2009年10月11日日曜日

季節

心の中で休学をはっきりと決めてからだろうか、日本にいた頃、季節の変化を以前にも増して強く感じていたと思う。
夏から秋へ。
秋から冬へ。
冬から春へ。

都心で暮らしていたのなら季節の変化とは気温の変化程度のものだったのかもしれないが、高知という土地柄か、季節を感じさせるものが周りにあふれていたように思う。
特に、通学路の横に広がっていた田んぼなどは、季節に合わせてその表情を変えていたように思う。
あるいは、大学の門から伸びる桜並木。

そんな自然の移り変わりを目にし、心洗われるというよりも、なんとも言えぬ焦りを感じていた。
知識が身に付いている感触がなくとも試験にさえ通ってしまえば進級でき、そんなことの繰り返しで過ごしてきた今までの大学生活。
確実に学年は上がっていくのだが、その先が見えずにいた。
私の中身だけが取り残されたまま、季節が、時間が、足早にその横を駆け抜けていくような感覚。
葉の色が変わったかと思ったら、いつの間にか葉を落とした桜、いつの間にか小さなつぼみをつけた桜、いつの間にか満開となった桜、いつの間にか葉桜となった桜。
コスモスが咲いていたと思ったら、いつの間にか乾燥した土だけが広がる田んぼ、いつの間にか耕され、いつの間にか水の張られた田んぼ、いつの間にか田植えがされ、いつの間にか青々と成長した稲をたたえた田んぼ。
移り変わり行く季節を感じるたびに、いつも焦りを感じていた。

あるいは、来年は今と同じ場所で同じ景色を見ているのだろうかとぼんやりと考えながら、季節を感じていた。

私が日本を経ったのが8月上旬。
夏も盛りに向かっていく時期だったが、今はもう秋風が吹き始めている頃だろうか。

それに引き換え、ここ赤道の国ケニアでは、日本ほど強く季節を感じることはないのだろう。
確かに、ケニアに来た頃よく来ていたジャンパーを着ることも最近はほとんどないし、四季ならぬ雨季と乾季がケニアにはある。
だが、少なくともカジャドゥにいる限りでは、日本での2ヶ月分の季節の変化に相当するほどのもを感じてはいない。

そんなケニアで時間の経過を感じさせられるのは月の満ち欠けだろうか。
街灯のない高知の通学路でも月の満ち欠けはよく分かるのだが、季節の変化がない分か、月の満ち欠けはこちらのほうが印象に残る。
キムと過ごしたナイロビで満月を見たのだが、すでに2度、同じ満月をカジャドゥで目にし、そしてそんな満月もすぐに欠けてゆく。

ゆっくりながら、しかし確実に過ぎ行く時間。
そんな時間の中で、1年間大学を休学しただけの価値ある時間を、ケニアで研修するだけの価値ある時間を、今まで過ごしてきたのだろうか。
これから過ごすことができるのだろうか。