2009年10月3日土曜日

新聞記事

最近気になった新聞記事。

その1、HIVの感染率
1週間ほど前に「ケニアAIDS指標調査」なるものが発表されたそうなのだが、その中でもHIVの感染率に関する記事が大きく新聞に取り上げられている。
内容としては、都市部を中心にHIVの感染率が低下しているものの、地方では軒並み感染率が上昇し、ケニア国内全体の感染率も上昇しているという。
具体的には、ケニア全体では2003年の6.7%から7.1%へ、カジャドゥの含まれるリフトバレー州では2003年の数値は新聞に載っていないが、6.3%に上昇しているという。
都市部の感染率の低下を、コンドームの使用を呼びかけるキャンペーンなどの効果としながら、地方での感染率の上昇を、そのようなキャンペーンの不十分さ、貧困、教育の低さに焦点を当てている。

確かにナイロビでは、スラムを歩けばよくNGOなどで働いていると思われる白人に出会い、決して少なくない団体がHIVに関わっていると思われるし、街中を歩けばよく「VCT(Voluntary Counseling and Testing)」の看板を見かける。
そして一方では、カジャドゥのような田舎では援助系団体に関わっている白人は私だけであるし(そもそも商用で滞在している白人もいないようだが)、常時VCTを受けられるのは町の中心から離れた公立の病院付属の施設だけ。
APHIAⅡ関連でいくつかの団体がHIV関係の事業を展開はしているが、ナイロビ市内と比較すると、やはりその規模は不十分なのだろう。

ケニアに限った話ではないのだろうが、日本と比較すると、都市と地方、富める者と貧しい者の差を強く感じる。
多くの品物が手に入るナイロビ市内のスーパーマーケットと、パンといったら400gか600gの選択の余地しかないカジャドゥの商店。
買うものや着るものに限らず、そんな環境の差異の中で、価値観までも住む場所によって違ってくるのではないだろうかと思う。

これからの地方でのHIV関連キャンペーンの重要性をお偉いさんは語っているそうであるが、もしかすると、単にキャンペーンを地方でしたら済む話ではないのではないだろうか、とも思ってしまう。
何はともあれ、私たちの活動の必要性を確認してくれたわけでもあるので、残りの研修期間、がんばりましょう。


その2、HIVのワクチン
日本でも報道があっただろうか、アメリカ軍の協力のもとタイ政府が行っていたHIVワクチンの研究結果。
新聞によって取り上げ方のトーンが違うのだが、十分な効果が上がったとはいえないながら、ワクチンの研究が一歩進んだというもの。
HIVネガティブのボランティアをワクチン投与群と偽薬(プラセボ)を投与する対照群に分け、研究を始めた2006年から3年経った今年のHIVの感染率を比較したところ、わずかながらワクチン投与群のほうがHIVの新規感染数が抑えられていたというもの。
今回の結果については多くの議論の余地はあるそうだし、アフリカで流行しているウイルスとは型の違うものを対象にしたワクチンなのだそうなのだが、それでもこれからのワクチン開発に対して明るい光が見えたと言ってもいいだろう。

PEとのミーティングのあった日にこのワクチンの件が新聞に載っており、ミーティングでもこのことが話題に上っていた。
スワヒリ語の議論の中で置いてけぼりを喰らっていたので詳しい議論の内容は分からないが、大方の意見としてはワクチン開発を歓迎しており、これからの研究に期待しているといったところのようである。
私自身も、もちろん研究が進み、効果的なワクチンが開発され、新規にHIVに感染する人を減らせるのであれば、それはとても喜ばしいことだと思っている。
が、しかし同時に、HIVに対して効果的なワクチンが開発されることに若干の不安を感じなくもない。
というのも、HIVというウイルスが恐れるものでなくなったとき、私たちがSTIに対して鈍感になってしまうのではないかと思うのである。

現在はHIVの知識がある程度普及し(あくまでもある程度!) 、決して十分とはいえないながら予防策の知識・実践が広がっているのではないだろうか (あくまでもある程度だが!) 。
ところが、仮にHIV感染を抑えるワクチンが開発されたとなれば、今まで築き上げられてきたセイフティーなセックスの実践が崩れ去るのではないだろうか。
あるいは、社会レベルでも個人レベルでも、STIに対する敏感さが薄れてしまうのではないか、そう私は思うのである。
当然ながらHIV感染症はわれわれの社会にとって大きな脅威となっているが、いわゆるSTIと呼ばれる感染症はHIV感染症だけではないし、健康を大いに害しうる感染症は他にも多数ある。
HIVの悪夢から開放されたとき、それと同時に私たちはSTIからも解放された気分になってしまうのではないだろうか。
STIに対する敏感さを失い無防備になったとき、私たちはまた新たに何らかの感染症の脅威に出会い、性懲りもなくまたうろたえることになることになるのではないだろうか。

あるいは、現在のようにHIVに対するスティグマが根強く残った社会的認知のされ方の中で、同時にHIV感染症が過去の病気になったとき、すでに感染した患者は、変わることのない社会からの厳しい視線を受けながらこれから残りの人生を送ることになるのだろうか。
今はHIVに対する関心が高く、予防啓発・治療と並びアンチ・スティグマのメッセージが社会に発信されているが、それでも社会はHIVと生きていくことを容易に許してはくれていないだろう。
それが、HIVが社会の脅威でなくなると、そんなメッセージも発信されなくなり、一方でスティグマは残ったまま強まりこそすれ、弱まることはないのではないだろうか。
そう考えると、HIVとまだ折り合いをつけられていないままワクチンが開発されると、すでにHIVを抱えながら暮らしている人たちにとっては、なんとも暮らしにくい世の中になるのではないだろうか。

折しも先週1週間、ケニアでは全国一斉に麻しん(はしか)の予防接種キャンペーンが展開され、街頭やヘルスセンターでは予防接種を受けるべく子供を連れたお母さんが列を作っていた。
それを見て思い出すのが、日本の麻しんの予防接種率の低さと、麻しん輸出国の汚名をいただいているという現状。
もう数年前の話になるが、首都圏を中心に麻しんが流行し、多くの大学などが休校措置を取ったのを皆さんは覚えていらっしゃるだろうか。
かつての日本は、戦後の動乱期を経験しながらも、保健衛生分野には国民から高い意識が集まり、保健衛生環境の改善に成功したはずであった。
麻しんについても、今よりも断然認知度は高かったであろうし、それだけ予防接種に対する関心は高かったであろう。
しかし、予防接種が普及し身近に麻しんを見かけなくなったことで、逆に麻しんへの関心は下がり、関心の低下が接種率の低下を招き、そんな隙を突いて麻しんの流行がいまだに抑えられずにいるのが現状であろう。
それを考えると、HIVのワクチンが開発されたとしても、結局は同じようなことが起きるのではないのかと、ついつい悲観的になってしまう。
そして、それは麻しんやHIVに限ったことではなく、健康問題全般に対して言えることなのではないだろうか。
最近はメタボが日本で叫ばれているようだが(叫ばれていた?) 、そのうちメタボをうまいこと回避する薬などができるのだろう。
そんなことを繰り返すうちに、だんだんと私たちはカラダや病気に対する敏感さを失っていくのではないだろうか。
だらだらと同じような内容の話を繰り返したが、まとめとしてはそんなところである。


その3、一夫多妻制
新聞に、一夫多妻制を法的に認めるかどうかの法案が議論されている(もう承認されたのかな?) という記事が載っているらいく、オフィスで話題になる。
記事自体を直接読んでないので詳細はよく分からないのだが、一夫多妻制のほかにも男性に有利な内容の法案のよう。
以前から一夫多妻制の必要性を主張しているケンは嬉しそうに持論を展開する。
曰く、ケニアは男性の人口よりも女性の人口のほうが何倍も多い。
だから、バランスを取るために一夫多妻制を認めるべきだと。
んな訳ないだろと私は思うが。
オフィスの女性陣はもちろん一夫多妻制には文句を言っている。

だが、彼らの中にも賛否両論あるようだが、話を聞いていると、概してある程度の男女の役割の差を前提に議論しているような気もする。
男性優位な今の社会を前提にしているというか。
そして、男性陣があまりにも女性差別と捉えられかねないようなことも平気で口にするのには驚かされる。
仮に日本でそんなことを言ったら、男女問わず周りから白い目で見られるのではないかと思われることも、彼らは女性陣を前に気にせず喋る。

日本とて男女が平等に社会に関われる国だとは思わないが、ケニアの男女の地位のギャップの大きさはよく感じさせられる。
欧米的な価値観が絶対だとは思わないが、時に男女の扱われ方の違いにアンフェアだと感じることもある。
そんな状況がHIVの拡大とも無関係ではないと思われるし、彼らが納得できる形でだんだんと状況が変わっていくことを願ってしまう。



(写真はヘルスセンターの敷地で行われている麻しんの予防接種の風景)