2009年12月19日土曜日

ルワンダ1 高知大生ルワンダに行く


先週5日から12日まで休みをもらい、ルワンダにいる日本人の知り合いのところに遊びに行ってきた。ルワンダに行っている最中はメモや日記をつけていなかったので記憶が薄らぎつつあるが、何度かに分けながらその間のことを書かせてもらおうと思う。
まずはその知り合いについて説明が必要だろう。彼女はカトリックのシスターで、94年に起こったジェノサイドの後からではあるが、長いことルワンダに住んでいる方である。実家同士が近くにある関係で以前からの知り合いであった。私がケニアに来た当初は彼女のもとに訪問する予定はなかったのだが、せっかく同じアフリカに来たのだからということで、今回彼女のところまでお邪魔させてもらうことになったのだった。
地理的にはウガンダ(私が研修をしているケニアのブシアと国境を接している国)の南西に位置するルワンダ。アフリカの中央部に位置する小国で、四国の1.3倍強ほどの面積を有している。南部に隣接するブルンジなどと共に「アフリカの心臓」と呼ばれているそうである。仮に私がナイロビにいたとしたら飛行機を使っていたかも知れない。ただ、ナイロビからルワンダの首都キガリまでの高速バスが通っており、ちょうど国境での検問のためにブシアでバスが停まる関係で、ブシアで途中乗車することができたので、今回は高速バスを利用してルワンダまで足を運ぶことにした。ブシアからルワンダの首都キガリへ、約15時間、途中ウガンダを経由しての長旅からルワンダの訪問は始まった。
ブシアでは夜の10時ごろに来ると聞いていたバスがなかなかやってこなかったり、ウガンダ・ルワンダ間の国境では面白い検問があったりしたが(これは後で述べたいと思う)、特に大きな問題もなくキガリまで到着することができた。キガリのバス停でそのシスターと
待ち合わせをしていたのだが、彼女よりも先に到着する。彼女を待つ間、バス停前のいすに座りながら、私と同じくらいの年だろうか、若い女の人と話をする。彼女がケニアに住んでいるのか、それともルワンダに住んでいるのか尋ねたとき、彼女はこう答えたのだった。
「私はキガリに住んでいるのよ。だって私はルワンダ人だからね。」
ルワンダ人。とても不思議な響きだった。もちろんルワンダに住んでいる人はルワンダ人だろう。実際、ルワンダに行く前にルワンダ人は英語でなんていうのだろうかと調べていたので、ルワンダ人という言葉を知らないわけではなかった。でもルワンダ人という言葉はどうしても違和感を持って私の頭の中で反響するのだった。
なぜだろうか。私なりにたどり着いた答えはこうだった。私たちがルワンダという国の名前を聞いたとき、一番に思いつくのはジェノサイドや虐殺といった言葉ではないだろうか。恐らく、「ああ、千の丘の国、ルワンダね」などという人はほとんどいないのではないだろうか(キガリを始め、国土の大半を丘陵に覆われるルワンダは「千の丘の国」と呼ばれているのだ)。そして、ジェノサイドという言葉と共に語られるのが、ツチ族・フツ族という、この国の主要部族の名前だった。ルワンダにいるのはツチ族とフツ族。この2つの部族の名前ばかりが相反するものとして語られ、ルワンダ人という言葉はほとんど語られることはなかったのではないだろうか。だから初めてルワンダ人という言葉を聞いたとき、私は違和感を覚えたのではないだろうか。
ルワンダ人という言葉を別にしても、以前に読んだことのある『ジェノサイドの丘に』といった本や、映画『ホテル・ルワンダ』のイメージが頭から離れず、目の前に広がるキガリの街の様子は――きれいな道路にはケニアと違いゴミはほとんど捨てられておらず、マナーを守った車の運転手によって真新しい信号がしっかりと機能している、そんなケニアよりも秩序だった雰囲気を見せるのだが――どうしても私の頭を混乱させるのだった。ルワンダという国の第一印象すらつかめないまま、ルワンダでの第1日は始まった。

ルワンダでの最初の3日間、私はキガリに滞在することになっていた。また、その間はホテル暮らしではなく、シスターの属している修道会の修道院に宿泊させてもらうことになっていた。その日本人シスターの知人とは言え、単なる旅行者としか言えないような私、ルワンダ語もフランス語も全く喋れないチンプンカンプンな私だったが、修道院のシスターたちはとても暖かく私を受け入れてくれ、丁重にもてなしてくれた。
また、修道院の建物や庭もとてもきれいで、心安らぐ場だった。他の多くの家がそうであるように、丘にへばりつくように建てられた建物はレンガ造りで、庭に咲く花々とよくマッチしていた。また、観賞用の花以外にも、バナナの木をはじめ食用の植物も裏庭に多く植えられ、緑豊かな場所だった。修道院という特殊な場所だからかもしれないが、ケニアの猥雑な街の空気とは違う、落ち着いた上品な場所であった。ただ94年の悲劇を経験したのもまた事実で、修繕はしてあったが鉄の門には銃弾の跡がいくつも残っていた。

さて、私がキガリに到着した日、全くの偶然だったがその修道院でちょっとしたセレモニーがあった。94年のジェノサイドの際、虐殺を逃れて駆け込んできた人たちをこの修道院でもかくまっていたのだが、ジェノサイド終結後、そのときにかくまっていた子供たちなど、ジェノサイドで親を亡くした子供たちの孤児院を修道院で運営しているのだ。その子供たちが体験をまとめた手記を出版したのだが、今回はその出版を記念してのセレモニーだった。準備の段階で一時停電になったり、6時に始まると聞いていたのに実際には7時ごろに始まったりと、アフリカでは取るに足らないようなちょっとしたハプニングがあったりしたが、大きな問題はなくセレモニーはスタート。修道院のちょっとした庭にびっしりとプラスチックの椅子が並べられ、辺りが暗くなっていく中でのセレモニーだった。前半は関係者何人かの証言を集めたビデオの上演があり、次いで本を著した一人である孤児をはじめ何人かのスピーチであった。ルワンダ語やフランス語は全く分からなかったし、ジャンパーを着ていてもさっきまで降っていた雨のせいかとても寒く、途中、なんでこんなセレモニーに参加しているのか分からなくなったりもした。しかし、せっかくだと思って最後まで椅子に座るだけ座ることにする。私に唯一理解できたのは、ビデオの中で孤児となった子供たちが紹介されたのだが、そこで彼らの生年月日が紹介されていたことくらいだろうか。今は10代後半から20代前半になった彼らは、私や私の兄弟とちょうど同じような年代だった。94年のできごとが、すでに過ぎ去った歴史ではなく、私と同じ年代の彼らがいまだに背負い続けている現実であるのだということを、何となくながら感じることができた。
どういう趣旨なのかは分からなかったが、女の子たちはお揃いのきれいなドレスに身を包んでおり素敵だった。そのドレスの効果もあるのかもしれないが、女の子はみんなとてもかわいく感じる。細長い手足に大きな胸というプロポーションは、アフリカン・マジックと言われているそうである。いや、冗談です。ジェノサイドを生き残っただけあり、運がいいというか、人とは何か違うものをもっていたのかな、などと考えてしまう。私の母親が、先の大戦を生き残った世代の人たちについて、「あの戦争を生き残った人たちはやっぱり運がいい人たちなのよ」などと言っていたことがあるが、そんな母親の言葉のせいでそんなことを考えてしまうのだろうか。ただ実際、ルワンダ人のあるシスターも、ジェノサイドを生き残った人たちはとても運のいい人たちだったと、後々言っていた。というのも、もちろん直接ジェノサイドの被害にあった人も多かったが、ジェノサイド後の混乱期には感染症が蔓延し、ツチ族・フツ族共に多くの死者が出ていたのだという。いずれにせよ、そんな悲劇を乗り越え、私の今いるこのきれいな国ルワンダを再建してきたのが、私の周りにいるルワンダ人たちであることは、確かな事実なのだろう。
余談であるが、このセレモニーの様子がルワンダのテレビのニュースに取り上げられていたということを、後日はじめて知る。知り合いのシスターと私のワズング2人組もちゃんと映っていたそうである。前日ブシアで髪の毛を切り、坊主に近い状態になっていたのだが、テレビに映るのなら髪の毛を長いままにしておけばよかったと、くだらない後悔をする。