そうなところに乗る。
が、正直怖い。
道は基本的に舗装されているものの、途中で舗装工事のために本線から外れなければならないところなどがあったりして、途中で激しく車体が揺れるのだが、生きた心地がしなかった。
危機管理という観点からすると、断じて許されない行為だったといえるでしょう。
今後は気をつけます。はい。

また、乾燥した土地なため砂埃がよく舞い上がるのだが、それがハードコンタクトをした目に入ってとても痛い。
帰路に限ったことではなかったのだが、かなりつらい。
ソフトの使い捨てレンズを持ってこなかったことを激しく後悔する。


帰ることには陽が傾きかけており、カジャドゥへの途中で完全にあたりは暗くなる。
街灯やネオンなどなく、夜空にはあふれんばかりの星が瞬いている。

日本ではそうそう見られないような星の数に圧倒される。
…否、高知の室戸岬でもこれぐらいの星が見えたような気も。

南半球にいるため、日本で見られる星座は見当たらず、異国の地に来たことを改めて痛感させられる。
…と思いきや、日本でもおなじみの夏の星座・さそり座が空高くにあることに気づく。

カジャドゥへ

出発が1日延期になるというハプニングがあったものの、13日(木)に最初の研修地であるKajiado・カジァドゥへ移動。
ADEOのスタッフであるTom(トム)とKen(ケン、本当はケネディー)の3人で、Tomの運転する車で向かう。

ナイロビから離れるにつれ、人・建物・車が減っていくとともに、だんだんと緑が減っていく。
ナイロビ近郊は緑豊かな印象を受けるのだが、それがだんだんと潅木が点在するような土地に変わっていく。
砂漠の1歩手前、サバナ気候になるのだろうか。
そして大地の広さに圧倒される。

まっ平ではないので見ることはできないが、小高い丘を探してそこに行けば地平線が拝めるのだろうか。
日本では北海道の東部でしか見られない地平線も、このアフリカでは珍しいものではないのかも知れない。


と、大げさなことを書きましたが、ナイロビからものの2時間程度で到着。


役所に簡単に挨拶に行った後、これから3ヶ月滞在することになる住居へ向かう。
ADEOで手配してくれたもので、滞在費もADEO持ち。
決して悪い話ではないのだが、一つ残念なのがKenとそこで一緒に生活するということ。
どんなところなのかと期待と不安を胸に向かう。

向かった先は10世帯ほどの平屋の集合住宅のような建物の端っこ。
南京錠の鍵を開けてびっくり。
本当に何もない部屋。
そして狭い。

10フィート四方のコンクリートの部屋と、2畳もないようなキッチンスペース。
部屋にあるのはコンセントが一つと電灯用のソケットそのスイッチ(もちろん電球はついていない)、洗濯ひも、窓が一つくらい。
キッチンといってもコンロも水道も何もなく、ただ棚というか板が一つ。

萎える。激しく萎える。
1人だったらまだしも、男2人でこの狭い何もない空間でこれから数ヶ月暮らすのかと思うと、激しく萎える。

あらかじめKenとナイロビで買っておいた生活用品や食材を部屋に運び(ちなみに、日本よりも物価が安いので値段は気になりませんでしたが、ナイロビでは電球から包丁から鍋からと、本当に色々なものを買いました。)、さらに町の中で買い物をする(例えばマットレスとか。といっても2千円弱)。

こうしてケニアでの研修生活が始まる。


生活についてはこれからまた報告できたらと思います。

2009年8月13日木曜日

研修予定

ケニアに到着してから今までの約10日間は、ナイロビに滞在しアイセックのホストであるキムとワンブイの家に泊まり、基本的にぶらぶらしていたのですが、これから受け入れ先のNGOであるADEO(アデオ)での研修が始まります。
非常に簡単ながら、これからの研修について説明させてもらいます。

明日(8月12日)からリフトバレー州のカジャドゥ(Kajaido, Rift Valley Province)に移動し、そこで3ヶ月を過ごします。
そして、その後ウェスターン州のブシア(Busia, Western Province)に研修地が変わり、そこで同じく3ヶ月を過ごします。

実はケニアに行くまで、ブシアで6ヶ月を過ごすものと思っていたのですが、ナイロビにあるADEOのオフィスに行き、そこで上のような研修日程になると知らされました。
宿泊する場所についても今さっき知らされるという、なかなか先の見えないことの多い今日この頃です(しっかりと情報収集しないだけなのかも知れませんが)。

ADEOでの研修が始まり生活が落ち着いたら、改めてケニアや研修地について説明できたらと考えています。
乞うご期待ください。

ケニアであの監督のノックを受ける!

去る日曜日、大使館の職員の方のお誘いでソフトボール大会に出てきました。

ケニアチーム対日本チームというものだったのですが、それぞれのチームの構成メンバーとしては、ケニアチームは学校の体育教育の関係者(多分)、日本チームは主にJICAや大使館の職員というものでした。

野球やソフトボールの認知度が日本に比べてきわめて低いケニアですが、日本からちょうどソフトボールの指導者が来ており、ケニア人向けにソフトボールの指導があり、今回の大会が開催されるという運びのようでした(多分)。
そもそもなぜ日本からそのような指導者が派遣されたかというと、ご存知のようにオリンピックの正式種目からソフトボールがはずされ、それに対して正式種目への復帰を訴える運動の一環として、日本からケニアを始めとする国に指導者を短期で派遣しているのだそうです(多分)。
女子ソフトボールなどは日本のお家芸で、北京オリンピックでも金メダルの大活躍でしたもんね。

そして、そんな日本からの指導者陣の1人が、あの女子ソフトボールの宇津木監督でした。
そう、日本から遠く離れたケニアで、あの宇津木監督にお会いしたのです。


相変わらず時間にルーズなキムが会場まで連れて行ってくれたので、私が到着したときには準備体操がもう終わったところ。
挨拶もできないまま途中から合流。
そして試合前の準備運動としてノックがあったのですが、ここでノックをしてくださったのが、なんと宇津木監督でした。
運動神経が悪く球技が不得意なので、ただでさえノックは緊張するのに、相手はなんと宇津木監督。
かなり緊張しました。
でも、打っていただいたノックはすべて何とかグローブに収めることができました。


試合自体は14対12でケニアチームの勝利。
昔は皆野球少年だったと思われる日本人のチームが有利かと思われましたが、監督の指導を受け(といっても一日だけらしいですが)、もともとのセンスで勝るケニア人チームが最終回に逆転を果たしました。
ちなみに私はただひたすら日本人チームの足を引っ張っただけでした。
ボールを取り損ねて、思いっきり顔面にぶつけたりとか(笑)。
今は顔にアザができてます(笑)。


自分の運動神経のなさを痛感させられ、英語に次いでここでもへこまされたりもしましたが、久しぶりに体を動かすことができ、また日本ではないような出合いがあり、かなりいい経験になりました。


そういえば、アフリカの他の国にも指導に行ったという監督が、他の国と比べてもケニア人はとても行儀いいと言っていました。
確かに一列に並べと言われたら、すぐに彼らは並んでいました。
日本の高校生よりも行儀がよさそうでした。
試合後の監督からのアドバイスにも熱心に耳を傾け、積極的に質問するなど、ケニア人のまじめな部分を見ることができたのかな、なんて思ったりしました。

2009年8月7日金曜日

飲みすぎる

87

昼間はアイセックの関係でカトリック大学へ。

夕方からナイロビ大学近くの飲み屋で飲む。

みな固形物を取らずに飲む。

タスカメーカーのビールのほか、Kenya King、通称KKというジンを飲む。

ここではこの2つがポピュラーのよう。

さらにナポレオンというウィスキーを飲む。

飲みすぎる。

キムと家に帰るのだが、時間が遅く不安になる。

飲みすぎに注意。

2009年8月6日木曜日

なつかしの日本食

8月6日

昼過ぎに日本大使館へ。

ケニアには3ヶ月以上滞在することになるので在留届を提出する。

届出の後、K戸先生と大使館で落ち合う。

神戸先生は山崎豊子作『沈まぬ太陽』の登場人物のモデルの1人としても知られる、ケニア滞在歴40年に近い獣医師さん。

先生の紹介で大使館の医務官の方、大使館職員のS尻さんと話しをする。

S尻さんの弟さんがナイロビ大学で医学生をしているという話を聞いていたので、お会いしたいとお願いしたところ、今晩一緒に食事をすることに。

大使館をあとにし、キムとナイロビ大学へ。

その前にナイロビで一番大きな教会に寄る。

数日前からヒラリー・クリントン米国国務長官がケニアに来ており、この日、午前中に大学で講演があった。

僕が大学に着いたときには講演は終わっており、椅子の片付けなどをしていた。

ちなみに講演があった講堂は、アイセックのオフィスから数十mくらいしか離れていないところ。

ミーティングの途中だったが、S尻さん兄弟と食事をするために、1人で集合場所へ向かう。

ナイロビに着いてから誰かしらと一緒に行動していたので、1人で移動するのは始めて。

かなり緊張する。

道に迷い、かなり遅刻しながらも何とか集合場所へたどり着く。

食事をしたのは「日本人倶楽部」という日本料理屋。

豚のしょうが焼き定食を頼んだのだが、ものすごくおいしかった。

S尻さんいわく「ケニアにいるからだよ」とのこと。

でも、ボリューム満点で、実際においしかったと思う。

この後半年、日本食には縁のない土地へ行くので、味わいながらいただく。

お店には日本の漫画などが置いてある。

そういえば、きのう、中国人の留学生に「名探偵コナン」ではよく「でも(but)」って言葉が出てくると言われました。

そうなのでしょうか?

下ネタから医学部の話まで、色々な話ができ面白かった。

S尻さん兄は高校・大学以外、弟さんはずっとケニアの学校に通っていたとのこと。

在外邦人という言葉に、以前何年間か中国で単身赴任していた父のことを思い出す。

食事の後はキムに近くのショッピングモールまで迎えに来てもらうことになっていたのだが、キムはなかなか現れず。

そこは金持ち向けのショッピングモールなので、比較的安全ではあるが、やはり心配になる。

結局かなり遅れてキム登場。

空を見上げると、晴天ではないながら満月がきれいに出ている。

ナイロビは赤道付近なので日本とは違う星空が広がっている。

これから半年の研修が無事に終わることを願う。

2009年8月5日水曜日

英語が分からない

8月5日

午前中はキムの知人宅へ。

マタツを乗り換え中心部から少し離れたところにあるマンションへ。

1人目はアイセックのOG。彼女の夫が、私のこれからの仕事場であるBusia出身ということで、家族を紹介してくれることになる。

2人目もアイセック関係のキムの友達。その彼の彼女も家に来ていたのだが、大学で日本語の授業を取ったことがあるといい、日本語で少し話をする。といっても「日本語は難しいです」とか。外国語を学ぶことの大変さを知っているからか、私に話しかけてくれるとき、ゆっくりはっきりと英語を喋ってくれる。ちょっと助かる。

昼からは、キムの友達のお父さんのお葬式があるということで、カトリックの教会へ行くのに一緒させてもらう。

ミサを挙げ、その中で追悼を行なうのだが、話している内容自体ははっきり分からないのながら、ミサの流れは日本のカトリックのミサと同じようである。

葬儀のミサながら、パーカッションを奏でるアップテンポな聖歌を歌ったりすることに驚く。日本のミサはクリスマスであってもそこまでハイではないのに。

式の最後は、神父、そして故人の知人たちのスピーチ。日本で言う弔辞なのだろうが、ここでも驚いたのは涙を誘うようなものではなく、むしろ時々笑いの起こるようなものであったこと(といっても内容がつかめず、私は何で笑っているのか分からなかったのですが)

後で聞いたところによると、故人との楽しかったエピソードを語るから暗い雰囲気にならず明るいものになるのだという。

お葬式のぱっと見の雰囲気が日本とは違うのは、服装のせいがあるのかも知れないとも思う。参列者は普段着の人が多く、スーツを着るにしても黒いネクタイをしている人などはほとんどいない。ケニアの人が日本のお葬式を見たらびっくりするのではないかと思う。

残念ながらスピーチの話の内容が十分につかめず、さらに何人にもの人が喋るので、途中から眠くなる。ごめんなさい。

式の後、参列者は列を作り遺族に順番に挨拶をしていく。結構な人数の人がいる。

私も並んでいいものか迷ったが、構わないと言われ、列に加わり遺族に挨拶する。「君の事は見たことないけど」と言われるが、キムの友達だと伝えると笑顔で返してくれる。非常に申し訳ない。

キムやアイセックのメンバーに感想などを述べ、また日本のお葬式の様子などを説明する。といってもしどろもどろに。外国人に理解されにくいと言われる、日本人の宗教観についての説明は、今の力ではやっぱり難しい。

もう少し英語が上手に操れたら葬儀や宗教観についてやり取りができただろうし、お葬式に出てももっと多くの気づきがあったのではないかと思うと残念である。

昼過ぎからはキムの友人たちと労働環境に関するシンポジウムを聞きに行く。正直、シンポジウムでは話の内容にぜんぜんついていけない。へこむ。

シンポジウムの後、ナイロビ大学にあるアイセックのオフィスで時間をつぶす。周りがおしゃべりをする中、会話に全くついていけず、さらにへこむ。11の会話だとまだ話ができるのだが、何人かが会話をする中に入ると、完全に置いていかれる。

その後、アイセックのメンバーと飲みに行く。おつまみなしで、Kenya Kingというジンを飲む。

椅子が固定されており隣の人と話がしやすいポジショニングだった。さらに英語がネイティブではない研修生いるので、話しやすかった。お酒も入っていることも手伝い、盛り上がる。今日1日コミュニケーション不全でかなりへこんでいたので、人と話ができることにすごくうれしくなる。普段の会話もこんな感じでできたらいいのにと思う。

2009年8月4日火曜日

初ナイロビ

8月4日

キムの家からマタツでナイロビ大学へ行く。

マタツというのはケニアの乗り合いバスで、ハイエースや普通のサイズのバスが使われている。

庶民の足。

基本的にボロイ。そして狭い。

キムの家から歩いて数分のところからマタツに乗ったのだが、後から聞いたところによると、そこはキベラと呼ばれる地区の中だったとのこと。

キベラはナイロビで2番目に大きなスラム。

日本にいるときにも耳にした名前。

バス乗り場まで歩いていたときはこれがナイロビなのかと思っていたが、マタツに乗りながら、確かに掘っ立て小屋のような家ばかりなので確かにスラムといわれたらそうなのかと納得。

ただ、道端には店が並び、マタツも走っているわけで、スラムなりに秩序立った機能を持っているのだろう。

「スラム」のイメージが揺らぐ。

ナイロビ大学でアイセックのメンバーと出会う。

ナイロビ大学のメンバーや、世界各国から来た研修生など。

ダントツで英語ができないことを痛感させられる。

夕方から飲みに行く。

2009年8月3日月曜日

ムンバイ発ナイロビ行

8月3日

エア・インディア、ムンバイ発ナイロビ行きの便に搭乗。

昨日よりもさらに飛行機がぼろくなっている気がする。

T野くんと飛行機の前の方に隣同士で座る。

翼が視界を邪魔せず、窓の外の景色が楽しめると思って喜んでいたら、スクリーンが壊れているからと後方の席に移動させられる。

機内はがらがらで、搭乗率は数割といったところ。

いかにもインド人といった感じの人や、イスラムっぽい人が多い。

日本人はT野くんと私、そしてテレビの撮影にエチオピアとマリに行くというディレクターさんの3人のみ。

不思議なことに黒人と思しき人がほとんどいない。

なぜだろう。

前の席に座るインド人のおばさんは、親戚がケニアにおり、何度かケニアに来ているという。

ずっと雲ばかりであったが、ナイロビまで残り1時間といったところで、雲の切れ目があり陸地があることに気がつく。

乾燥した土地なのだろうか、黄土色の大地が広がっている。

そして蛇行した、細く頼りなげな川が一本。

初めて目にするアフリカ。

ここにきて初めて自分がアフリカに向っているのだと実感が沸いてくる。

テンションがあがる。

そしてナイロビ着。

空港職員が当然ながら皆ケニア人。

そう、ケニアに着いたんです!

アイセックのケニア側の僕の担当がワンブイという女の子で、その兄のキムが空港に迎えに来てくれる。

空港の駐車場に停まっている車のほとんどは日本製。

ケニア大使館のある日本の自由が丘で見かける高そうな車なんかよりも、こっちの方が日本車が多いのではないだろうか。

特別古いような車が多いわけでもなく、ナンバープレートを見なければ日本の駐車場と変わらないような雰囲気。

あたりはすでに暗くなっており、空港からキムの家へと向かう。

実際の研修地はウガンダとの国境の町ブシアなのだが、その前に1週間ほどナイロビ市内に滞在することになっており、その間にホームステイさせてもらうのがキムとワンブイの実家である。

空港から家へと向かう道。

日は完全に落ちているのに、道端を多くの人が行き交い、そして露店が開かれている。

まさに雑踏。

道を走る車も、空港の駐車場とは違い、新車に近いようなものから日本では見ることのないようなオンボロの車までが走っている。

生活のにおいを感じる。

キムの家は、庭はないながら比較的大きな家だった。

決して豊ではないこの国で、子供達が大学まで行くことの意味を、3階建てのこの家が教えてくれているような気がする。

今キムの家にいるのはきむのお父さん、お母さん、そして妹のワンブイとのこと。

3人兄弟なのだが、一番上はオーストラリアにアイセックで研修に行っているという。

両親に挨拶するのだが、アジア人が家に来たことに特に大きな反応はなく、「あら来たのね」といった感じ。

反応の薄さに少し驚かされたが、今までにもアイセックの研修生を受け入れており、日本人も以前に2人来たことがあるのだと聞き、私の受け入れが特別なことではないのだと分かり納得。

2009年8月2日日曜日

成田発ムンバイ着

8月2日

どたばたな準備を終え、いざ空港へ。

空港までは荷物持ちとして弟が付いてきてくれることに。というか無理やり連れて行く。

と、ここで早くもハプニング。

スーツケースの車輪が小さくデコボコ道だと進みが悪いので、スーツケースをキャリアーに載せて運んでいたのですが、その見るからに弱そうなキャリアーが乗り換えの途中に崩壊。

使えないことはなさそうなのですが、どうせケニアまではもたないと思い、弟に持ち帰ってもらうことに。

残念。

いつも五分前行動というものができない私ですが、空港には余裕を持って到着。

安心していたらここでもうひとハプニング。

機内預けの荷物が重量オーバーとのこと。

追加料金を払いたくないのなら、荷物の一部を家に送るか付き添いの者に持ち帰ってもらえとのこと。

仕方なく従うことに。

空港内で思いっきりスーツケースを開けることになるのですが、問題なのは後から詰めたパンツが落ちることではなく、何を持っていかないか決めること。お土産用&自分用の味噌などを諦めることに。が、恐らく1キロも減っていないだろう。

そこで思いついたのが、重い荷物を一度弟に預け、重量検査の後に弟から受け取り、機内持ち込みの荷物として持っていくということ。

バレることなく成功しました。

ごめんなさい。

ま、最近体重が減り、平均成人男性よりかなり軽いだろうからと、自分に言い訳。

ちなみに、今回はエア・インディア社の、ムンバイ経由の便を使いました。

時期的なものや行き先もインドであったため、日本人乗客のほとんどはバックパッカー。

後で気づいたのですが結構な数のツアー客がいるようでした。

インドまでバックパックを背負いながら、でもツアー旅行というのは楽しいのでしょうか。

でも、素敵な出合いはありそうですよね。日本人同士でですが。

アイセックから、M浦くんとT本さんがわざわざ空港まで見送りに来てくれました。

ありがとうございます。

そして、ナイロビで研修するT野くんと空港で出合う。

彼もアイセックを通しての研修で、同じエア・インディアを使うとのこと。

心強い旅の友に出会えました。

さて、前評判の芳しくないエア・インディア。

出発の遅延はなく、むしろ10分前に出発。

内装等についてですが、離陸前に機内のすべての蛍光灯がちかちかしており驚かされました。

音楽に合わせてイルミネーション風にちかちかしているものだと考えようとしたのですが、恐らくそうではなかったでしょう。

あと、肘掛が壊れていました。

そしてやたらと寒い。

旅の安全を祈るばかりです。

接客についてですが、態度が悪かったりはありませんでした。

ただ、機内放送の英語アナウンスが全然聞き取れず。

成田空港内に流れていた、日本人的アクセントの英語が早くも懐かしくなる。

離陸の瞬間を楽しみにしていたものの、あまりにも眠く、飛行機に乗った後すぐに寝てしまう。

ちなみに、私の乗る便は直接ムンバイに向かうのではなく、一度デリーに着陸してから向かう便でした。

このことは成田で初めて知ったことですが。

デリーではほとんどの人が降り、本当にムンバイまで行ってくれるのか心配になる。

どうしたらいいのか迷いながらも座席に座ったままでいると、乗客が機内に残っているにもかかわらず、掃除か始まる。

さらに心配になる。

そして掃除の雑さに驚かされる。

掃除機の掛け方も、毛布のたたみ方もかなり適当。

というか、洗わずに毛布を使いまわしていることに驚かされる。

掃除後には新たに若干の乗客が加わり同じ便でムンバイへと飛び立つ。

これで一安心。

と言いたいところだが、エアコンから白い霧が思いっきり吹き出している。

ちょっと怖い。

この霧はその後もずっと続いていました。

色々ありつつも、何とかムンバイ着。

ムンバイ発ナイロビ行きの便は翌日出発なので、ムンバイで一泊することに。

外に出るのもめんどくさいので、T野くんとトランジットエリアにあるSlumber Roomなるところで一泊することに。

夜は長かったので、T野くんといろんな話をする。

近くにいるスカーフを被っていた女性が、髪を束ねなおすためにスカーフをはずしている。

普段は見られないのであろう長い髪の毛に、後ろめたさとドキッとする感覚を覚える。

が、彼女がおばさんなのが残念なところ。

ムンバイでは国際ターミナルなだけあり、ぱっと見でも様々な文化を持った人がいるのがわかる。

インド系の人でも服装や肌の色が全く異なるのだが、それに加え中東系の人、スカーフを被ったインドネシア人と思しき人、欧米人、そして日本人の私達2人。

日本、特に高知という田舎にいると同じ顔をした人を見ることしかないので、世界がそれ以上の広がりを持っているなどと想像しにくいのだが、空港にいると肌の色が違い、異なる文化を背負う人がいるのだということを実感させられる。

2009年8月1日土曜日

時間がない!

8月1日

出発前の2ヶ月ほどは神奈川県の逗子にある実家にいたのですが、出発の3日前まで一度高知に戻ることにしました。

しかし、これがあまりにも余裕をぶっこきすぎた行動であることに気がついたのは出発の前日。

予防接種や航空券、ビザなどは高知に帰る前に済ませていたのですが、ケニアにもって行く荷物のための買い物は出発の前日までかかるという始末。

この時点で残った用事は荷物のパッキング! と言いたいところだったのですが、実際に頭を悩ませていたのは、携帯電話の解約に伴う連絡。

そして今回お世話になった方への連絡。

携帯のアドレス帳のデータをパソコンに取り込めたので、パソコンを使いホットメールから解約の連絡を一斉送信で送ろうと試みる。

が、ホットメールは某社の迷惑メール防止のフィルタにかかるらしく、パソコンからの一斉送信は断念。

携帯からいちいち送信していたら出発に間に合わないと思い、携帯は妹にお願いして代わりにやってもらうことに。

あの時、妹が手伝ってくれなかったら大変なことになっていた気がします。

その間私はお世話になった方へのメールを送ることにしました。

ただ、結局時間がなく、出発前に報告の連絡をしたいと思っていた方全員にメールを出せずじまいになってしまいました。

私の休学、そしてケニア行きのことを気にかけていただいていたのに挨拶もなかったという方、申し訳ないです。

荷物の整理・パッキングが終わったのは、家を出る一時間ほど前。

出発前日は一睡もできず。

完全に冷めた風呂につかる。

一息つきながら、これから湯船につかることは当分ないのだと思う。

ただ、自分がこれからアフリカに向かうなどという実感は全くなし。