2009年12月20日日曜日

ルワンダ2 キガリ



話が前後してしまうが、今回は最初にウガンダ・ルワンダ間の国境であった検問の話から始めさせてもらいたいと思う。
その検問というのは、ルワンダに入国する人がビニール袋を持ち込んでいないかチェックするのもで、もしビニール袋を持っている場合はその場で係員に取り上げられるというものであった。私は事前に国境の通過手続きのことなどを調べており、ビニール袋は持ってこないようにしていた。しかしバスの乗客の少なからぬ人たちはそのことを知らなかったらしく、しぶしぶビニール袋から荷物を取り出していた。最初にこのビニール袋検問の話を聞いたときは悪い冗談かと思ったが、実際に国境でそのチェックがあったときはやはり驚いてしまった。

ここで問題。この国境でのビニール袋検問、何の目的があるのだろうか。
1、ビニール袋のチェックと称して、入国者の荷物をくまなく調べるため。
2、国の美化のため、すぐゴミになり、土に返らないビニール袋を国内に流通させないため。
3、国の観光の目玉であるゴリラが、誤ってビニール袋を食べて窒息するこのとないようにするため。
いかがだろうか。
話を聞くところによると、答えは環境美化のための2。ビニール袋は外国から持ち込むのを禁止しているだけでなく、街の店でも使うことが禁止されているという。ケニア資本の大きなスーパーマーケットがキガリにも最近できたらしく、2日目には私もそこに行ったのだが、そこでももちろん紙袋であった。また、他の店でお土産に買った写真立ても、ビニール袋に入れる代わりに新聞紙に包んでくれる。環境への負荷を考えると、スーパーでもらったきれいな紙袋とビニール袋、どっちがいいのか分からないが、少なくとも新聞紙だったら環境にはやさしいのではないだろうかなどと思う。ケニアなどでは果物をちょっと買っただけで小さなビニール袋に入れてくれ、そんなビニール袋が道端に無数に捨てられているのだ。しかしルワンダではビニール袋禁止のため、道端でゴミを見かけることはほとんどない。なのでルワンダの街はとてもきれいであった。また、ゴミの他にも建築物にも景観のためのいろいろな基準があるらしく、道端から視線を上げ丘から見渡す街の様子もまたとてもきれいであった。

さて、キガリでの2日目、上に述べたように最初は街を歩きお店を覗いたりしたのだが、その後にシスターとジェノサイドの記念館に行く。キガリの丘の斜面に位置し、手入れのされた庭のある、落ち着いた雰囲気の比較的小さな建物だった。展示内容としては、植民地時代から90年代前半までのルワンダの国の様子、つまりジェノサイドまでの国の道のりの説明、ジェノサイドの様子の写真、凶器となった農機具、犠牲者の頭骸骨、体験談を語ったインタビュー映像の上映、20世紀に起こった他の人道的危機の説明、亡くなった子供の写真やその説明などなど。
最低限の基礎知識はもともとあったし、極端にショッキングな展示物があったわけではないので、特別驚くこともなく展示を眺めていく。そして、太平洋戦争が始まったのは70年くらい前の明日くらいだったよな、などとかなり曖昧なことを考える。さらに、以前に行ったことのある、中国・南京にある虐殺博物館のことを思い出す(南京大虐殺は太平洋戦争開戦前のことだが)。日本軍による南京での虐殺とルワンダでのジェノサイド。どちらの方が悲惨だったとか悲劇的だったとなどと比較するのはナンセンスなことだろう。その悲劇を体験した人にとっては、例えようのないつらい事実に違いない。しかし、歴史的事実の捉えかたを比較したとき、我々はルワンダに学ぶべきものがあるのではないかと思ってしまう。
日本では虐殺の事実そのものをなかったかのように大手を振って主張する声があることに驚かされることがある(もちろん虐殺の規模や程度については議論の余地があるのは認めるが、虐殺の事実そのものを否定することはできないだろう)。また、鳩山政権の方針を知らないのであまりはっきりとしたことは言えないが、いまだに戦没者の扱いなどで関係諸国ともめる日本の政治指導者たちの言動にもあきれさせられる。あるいは、南京の博物館に行ったときに感じたのだが、一方的に日本を悪とし、中国共産党を善とする中国政府の主張にも納得しがたいものを感じる。また、中国国内では、卑劣で間抜けな日本軍と勇敢な中国軍を扱った映画が流れているのを何度も目にしたが、それも目にするたびにとても嫌な気分にさせられたのを思い出す。
一方のルワンダであるが、双方がより積極的に歩み寄ろうとしている姿勢を感じる。もちろん、悲劇が起こったあとであっても、同じ土地で再び隣人同士として共に暮らしていかねばならず、何らかの妥協策をとらねば国を運営していくことが困難になるので、そのために歩み寄りの努力が日中間の場合よりもより差し迫った問題だったのだろうかとは思う。同じ文化を共有するルワンダ人だったからこそ償いと許しが双方の心に届くものだったのかとも思う。しかし、隣人同士だったからこそ、真摯に過去の事実に向き合うことが、より強い痛みを伴うものだったのではないかとも思う。家族や親戚のほとんどが殺された自分と、そのすぐそばにいる、家族の誰一人傷つくことのなかった、かつての加害者側の隣人。そんなものが私たちに想像できるだろうか。
ルワンダの国内には、大小さまざまなジェノサイドのメモリアル(記念館)があるという。償いと許しのしるしであるそのようなメモリアルを作ることを選択したルワンダ人の姿勢。そんな彼らの姿勢を知ることができたのが、記念館に行ったひとつの成果だったのかと思う。

昼過ぎにジェノサイドの記念館を出たのだが、その次にニャマタというキガリ近郊の村に行く。このニャマタには、虐殺を逃れようと逃げ込んだ多くの住民が、逆に集団で殺害されたというカトリックの教会跡があるのだ。目的地の手前でバスを降りてしまい、途中、強い太陽の日差しを浴びながら目的地へと向かう。道中、道端にいる人たちからフランス語やルワンダ語で挨拶をされる。フレンドリーに外国人を迎えてくれる彼らの姿を見ていると、この国でほんの15年ほど前に本当に虐殺が起きたのかと思ってしまう。
ニャマタには外国人もよく訪れると聞いていたので、もっと分かりやすいところにあるのかと思ったら、道順を示す看板もなく、大きな道から離れ少し歩いたところにその教会はあった。周囲の家がそうであるように、その教会もレンガ造り。特別大きな尖塔があるわけでもなく、村の中で他の建物と一緒に溶け込むかのようにその教会はあった。暇そうにしている数人の若い受付の女性に挨拶をし、教会の中に入る。
何と表現したら言いのだろうか。背もたれのない長いすが教会の中に並べられているのだが、その上に土で汚れた服が積まれているのだ。そんな長いすと洋服のセットが、ただひたすら教会の建物の中に並んでいる。こぎれいなパネル展示があるわけでもなく、ただ無数の汚れた服が一面に積まれているだけ。そして、かすかながら鼻を突くようなにおいが漂っている。小さな窓から光が差しこみ、正面の壁には白い服をまとったマリア像が、まるで服を見下ろすかのように飾られている。それがニャマタの教会跡だった。ここで、1万人ほどの人が殺されたという。虐殺から逃れるため周辺からここに集まり、土に汚れた服に身を包み、汗のにおいを漂わせながら、恐怖におののきながらここに身を寄せ合っていたのだろうか。しかし、それもいつしか死体が転がり、死臭漂う凄惨な場となったのだろうか。何も語らぬ服がなんとも印象的な場だった。
次いで、教会の横にある地下室へと警備員のおじさんに案内される。もう驚くことはないだろうと思いながらも、しかし沈んだ気持ちになりながら、地下へと向かう、やたらと急な階段を下る。
教会横の地下室も、教会跡に劣らず不思議な場所だった。図書館の閉書庫、貸し出し頻度の低い本がぎっしりと並んでいるようなところを想像してもらいたい。地下室はまさにそんなところだった。ただ、並んでいるのが本ではなく、人骨だった。ある段には頭蓋骨が、ある棚には大腿骨が、ただひたすらびっしりと並んでいるのだ。それぞれの骨が、かつては家族がいて、喜怒哀楽を持ちながら生きていたのだとは、にわかには信じられなかった。法医学の授業で習った、個人識別のポイントを思いながら――頭蓋骨の縫合、前額面の傾斜、歯並びなど――かつては個性を持った一人ひとりの生きた人だったのだと想像しようとする。しかし、そんな想像をするのも無意味なほどにあまりにも多くの骨がそこにはあった。94年、ここに集まった人たちにはもう個性も何も与えられることなく殺され、数多くある骨のひとつになるしかなかったのだろう。地下室も、なんとも表現しがたい場所だった。
しかしである、94年の記憶を抱えながら、村の中にこうやったメモリアルがありながら、よくもルワンダの人たちは再び日常生活を取り戻し、旅行者が見る限りでは落ち着いた生活を送れるものだと思う。人間とはかくも強くあれるのかと思う。ルワンダだけでなく、先の大戦を経験した日本人とてそうなのだろう。しかし、心病んだ今の日本社会のことを思うと、彼らには脱帽させられる思いである。ツチ族としてかつては命を狙われ、紙一重のところで生きながらえたという警備員のおじさん。かつての同胞の遺骨に囲まれながら私たちを案内してくれる彼は、一体何を思っているのだろうか。他人の不幸には鈍感な図太い神経をしているのだが、複雑な心境になりながら教会跡を後にする。
なお、バスの乗れる大きな道までの道順がよく分からず、ヒッチハイクをしてバス乗り場まで車で送ってもらう。実はこの日、キガリ市内でもヒッチハイクで車に乗せてもらっていたので、2度目のヒッチハイクだった。それにしても、ルワンダ人は親切なものだと思う。一緒にいるシスターの格好のお陰なのか、あるいは私たちがワズング(白人)だからなのかも知れないが、日本ではなかなか難しいことではないだろうか。日本でも何度かヒッチハイクをした事のある者としては、ルワンダ人の親切さは格別だと思う。

この日の晩もキガリの修道院に宿泊する。私のためにシスターたちがケーキを焼いてくれる。