2009年12月27日日曜日

ルワンダ3 子供たちの家

3日目、基本的にキガリの修道院でゆっくりしていたのだが、夕方前、修道院で運営しているジェノサイドの孤児の家にお邪魔しに行く。キガリに到着した日に参加した出版のセレモニーの主役、ジェノサイドの体験を手記にまとめた子供たちというのは、ここの子供たちである。セレモニーの時にはしっかりと挨拶をする時間がなかったので、今回が初めて彼らと一緒に過ごす時間となった。
彼ら子供たちが暮らしているのは、修道院から歩いて5分くらいのところだった。こちらもやはりレンガの塀に囲まれたレンガ造りの家で、修道院と同じくとてもきれいな造りの建物。ぎこちない感じで挨拶を交わしながら家へと案内される。なお、子供たちという呼び方をしているが、年齢としては16歳から25歳程度の幅があるのだが、子供と呼ぶには少し年齢が高すぎるかもしれない。ただ、ジェノサイドで親や親戚を亡くしたときはまだ小さな子供だったのだろう。現在ではみんな成長し、この家から働きに出ている人もいれば大学や高校に行っている人もいるという具合である(ただし私が訪問したときはクリスマス休暇が始まっていたので、学校はお休みであったが)。人数としては30人弱。昔はこの広さでも事足りたのかもしれないが、成長した彼らが暮らすには少し手狭なような気もする。結婚などによってこの家を出て行く子供たちも出てきているようで、また段々とスペースができてくるのかも知れないが。
さて、バナナで作ったお酒の話をするのだが、ケニアで飲んだことがないと言うと、わざわざ近くまで買いに行ってくれる。ケニアで一度口にしたような自家製のものを想像していたのだが、彼らが買ってきたくれたのは正規の販売ルートにのり販売されているもので、もちろんちゃんとしたビンにボトリングされているものだった。どぶろくの様に濁ったお酒で、彼らがストローを持ってきてくれたのでそれで飲む。とろっとしているものの、さわやかな口当たり。もっとバナナっぽい味かと思ったらそうではなく、知らずに飲んだらバナナが原料だとは分からないような味だった。アルコールに強くはない私だったが、とても飲みやすいと思っていたら、ボトルを見るとアルコールは15%と表示されている。飲みやすさの割に比較的高いアルコール度数に少しびっくりする。ちなみにこのバナナのお酒、彼らが買ってきたのは1本だったので、申し訳ないのだが私一人だけでいただく。

当初はここに泊まる予定ではなく修道院に泊まらせてもらう予定だったが、子供たちから泊まっていけばと誘いを受けたので、ありがたく彼らの言葉に甘えることにする。
私には想像もつかないような過去を経験してきた彼らではあるが、しかしそれでも私が見る限りでは全くの普通の若者。彼らの家にいる間、彼らの過去について話をされることもなかったし、私から特に聞くこともなかった。彼らとは本当に他愛のない話をする。例えば恋人を選ぶときの基準ベスト5とか。日本では聞かないようなことが出てきたりしてちょっと面白かったりする。ちなみにお気に入りの子からは、ボーイフレンドの基準の1つとして背が高いことを挙げられ、オサムあえなく撃沈。もちろんと言うべきなのかは分からないが、部族のことは基準として挙げられることはなかった。
修道院のシスターもそうなのだが、ここの子供たちもとても心遣い・気遣いのできる人たちのように思う。もちろんケニアの人たちもとても優しいのだが、何となく日本人的な心遣いとは違うように思うのだ。一方の、私の出会ったルワンダ人たちはみんな私にとてもよく心配りをしてくれる。彼らに何も還元できることができないのが本当に申し訳なくなる程によくしてくれたと思う。
唯一「おいっ」って思ったのは、翌朝、体を洗っているときくらいだろうか。こっちから頼まなくても「顔洗う? それとも体洗う?」とか「石鹸持ってる?」と聞いてきてくれ、ありがたく体を洗わせてもらう。男子用トイレの小屋がありその横の影で体を洗う。特に驚くことではないのだが、屋外かつ冷水。トイレへの通り道なので、私が体を洗っている間はみんなトイレに行けなくなってしまうなと思う。と思いきや、特に私のことを気に留めることなくトイレの小屋に用を足しに来るよう。私の格好というか裸姿を気にすることもなく、笑顔で「昨晩はよく眠れた?」などと聞いてきてくれる。こちらも笑顔で返事を返すのだが、「おいっ、そこは気を使おうよ」と内心思ってしまう。まあ、集団生活をしている彼らにとっては当たり前のことなのだろう。

しかしである、家族・親戚を殺された過去を持ちながら子供時代を過ごすというのは、どんなものなのだろうか。彼らの家に来て、ふと日本のことを思い出す。大学の1年目、ほんのわずかな期間だが、児童養護施設(親がいなかったり、親の養育能力が不十分だとされる子供たちが暮らす施設)で勉強を教えるボランティアをしたことがあるのだ。結局、部活やバイトに比して優先順位が低く、途中でやめてしまったのだが、短い期間ながらそこでの経験はとても印象深いものがあった。
ある子は、英語の宿題で家族のことを英語で説明しましょうという課題が出ていた。私はエグっと思うのだが、彼は落ち込む様子もなくノートに向かう。そして、その施設では一緒に暮らしてはいない彼のお兄ちゃんについて、一緒にサッカーをして遊ぶのが好きなのだと私に説明してくれるのだ。またある子は、私が医学生だと言うと、自分のお母さんは看護師なんだと嬉しそうに教えてくれたりもした。一緒に暮らすことのできない兄弟の話、彼らが施設で暮らすことになった理由の一部となっているはずの親の話について、私の予想を裏切り、彼らは顔を輝かせながら語ってくれるのだ。勝手ながらなんとも切ない気分にさせられたのを覚えている。離れていても血の繋がった親兄弟は子供にとって大きな存在なのだろうか。
一方のルワンダのその子供たちにとって、失った家族は彼らにとってどんな意味を持ち、振り返り思い出すことがあるとしたら、どのように振り返るのだろうか。
そこに泊まっている間、私の家族や兄弟のことを聞かれることはあったが、私には同じことを問い返すことはどうしてもできなかった。
後になって、知り合いのシスターから、彼らのうちの一人、私に一番よくしてくれた子の親の話を聞く。94年の際、自分をかくまってくれていた人がおり、その後、その人のことをとても親切な人だと思っていたのだという。しかし、ジェノサイドの裁判が開かれたとき、実は自分をかくまってくれていたまさにその人が、自分の親を殺していたということを知ったのだという。そんな話を、またさらに後になってシスターに語ってくれたという。

私と同じ年代の彼ら。
私にとても親切だった彼ら。
私には想像もつかないヒリヒリするような過去を抱えた彼ら。
敵意と赦し、猜疑心と優しさがごちゃ混ぜになったような過去を経験したこの国で、私を温かく迎えてくれた彼らと出会えたことが、ルワンダ訪問の中で一番心に残る出来事だった。