2009年10月22日木曜日

最近のひとり言

最近のひとり言

その1、ケンが帰ってこない
ケンがなかなか帰ってこない。


その2、ハクナ・カジ
日本でもそれなりに認知度が高いと思われるスワヒリ語の言葉に「ハクナ・マタタ」があると思います(スワヒリ語であると認知されている訳ではないようですが)。
ディズニーのアニメ映画、ライオンキングの影響が大きいのでしょうか。
英語で表現すると「ノー・プロブレム」、「問題ないよ」の意味になります。
「ハクナ」が「○○がない」の意味で、○○の部分に単語を入れていろいろと活用できます。

たとえば、「ハクナ・マチチ」は、「マチチ」がおっぱいの意味なので・・・、といったように使います。

カジャドゥを表す言葉としては「ハクナ・マジ」がいいでしょうか。
「マジ」は「水」なので、「水がない」という意味になります。
ただ、例年雨の降ることのないこの時期ですが、今年はエルニーニョの影響で最近何度か雨が降っています。
大雨が降っても道が冠水しないよう道の横に側溝を掘り、まだ続くであろうエルニーニョの大雨にカジャドゥの町は備えています。

ケニアの問題を現す言葉のひとつとして、「ハクナ・カジ」があると思います。
「カジ」は仕事の意味なので、「仕事がない」の意味になります。
実際、1人でカジャドゥの町を歩いていると、「仕事を紹介して欲しい」とか、「日本にいい仕事はないのか」とよく声を掛けられます。
最近も、ある知人からそんなことを尋ねられました。
今失業中なのだが、ADEOや他の団体に求職中のポストはないか、と。
ただ彼が今までの人と違っていたのは、何週間か前に彼をAPHIAⅡの職員として見ていたことでした。
VCT(HIVのVoluntary counseling and Testing)のカウンセラーの活動を評価するため、彼はリフトバレー州の本部から派遣されていたのですが、たまたま私がVCTを受けた後だったので、VCTの様子はどうだったかとインタビューがあったのでした。
またその後、彼が他の職員に渡す書類があるからと、オフィスに私しかいないときに彼と待ち合わせをし、彼からその書類を預かったこともありました。
インタビューのときの彼の紳士的な対応は印象に残っていましたし、オフィスで待ち合わせをした際、彼が遅刻することなく現れたのにはかなり驚かされたことは忘れてはいませんでした。
そんな彼も臨時の職員だったため、今は失業中とのこと。
大学を出ても「ハクナ・カジ」なことも珍しくないケニア。
難しい問題です。


その3、体調不良再び
火曜日、先週と同じ症状の体調不良にまた襲われました。
今回は昼間から調子が悪かったので、近くの診療所に連れて行ってもらいました。
今は元気です。
今回はお医者さんが出してくれた薬を飲んでいます。

ケンが以前に買ってきてくれた薬、200シリング。
何の薬かよく分からない薬を飲む不安、プライスレス。

今回の診察代と薬代、900シリング。
処方された薬を飲む安心感、プライスレス。

ちなみに、ここでは薬はばら売りにされています。


その4、英語
ケンの3歳だか4歳の娘さんが、最近保育園に行きだしているそうです。
何と驚くべきことに、そこで英語を習い始めているそうです。
先週末にケンの家に泊まったとき、その英語を披露してもらいました。
「Monday, Wednesday, Friday」とか、「Twenty, Thirty, Eighty」など、まだめちゃくちゃではあるのですが、きれいな英語の発音。
彼女の母親の、ケニア訛の英語よりも英語らしい発音だったのが印象的でした。

道端を歩いていると小さな子供から「How are you!?」とよく声を掛けられます。
まだ学校に通っていない彼らは、英語あまりを知らないなりに、知っている英語を「使う術」を持っているのだと、よく感じさせられます。
日本人の偏った英語の能力とは対照的ですね。

先日、日本の大学で教鞭を取っている兄弟がいるというおじさん(以前のブログ参照)と、カジャドゥの食堂で一緒にビールを飲みました。
食堂のテレビでは、キバキ大統領が英語で演説している様子が流れていました。
ケニア訛の英語で、原稿に目を落としたままゆっくりと演説する大統領。
そんな時、その男性は、「日本人は自分たちの文化に誇りを持っているから日本語しか使わないと聞いている」、「ケニアは共通の言語であるスワヒリ語を持っているのに、公の場では英語しか使わないのは残念だ」と語ってくれました。
その言葉を後押しするかのように、演説の締めくくりを大統領はスワヒリ語で行ったのですが、彼はスワヒリ語を話し始めたとたんに原稿から目を離し、活き活きと語りはじめるのです。
さらに、それにつられるかのように、今までテレビを見ていなかった食堂の人たちも、テレビに釘付けになるのです。
ケニアにおける英語の捉えられ方を現す、印象的な場面だったように思います。

国際コミュニケーション・ツールとしての英語。
今の日本の形がベストだとは思いませんが、どんな形での英語の受け入れ方が日本には求められているのでしょうか。