2009年12月27日日曜日

写真で綴る、最近あったイベント







年末ということで最近いくつかのイベントに参加する機会があった。
以下、簡単に紹介したいと思う。

My Health, My Responsibility
一つ目はAPHIA IIの関係のイベント。英語にすると「My Health, My Responsibility」というテーマのイベントで、HIVや健康といった、テーマに沿った歌やダンスや演劇の競演をするというもの。ブシア県内のユースが参加できて、今回のイベントで各部門の優秀賞をもらった人は州レベルの同様なイベントに進むことができ、さらにその先に国レベルのイベントが待っている、というシステム。言葉の問題があり、内容がつかみかねるものも少なからずあるが、多彩なパフォーマンスで見ていて飽きなかった。私自身は写真係として写真を撮ることに専念するのだが、会場内にやたらと柱がある上、競演者と観客の間にスペースがなくてかなり写真が撮りにくい。
ちなみに会場のすぐ横でVCTをやっており、そちらも常に人が並んでいる状態だった。
ところで、こういうイベントに観客として来ている人は、どんな人たちなんだろうかと思う。もちろん、ターゲット層である、クリスマス休暇で暇しているユースも来ているだろう。ただ、本当に生活が困窮している人などはこういうイベントに足を運んだりするのだろうかなどと思う。
(写真1枚目、2枚目)

Commercial Sex Worker二つ目は、Commercial Sex Workerの自助グループの、結成10周年の記念イベント。ADEOにもお声がかかり、私も参加させてもらう。自己紹介のとき、グループメンバーは「私はセックスワーカーです」と自己紹介をし、他の人が明るくワーッと拍手する。謎な空気に一瞬戸惑う。
スピーチの他、ここでもグループメンバーやステークホルダーによる演劇がある。登場人物がCSWとお客さんだったりと、実践的な場面の劇で面白い。みんなで踊る時間もあり、私も踊るのだが、おばちゃんに「私を連れて帰ってくれるっ!?」と耳元でささやかれる。ところで、他のイベントでもそうなのだが、きわどい内容の演劇などをしている場に小さい子の姿もよく見かけるが、子供に悪い影響はないのだろうか。逆に早期からの教育がいいのだろうか。
(写真3枚目)

教会のイベント
三つ目はブシアの教会であったイベント。ADEOに案内のチラシが来ていたものの、ADEOとは特に関係のないものだったが、他のスタッフに誘われて顔を出すことに。何のテーマがあるわけでもなく、ただ単に歌やダンス、演劇の競演会というものだった。ミスター&ミス・ブシアのコンテストがあったりボディービルがあったりと、より軽い感じのイベントだったが、会場はカトリックの教会。トロフィーの授与をする係だから来ているという、私の横に座っている女の子は始終呆れ顔。ミス・ブシアに出ている女性陣のスタイルのよさ、ボディービルダーの筋肉っぷりは日本ではなかなかお目にかかることはできないだろう。
(写真4枚目、5枚目)

今週は他にも、ストリート・チルドレンのためのクリスマス・パーティーなどがあった。クリスマス休暇のためにユースが学校が休みだったので、今までと一変してイベント尽くしだった。
なお、どのイベントも予定よりも何時間か遅れでのスタートだった。さすがアフリカ。

ルワンダ3 子供たちの家

3日目、基本的にキガリの修道院でゆっくりしていたのだが、夕方前、修道院で運営しているジェノサイドの孤児の家にお邪魔しに行く。キガリに到着した日に参加した出版のセレモニーの主役、ジェノサイドの体験を手記にまとめた子供たちというのは、ここの子供たちである。セレモニーの時にはしっかりと挨拶をする時間がなかったので、今回が初めて彼らと一緒に過ごす時間となった。
彼ら子供たちが暮らしているのは、修道院から歩いて5分くらいのところだった。こちらもやはりレンガの塀に囲まれたレンガ造りの家で、修道院と同じくとてもきれいな造りの建物。ぎこちない感じで挨拶を交わしながら家へと案内される。なお、子供たちという呼び方をしているが、年齢としては16歳から25歳程度の幅があるのだが、子供と呼ぶには少し年齢が高すぎるかもしれない。ただ、ジェノサイドで親や親戚を亡くしたときはまだ小さな子供だったのだろう。現在ではみんな成長し、この家から働きに出ている人もいれば大学や高校に行っている人もいるという具合である(ただし私が訪問したときはクリスマス休暇が始まっていたので、学校はお休みであったが)。人数としては30人弱。昔はこの広さでも事足りたのかもしれないが、成長した彼らが暮らすには少し手狭なような気もする。結婚などによってこの家を出て行く子供たちも出てきているようで、また段々とスペースができてくるのかも知れないが。
さて、バナナで作ったお酒の話をするのだが、ケニアで飲んだことがないと言うと、わざわざ近くまで買いに行ってくれる。ケニアで一度口にしたような自家製のものを想像していたのだが、彼らが買ってきたくれたのは正規の販売ルートにのり販売されているもので、もちろんちゃんとしたビンにボトリングされているものだった。どぶろくの様に濁ったお酒で、彼らがストローを持ってきてくれたのでそれで飲む。とろっとしているものの、さわやかな口当たり。もっとバナナっぽい味かと思ったらそうではなく、知らずに飲んだらバナナが原料だとは分からないような味だった。アルコールに強くはない私だったが、とても飲みやすいと思っていたら、ボトルを見るとアルコールは15%と表示されている。飲みやすさの割に比較的高いアルコール度数に少しびっくりする。ちなみにこのバナナのお酒、彼らが買ってきたのは1本だったので、申し訳ないのだが私一人だけでいただく。

当初はここに泊まる予定ではなく修道院に泊まらせてもらう予定だったが、子供たちから泊まっていけばと誘いを受けたので、ありがたく彼らの言葉に甘えることにする。
私には想像もつかないような過去を経験してきた彼らではあるが、しかしそれでも私が見る限りでは全くの普通の若者。彼らの家にいる間、彼らの過去について話をされることもなかったし、私から特に聞くこともなかった。彼らとは本当に他愛のない話をする。例えば恋人を選ぶときの基準ベスト5とか。日本では聞かないようなことが出てきたりしてちょっと面白かったりする。ちなみにお気に入りの子からは、ボーイフレンドの基準の1つとして背が高いことを挙げられ、オサムあえなく撃沈。もちろんと言うべきなのかは分からないが、部族のことは基準として挙げられることはなかった。
修道院のシスターもそうなのだが、ここの子供たちもとても心遣い・気遣いのできる人たちのように思う。もちろんケニアの人たちもとても優しいのだが、何となく日本人的な心遣いとは違うように思うのだ。一方の、私の出会ったルワンダ人たちはみんな私にとてもよく心配りをしてくれる。彼らに何も還元できることができないのが本当に申し訳なくなる程によくしてくれたと思う。
唯一「おいっ」って思ったのは、翌朝、体を洗っているときくらいだろうか。こっちから頼まなくても「顔洗う? それとも体洗う?」とか「石鹸持ってる?」と聞いてきてくれ、ありがたく体を洗わせてもらう。男子用トイレの小屋がありその横の影で体を洗う。特に驚くことではないのだが、屋外かつ冷水。トイレへの通り道なので、私が体を洗っている間はみんなトイレに行けなくなってしまうなと思う。と思いきや、特に私のことを気に留めることなくトイレの小屋に用を足しに来るよう。私の格好というか裸姿を気にすることもなく、笑顔で「昨晩はよく眠れた?」などと聞いてきてくれる。こちらも笑顔で返事を返すのだが、「おいっ、そこは気を使おうよ」と内心思ってしまう。まあ、集団生活をしている彼らにとっては当たり前のことなのだろう。

しかしである、家族・親戚を殺された過去を持ちながら子供時代を過ごすというのは、どんなものなのだろうか。彼らの家に来て、ふと日本のことを思い出す。大学の1年目、ほんのわずかな期間だが、児童養護施設(親がいなかったり、親の養育能力が不十分だとされる子供たちが暮らす施設)で勉強を教えるボランティアをしたことがあるのだ。結局、部活やバイトに比して優先順位が低く、途中でやめてしまったのだが、短い期間ながらそこでの経験はとても印象深いものがあった。
ある子は、英語の宿題で家族のことを英語で説明しましょうという課題が出ていた。私はエグっと思うのだが、彼は落ち込む様子もなくノートに向かう。そして、その施設では一緒に暮らしてはいない彼のお兄ちゃんについて、一緒にサッカーをして遊ぶのが好きなのだと私に説明してくれるのだ。またある子は、私が医学生だと言うと、自分のお母さんは看護師なんだと嬉しそうに教えてくれたりもした。一緒に暮らすことのできない兄弟の話、彼らが施設で暮らすことになった理由の一部となっているはずの親の話について、私の予想を裏切り、彼らは顔を輝かせながら語ってくれるのだ。勝手ながらなんとも切ない気分にさせられたのを覚えている。離れていても血の繋がった親兄弟は子供にとって大きな存在なのだろうか。
一方のルワンダのその子供たちにとって、失った家族は彼らにとってどんな意味を持ち、振り返り思い出すことがあるとしたら、どのように振り返るのだろうか。
そこに泊まっている間、私の家族や兄弟のことを聞かれることはあったが、私には同じことを問い返すことはどうしてもできなかった。
後になって、知り合いのシスターから、彼らのうちの一人、私に一番よくしてくれた子の親の話を聞く。94年の際、自分をかくまってくれていた人がおり、その後、その人のことをとても親切な人だと思っていたのだという。しかし、ジェノサイドの裁判が開かれたとき、実は自分をかくまってくれていたまさにその人が、自分の親を殺していたということを知ったのだという。そんな話を、またさらに後になってシスターに語ってくれたという。

私と同じ年代の彼ら。
私にとても親切だった彼ら。
私には想像もつかないヒリヒリするような過去を抱えた彼ら。
敵意と赦し、猜疑心と優しさがごちゃ混ぜになったような過去を経験したこの国で、私を温かく迎えてくれた彼らと出会えたことが、ルワンダ訪問の中で一番心に残る出来事だった。

2009年12月20日日曜日

ルワンダ2 キガリ



話が前後してしまうが、今回は最初にウガンダ・ルワンダ間の国境であった検問の話から始めさせてもらいたいと思う。
その検問というのは、ルワンダに入国する人がビニール袋を持ち込んでいないかチェックするのもで、もしビニール袋を持っている場合はその場で係員に取り上げられるというものであった。私は事前に国境の通過手続きのことなどを調べており、ビニール袋は持ってこないようにしていた。しかしバスの乗客の少なからぬ人たちはそのことを知らなかったらしく、しぶしぶビニール袋から荷物を取り出していた。最初にこのビニール袋検問の話を聞いたときは悪い冗談かと思ったが、実際に国境でそのチェックがあったときはやはり驚いてしまった。

ここで問題。この国境でのビニール袋検問、何の目的があるのだろうか。
1、ビニール袋のチェックと称して、入国者の荷物をくまなく調べるため。
2、国の美化のため、すぐゴミになり、土に返らないビニール袋を国内に流通させないため。
3、国の観光の目玉であるゴリラが、誤ってビニール袋を食べて窒息するこのとないようにするため。
いかがだろうか。
話を聞くところによると、答えは環境美化のための2。ビニール袋は外国から持ち込むのを禁止しているだけでなく、街の店でも使うことが禁止されているという。ケニア資本の大きなスーパーマーケットがキガリにも最近できたらしく、2日目には私もそこに行ったのだが、そこでももちろん紙袋であった。また、他の店でお土産に買った写真立ても、ビニール袋に入れる代わりに新聞紙に包んでくれる。環境への負荷を考えると、スーパーでもらったきれいな紙袋とビニール袋、どっちがいいのか分からないが、少なくとも新聞紙だったら環境にはやさしいのではないだろうかなどと思う。ケニアなどでは果物をちょっと買っただけで小さなビニール袋に入れてくれ、そんなビニール袋が道端に無数に捨てられているのだ。しかしルワンダではビニール袋禁止のため、道端でゴミを見かけることはほとんどない。なのでルワンダの街はとてもきれいであった。また、ゴミの他にも建築物にも景観のためのいろいろな基準があるらしく、道端から視線を上げ丘から見渡す街の様子もまたとてもきれいであった。

さて、キガリでの2日目、上に述べたように最初は街を歩きお店を覗いたりしたのだが、その後にシスターとジェノサイドの記念館に行く。キガリの丘の斜面に位置し、手入れのされた庭のある、落ち着いた雰囲気の比較的小さな建物だった。展示内容としては、植民地時代から90年代前半までのルワンダの国の様子、つまりジェノサイドまでの国の道のりの説明、ジェノサイドの様子の写真、凶器となった農機具、犠牲者の頭骸骨、体験談を語ったインタビュー映像の上映、20世紀に起こった他の人道的危機の説明、亡くなった子供の写真やその説明などなど。
最低限の基礎知識はもともとあったし、極端にショッキングな展示物があったわけではないので、特別驚くこともなく展示を眺めていく。そして、太平洋戦争が始まったのは70年くらい前の明日くらいだったよな、などとかなり曖昧なことを考える。さらに、以前に行ったことのある、中国・南京にある虐殺博物館のことを思い出す(南京大虐殺は太平洋戦争開戦前のことだが)。日本軍による南京での虐殺とルワンダでのジェノサイド。どちらの方が悲惨だったとか悲劇的だったとなどと比較するのはナンセンスなことだろう。その悲劇を体験した人にとっては、例えようのないつらい事実に違いない。しかし、歴史的事実の捉えかたを比較したとき、我々はルワンダに学ぶべきものがあるのではないかと思ってしまう。
日本では虐殺の事実そのものをなかったかのように大手を振って主張する声があることに驚かされることがある(もちろん虐殺の規模や程度については議論の余地があるのは認めるが、虐殺の事実そのものを否定することはできないだろう)。また、鳩山政権の方針を知らないのであまりはっきりとしたことは言えないが、いまだに戦没者の扱いなどで関係諸国ともめる日本の政治指導者たちの言動にもあきれさせられる。あるいは、南京の博物館に行ったときに感じたのだが、一方的に日本を悪とし、中国共産党を善とする中国政府の主張にも納得しがたいものを感じる。また、中国国内では、卑劣で間抜けな日本軍と勇敢な中国軍を扱った映画が流れているのを何度も目にしたが、それも目にするたびにとても嫌な気分にさせられたのを思い出す。
一方のルワンダであるが、双方がより積極的に歩み寄ろうとしている姿勢を感じる。もちろん、悲劇が起こったあとであっても、同じ土地で再び隣人同士として共に暮らしていかねばならず、何らかの妥協策をとらねば国を運営していくことが困難になるので、そのために歩み寄りの努力が日中間の場合よりもより差し迫った問題だったのだろうかとは思う。同じ文化を共有するルワンダ人だったからこそ償いと許しが双方の心に届くものだったのかとも思う。しかし、隣人同士だったからこそ、真摯に過去の事実に向き合うことが、より強い痛みを伴うものだったのではないかとも思う。家族や親戚のほとんどが殺された自分と、そのすぐそばにいる、家族の誰一人傷つくことのなかった、かつての加害者側の隣人。そんなものが私たちに想像できるだろうか。
ルワンダの国内には、大小さまざまなジェノサイドのメモリアル(記念館)があるという。償いと許しのしるしであるそのようなメモリアルを作ることを選択したルワンダ人の姿勢。そんな彼らの姿勢を知ることができたのが、記念館に行ったひとつの成果だったのかと思う。

昼過ぎにジェノサイドの記念館を出たのだが、その次にニャマタというキガリ近郊の村に行く。このニャマタには、虐殺を逃れようと逃げ込んだ多くの住民が、逆に集団で殺害されたというカトリックの教会跡があるのだ。目的地の手前でバスを降りてしまい、途中、強い太陽の日差しを浴びながら目的地へと向かう。道中、道端にいる人たちからフランス語やルワンダ語で挨拶をされる。フレンドリーに外国人を迎えてくれる彼らの姿を見ていると、この国でほんの15年ほど前に本当に虐殺が起きたのかと思ってしまう。
ニャマタには外国人もよく訪れると聞いていたので、もっと分かりやすいところにあるのかと思ったら、道順を示す看板もなく、大きな道から離れ少し歩いたところにその教会はあった。周囲の家がそうであるように、その教会もレンガ造り。特別大きな尖塔があるわけでもなく、村の中で他の建物と一緒に溶け込むかのようにその教会はあった。暇そうにしている数人の若い受付の女性に挨拶をし、教会の中に入る。
何と表現したら言いのだろうか。背もたれのない長いすが教会の中に並べられているのだが、その上に土で汚れた服が積まれているのだ。そんな長いすと洋服のセットが、ただひたすら教会の建物の中に並んでいる。こぎれいなパネル展示があるわけでもなく、ただ無数の汚れた服が一面に積まれているだけ。そして、かすかながら鼻を突くようなにおいが漂っている。小さな窓から光が差しこみ、正面の壁には白い服をまとったマリア像が、まるで服を見下ろすかのように飾られている。それがニャマタの教会跡だった。ここで、1万人ほどの人が殺されたという。虐殺から逃れるため周辺からここに集まり、土に汚れた服に身を包み、汗のにおいを漂わせながら、恐怖におののきながらここに身を寄せ合っていたのだろうか。しかし、それもいつしか死体が転がり、死臭漂う凄惨な場となったのだろうか。何も語らぬ服がなんとも印象的な場だった。
次いで、教会の横にある地下室へと警備員のおじさんに案内される。もう驚くことはないだろうと思いながらも、しかし沈んだ気持ちになりながら、地下へと向かう、やたらと急な階段を下る。
教会横の地下室も、教会跡に劣らず不思議な場所だった。図書館の閉書庫、貸し出し頻度の低い本がぎっしりと並んでいるようなところを想像してもらいたい。地下室はまさにそんなところだった。ただ、並んでいるのが本ではなく、人骨だった。ある段には頭蓋骨が、ある棚には大腿骨が、ただひたすらびっしりと並んでいるのだ。それぞれの骨が、かつては家族がいて、喜怒哀楽を持ちながら生きていたのだとは、にわかには信じられなかった。法医学の授業で習った、個人識別のポイントを思いながら――頭蓋骨の縫合、前額面の傾斜、歯並びなど――かつては個性を持った一人ひとりの生きた人だったのだと想像しようとする。しかし、そんな想像をするのも無意味なほどにあまりにも多くの骨がそこにはあった。94年、ここに集まった人たちにはもう個性も何も与えられることなく殺され、数多くある骨のひとつになるしかなかったのだろう。地下室も、なんとも表現しがたい場所だった。
しかしである、94年の記憶を抱えながら、村の中にこうやったメモリアルがありながら、よくもルワンダの人たちは再び日常生活を取り戻し、旅行者が見る限りでは落ち着いた生活を送れるものだと思う。人間とはかくも強くあれるのかと思う。ルワンダだけでなく、先の大戦を経験した日本人とてそうなのだろう。しかし、心病んだ今の日本社会のことを思うと、彼らには脱帽させられる思いである。ツチ族としてかつては命を狙われ、紙一重のところで生きながらえたという警備員のおじさん。かつての同胞の遺骨に囲まれながら私たちを案内してくれる彼は、一体何を思っているのだろうか。他人の不幸には鈍感な図太い神経をしているのだが、複雑な心境になりながら教会跡を後にする。
なお、バスの乗れる大きな道までの道順がよく分からず、ヒッチハイクをしてバス乗り場まで車で送ってもらう。実はこの日、キガリ市内でもヒッチハイクで車に乗せてもらっていたので、2度目のヒッチハイクだった。それにしても、ルワンダ人は親切なものだと思う。一緒にいるシスターの格好のお陰なのか、あるいは私たちがワズング(白人)だからなのかも知れないが、日本ではなかなか難しいことではないだろうか。日本でも何度かヒッチハイクをした事のある者としては、ルワンダ人の親切さは格別だと思う。

この日の晩もキガリの修道院に宿泊する。私のためにシスターたちがケーキを焼いてくれる。

2009年12月19日土曜日

ルワンダ1 高知大生ルワンダに行く


先週5日から12日まで休みをもらい、ルワンダにいる日本人の知り合いのところに遊びに行ってきた。ルワンダに行っている最中はメモや日記をつけていなかったので記憶が薄らぎつつあるが、何度かに分けながらその間のことを書かせてもらおうと思う。
まずはその知り合いについて説明が必要だろう。彼女はカトリックのシスターで、94年に起こったジェノサイドの後からではあるが、長いことルワンダに住んでいる方である。実家同士が近くにある関係で以前からの知り合いであった。私がケニアに来た当初は彼女のもとに訪問する予定はなかったのだが、せっかく同じアフリカに来たのだからということで、今回彼女のところまでお邪魔させてもらうことになったのだった。
地理的にはウガンダ(私が研修をしているケニアのブシアと国境を接している国)の南西に位置するルワンダ。アフリカの中央部に位置する小国で、四国の1.3倍強ほどの面積を有している。南部に隣接するブルンジなどと共に「アフリカの心臓」と呼ばれているそうである。仮に私がナイロビにいたとしたら飛行機を使っていたかも知れない。ただ、ナイロビからルワンダの首都キガリまでの高速バスが通っており、ちょうど国境での検問のためにブシアでバスが停まる関係で、ブシアで途中乗車することができたので、今回は高速バスを利用してルワンダまで足を運ぶことにした。ブシアからルワンダの首都キガリへ、約15時間、途中ウガンダを経由しての長旅からルワンダの訪問は始まった。
ブシアでは夜の10時ごろに来ると聞いていたバスがなかなかやってこなかったり、ウガンダ・ルワンダ間の国境では面白い検問があったりしたが(これは後で述べたいと思う)、特に大きな問題もなくキガリまで到着することができた。キガリのバス停でそのシスターと
待ち合わせをしていたのだが、彼女よりも先に到着する。彼女を待つ間、バス停前のいすに座りながら、私と同じくらいの年だろうか、若い女の人と話をする。彼女がケニアに住んでいるのか、それともルワンダに住んでいるのか尋ねたとき、彼女はこう答えたのだった。
「私はキガリに住んでいるのよ。だって私はルワンダ人だからね。」
ルワンダ人。とても不思議な響きだった。もちろんルワンダに住んでいる人はルワンダ人だろう。実際、ルワンダに行く前にルワンダ人は英語でなんていうのだろうかと調べていたので、ルワンダ人という言葉を知らないわけではなかった。でもルワンダ人という言葉はどうしても違和感を持って私の頭の中で反響するのだった。
なぜだろうか。私なりにたどり着いた答えはこうだった。私たちがルワンダという国の名前を聞いたとき、一番に思いつくのはジェノサイドや虐殺といった言葉ではないだろうか。恐らく、「ああ、千の丘の国、ルワンダね」などという人はほとんどいないのではないだろうか(キガリを始め、国土の大半を丘陵に覆われるルワンダは「千の丘の国」と呼ばれているのだ)。そして、ジェノサイドという言葉と共に語られるのが、ツチ族・フツ族という、この国の主要部族の名前だった。ルワンダにいるのはツチ族とフツ族。この2つの部族の名前ばかりが相反するものとして語られ、ルワンダ人という言葉はほとんど語られることはなかったのではないだろうか。だから初めてルワンダ人という言葉を聞いたとき、私は違和感を覚えたのではないだろうか。
ルワンダ人という言葉を別にしても、以前に読んだことのある『ジェノサイドの丘に』といった本や、映画『ホテル・ルワンダ』のイメージが頭から離れず、目の前に広がるキガリの街の様子は――きれいな道路にはケニアと違いゴミはほとんど捨てられておらず、マナーを守った車の運転手によって真新しい信号がしっかりと機能している、そんなケニアよりも秩序だった雰囲気を見せるのだが――どうしても私の頭を混乱させるのだった。ルワンダという国の第一印象すらつかめないまま、ルワンダでの第1日は始まった。

ルワンダでの最初の3日間、私はキガリに滞在することになっていた。また、その間はホテル暮らしではなく、シスターの属している修道会の修道院に宿泊させてもらうことになっていた。その日本人シスターの知人とは言え、単なる旅行者としか言えないような私、ルワンダ語もフランス語も全く喋れないチンプンカンプンな私だったが、修道院のシスターたちはとても暖かく私を受け入れてくれ、丁重にもてなしてくれた。
また、修道院の建物や庭もとてもきれいで、心安らぐ場だった。他の多くの家がそうであるように、丘にへばりつくように建てられた建物はレンガ造りで、庭に咲く花々とよくマッチしていた。また、観賞用の花以外にも、バナナの木をはじめ食用の植物も裏庭に多く植えられ、緑豊かな場所だった。修道院という特殊な場所だからかもしれないが、ケニアの猥雑な街の空気とは違う、落ち着いた上品な場所であった。ただ94年の悲劇を経験したのもまた事実で、修繕はしてあったが鉄の門には銃弾の跡がいくつも残っていた。

さて、私がキガリに到着した日、全くの偶然だったがその修道院でちょっとしたセレモニーがあった。94年のジェノサイドの際、虐殺を逃れて駆け込んできた人たちをこの修道院でもかくまっていたのだが、ジェノサイド終結後、そのときにかくまっていた子供たちなど、ジェノサイドで親を亡くした子供たちの孤児院を修道院で運営しているのだ。その子供たちが体験をまとめた手記を出版したのだが、今回はその出版を記念してのセレモニーだった。準備の段階で一時停電になったり、6時に始まると聞いていたのに実際には7時ごろに始まったりと、アフリカでは取るに足らないようなちょっとしたハプニングがあったりしたが、大きな問題はなくセレモニーはスタート。修道院のちょっとした庭にびっしりとプラスチックの椅子が並べられ、辺りが暗くなっていく中でのセレモニーだった。前半は関係者何人かの証言を集めたビデオの上演があり、次いで本を著した一人である孤児をはじめ何人かのスピーチであった。ルワンダ語やフランス語は全く分からなかったし、ジャンパーを着ていてもさっきまで降っていた雨のせいかとても寒く、途中、なんでこんなセレモニーに参加しているのか分からなくなったりもした。しかし、せっかくだと思って最後まで椅子に座るだけ座ることにする。私に唯一理解できたのは、ビデオの中で孤児となった子供たちが紹介されたのだが、そこで彼らの生年月日が紹介されていたことくらいだろうか。今は10代後半から20代前半になった彼らは、私や私の兄弟とちょうど同じような年代だった。94年のできごとが、すでに過ぎ去った歴史ではなく、私と同じ年代の彼らがいまだに背負い続けている現実であるのだということを、何となくながら感じることができた。
どういう趣旨なのかは分からなかったが、女の子たちはお揃いのきれいなドレスに身を包んでおり素敵だった。そのドレスの効果もあるのかもしれないが、女の子はみんなとてもかわいく感じる。細長い手足に大きな胸というプロポーションは、アフリカン・マジックと言われているそうである。いや、冗談です。ジェノサイドを生き残っただけあり、運がいいというか、人とは何か違うものをもっていたのかな、などと考えてしまう。私の母親が、先の大戦を生き残った世代の人たちについて、「あの戦争を生き残った人たちはやっぱり運がいい人たちなのよ」などと言っていたことがあるが、そんな母親の言葉のせいでそんなことを考えてしまうのだろうか。ただ実際、ルワンダ人のあるシスターも、ジェノサイドを生き残った人たちはとても運のいい人たちだったと、後々言っていた。というのも、もちろん直接ジェノサイドの被害にあった人も多かったが、ジェノサイド後の混乱期には感染症が蔓延し、ツチ族・フツ族共に多くの死者が出ていたのだという。いずれにせよ、そんな悲劇を乗り越え、私の今いるこのきれいな国ルワンダを再建してきたのが、私の周りにいるルワンダ人たちであることは、確かな事実なのだろう。
余談であるが、このセレモニーの様子がルワンダのテレビのニュースに取り上げられていたということを、後日はじめて知る。知り合いのシスターと私のワズング2人組もちゃんと映っていたそうである。前日ブシアで髪の毛を切り、坊主に近い状態になっていたのだが、テレビに映るのなら髪の毛を長いままにしておけばよかったと、くだらない後悔をする。

2009年12月6日日曜日

ジョブレス


母親から時々メールが来るのだが、家族の近況報告のほかに為替相場を報告してくれている。こちらにいると日本のニュースに接する機会も少なく、特に意識して為替相場などチェックすることはないので、時々母親から送られてくる情報にいつも驚かされる。かなり円高が進んでいるそう。
『地球の歩き方』には去年春の時点での日本円とケニアシリング(Kshケニアの通貨)のレートが載っているのだが、1Ksh≒1.56円。この間に、USドルに対してケニアシリング安となっており同時に円高になっているので、1Kshがどんどん1円に近づいている。海外で生活する分には嬉しい限りなのだが、多くの日本企業にとっては大問題だろう。どうなるニッポン。

USAIDや政府系のAIDS関係機関からの資金の振込みが滞っており、ブシアオフィスのプロジェクトはほとんど一時停止となっており、オフィスではジョブレス状態。おしゃべりして昼ごはん食べてだらだらして一日が終わるという日々が続いている。オフィスの壁には10月と11月のワークプランの紙が張ってあるのだが、10月や11月前半はいろいろと書き込みがあるのに、私が来た週から特に書き込みのないその紙がなんとも切ない。そんな中でも頭と体を動かして何かすることを見つけたらいいのだろうが、「仕事がないときはゆっくりしてたらいいのよ」というマルセラの言葉に負け、彼女とおしゃべりをしながら時間をつぶす毎日。イメージとしては写真のブタ君と一緒。どうするオサム。

というわけで、来週1週間休みをもらい、ルワンダにいる知り合いの日本人のところに行ってきます。