2009年11月30日月曜日

ムソマ村





25日、ブシアの中心から25キロほど離れたムソマという村に行く。
昨年、この村の孤児のため、日本のとある映像作成会社がまとまった金額を寄付してくださり、そのお金で孤児向けの家を万棟か建設したのだった。
ADEOが継続して行っている業務ではなかったが、ADEOが寄付のやり取りの仲介をした関係で、今回はその様子を視察するべくその村に行ったのだった。

当初、孤児院(Orphanage)という言葉を聞いていたので、両親をなくした子供たちが一緒に暮らしている場所を想像していたが、実際は孤児院というよりも、形態としては周辺の孤児と未亡人の家庭が組織立って自助グループを運営しているというものだった。
孤児院に子供たちが一緒に暮らしているのではなく、片親(その多くは未亡人)と共に、一見他の家庭と同じように村の中で暮らしているのだった。
(なので、「Orphanage」の支援という言葉は、「孤児院」の支援の意ではなく、「孤児の身・状態」への支援というということだった)
その自助グループに参加しているHIV孤児・未亡人の家庭に対して文房具や食料の配布が行われたほか、いくつかの家庭に対しては家の建設が行われたのだ。
(余談だが、HIVなどの理由で親を亡くしても、極力孤児院のような施設への入所は行わず、親戚の家で引き取るなど、子供が継続してコミュニティーで暮らしていけるように配慮されているという)

マルセラに連れられて向かったそのムソマ村は、なんとも牧歌的なところだった。
トウモロコシ畑が広がり、所々にバナナの木が生え、ヤギは草を食み、豚は気だるそうに寝転がっている。
イメージとしては、トトロの世界のような場所と表現したらいいだろうか(バナナの木など植生は若干違っているが)。
そんな穏やかな村の様子と、HIV/AIDSや孤児・未亡人という言葉はなんともしっくりこない組み合わせであった。
まず、グループのリーダーをしている女性のところへお邪魔し、次いで年少の孤児たちが通っている幼稚園に行く。
その後、寄付によって立てられた家を回っていくことになった。
建てられた家は7戸なのだそうだが、2戸は車がないと遠くて歩いてはいけないと言われ、うち5軒を回ることに。
一軒一軒そんなに離れていないだろうと思っていたのだが、頭上から照りつける太陽は厳しく、家から家へと移動するのには予想以上に体力を消耗する。
7軒全部歩いて回りたいなどと言わなくてよかったと途中で気づく。

寄付によって建てられた家は、木で枠を作ったうえに土を塗り固めた壁に、トタンの屋根といった、とてもシンプルなもの。
室内から天井を見上げると、梁や桁、トタンの屋根がそのまま見え、日本の現在の家屋と比較するとかなり心細いように感じられる。
しかし、それでも周辺の家と比べるととても立派なものだった。
新しく建てられた家の横に古い家が隣接していたりするのだが、そんな古い家の多くは土壁に茅葺きの屋根と作り。
そういった伝統的な方法で立てられた家屋は、力の関係でそういう形にせざるを得ないのか分からないが、多くは丸い形をしており、大きさもあまり大きくはなかった。
なので、比較的大きく、四角形で、そして太陽の光を浴びてキラキラと光る屋根を持つ新しく建てられた家は、遠くからでも古い家屋と違いがよく分かった。

一軒、床から何かの植物の芽が出てきている家があった。
壁にしても床にしても、コンクリートで作った方がベストなのだろうが、それでは費用がかかり多くの家を建てられなくなるので、土塗りにすることにしたという。
そんなちょっとした問題はあるようだったが、どこの家庭でも新しく建てられた家は好評だったのではないかと思う。
逆に、あまりにもいい家を手に入れたことを、ご近所さんからうらやましがられているようでもあった。
実際、私たちが家々を回っている間、グループのメンバーの一人、HIVでご主人を亡くした家庭のおばちゃんから、どうして私の家は新しくしてもらえないのか、次は私の家を新しくしてくれと言われたりもした。
私のことを、昨年この村に来たというその会社のメンバーだと最初は勘違いしていたようで、それでそんなことを言ってきたということもあるのだろう。
しかし、私がその会社のメンバーではないと説明しても、次回はよろしくと強く言ってくる。
この自助グループが関わっている孤児は約200人ほどだが、今回の家屋建設の恩恵を受けられたのは7家庭30人ほど。
決して全ての孤児はカバーできてはおらず、家庭の状態によって家屋建設の優先順位を決めてはいるものの、結果として全員が納得できるように落ち着いているようではなかった。

一回の寄付でできることには限界があるし、子供たちの就学状況や栄養状態、居住環境を全体的に、平等に改善するにはまだまだ道のりは遠いようにも感じられた。
だが、彼らのように、自助グループという形で、外からの力添えを得ながらも、可能な限り自らの力で自身の置かれた環境を改善していこうという試みが継続され、成功を収められたらと思われるばかりである。
かなり無理やりな締めくくり方になってしまったが、有意義な一日であった。

2009年11月23日月曜日

ブシア・デビュー

先週の火曜日にブシアに到着してから、1週間が経とうとしています。
今回はブシアの町の様子などを中心に話をさせてもらいます。

先週、午前7時ナイロビ出発、午後4時ブシア着のバスに乗ってブシアに来たのですが、窓から見える景色はナイロビからカジャドゥに向かうときのそれと違い、緑豊かで興味の尽きないものでした。
朝が早かったので最初の数時間はうとうとしていたのですが、それから目を覚まし外を見ると、丘一面に広がるトウモロコシ畑。
ケニアの主食、ウガリの材料であるトウモロコシの粉になるのでしょうか。
12時ごろに通過したケリチョという町の周辺は、トウモロコシに代わりお茶畑が広がっていました。
砂糖のたっぷり入ったミルクティーはケニアのどこの食堂でも見ることができ、また、茶葉はケニアの主要輸出産品でもあるので、ケニア国内でかなりの量の茶葉が生産されているのでしょう。
それからしばらくすると、今度はサトウキビ畑。
この日の朝、バスの待合室で見たテレビで、砂糖産業の汚職事件のニュースがあったのをふと思い出します。
さらに西に向かって進んでいくと、段々と畑の規模が小さくなっているように感じます。
畑と共に面白かったのは、牛やヤギの様子。
カジャドゥ周辺ではマサイ族がやせたヤギや牛を連れ、草を求め移動しながら放牧している様子をよく見かけるのですが、ここでは柵の中で放牧されていたり縄でつながれていたりします。
マサイの土地で家畜をそんなふうに飼ったら、草が食べられずに家畜はすぐに飢えてしまいそうですね。
それなのに、こちらの家畜の方がふっくらしているようにも思います。

さて、途中の小さな村々で途中下車のお客さんを降ろしながら、予定通り4時ごろにブシア着。
予想していた通り、バス停まで迎えに来てくれるはずのブシアのスタッフの姿は見当たりません。
これがケニアに来て間もない頃だったら、バス停で一人で人を待つのはかなり心細かったでしょうが、今はそんなこともなく町の様子をのんびりと眺める余裕ができていることに気づきます。
しばらくそこで待っていると、後ろから私の髪の毛をくしゃっとする手が伸びてくるのです。
驚いて後ろを振り向くと、いたずらっぽく、満面の笑みをたたえた長身の女性が立っており、「あなたがオサムでしょ」と声をかけてきます。
今までのカジャドゥでの3ヶ月がなかったらびっくりしていたでしょうが、私も負けじと笑顔を返します。
そう、彼女がこれからブシアで一緒になるMarcellaでした。
そんな茶目な彼女との出会いからブシアでの生活はスタートしました。

乾燥したサバナ気候のカジャドゥ周辺と、国内でも降雨量の多いケニア西部の町ブシアとでは、同じ国の中にありながら植生はかなり趣を異にしています。
ボケーっとしていたら人間も動物も死んでしまいそうな乾燥した土地と、緑豊かでたわわに実を付けるバナナの木を見かける土地とでは、人間の価値観も変わってくるのかなとは思いますが、私の貧しい観察眼では人々の様子からそこまでの違いを読み取ることはできずにいます。
ただ、同じ田舎の町ながら、カジャドゥとブシアでは町の様子がかなり違っているのはよく分かります。
いろいろと違いはあるのですが、一番に気づくのは、ブシアでは自転車がとても多いということでしょうか。
個人用の自転車もあるようですが、道を行きかう自転車の多くは、ボダボダと呼ばれる、タクシー代わりの自転車なのです。
カジャドゥで自転車に乗っているのは、水をお客さんのところへ届ける売り子さんで、タクシー代わりの自転車は全くなかったので、たくさんのボダボダが道を走り抜ける様子は私にとっては新鮮でした。
また、カジャドゥにもタクシー代わりにバイクはあったのですが、マタツ乗り場と夜の飲み屋周辺で見かけるくらいであまり一般的な乗り物のようではなかったのですが、ここでは広く庶民の足になっているようです。
国境の町ブシアでは、国境付近がにぎわっており、そこから同心円状に町が広がるのではなく、国境を貫く道沿いに商店などが並んでおり、町が細長く引き伸ばされたように広がっているのです。
そのため、庶民の生活の場と仕事場や町の中心が少し離れており、こうやってボダボダが庶民の足となっているのでしょうか。

また、町周辺の様子もカジャドゥとは異なっており、その点も新鮮でした。
行政区分としてはWestern Provinceの中、Busia District、Busia Townという階層になっているのですが、Busia District内のいくつかの村でプロジェクトがある関係で、それらの中のいくつかの村にも先週末行ってきました。
村と村との距離はかなりあるのかなと思っていたのですが、マタツで10分ほどで隣の村にいけるのです。
また、村と村の間も、人の住まないような森や草原が広がっているわけではなく、畑が広がっていたりするので、その間も連続した人の活動範囲になっているようです。
隣の街まで何十㎞もあり、その間は基本的にサバンナの草原が広がっているというカジャドゥ周辺とはかなり様子が違うようです。

他にもカジャドゥとの違いを感じる点はありますが、上の2点が今までに私の感じた最も大きな違いでしょうか。
個人的な生活環境もケンとの共同生活からホテルでの一人暮らしになり、そこも大きな違いなので、これから報告できたらと思います。

2009年11月16日月曜日

カジャドゥ

先週金曜日が、カジャドゥで過ごす最後の日となった。
もともと次の研修地であるブシアに移るのは土曜日の予定になっていたし、予定がよく変更になるここケニア、予定通りに異動になるとは思っていなかった。
というのも、ブシアへの異動の詳細について水曜日にナイロビのオフィスに確認しようとしても、忙しいから後で連絡するとの回答。
その後しばらく連絡がなく、ケンからは、カジャドゥを発つのは来週に延期になるのではないか、などと言われていたのだった。
金曜日の朝も、恐らく出発は延期になるだろうと思いながら家を出たのだった。
それが、オフィスに着いてしばらくしたころ、これから数日の予定が決まり、この日カジャドゥを発ち、翌週火曜日にブシアに向け出発、その間ナイロビに滞在することになったのだ。
私の出発が決まったので、ケンが急いで食堂で料理を予約し、APHIA IIのメンバーでお別れパーティー的な昼食会を急遽開いてくれ、食後、家に帰って荷物をまとめ、その後すぐにナイロビに移動という、かなりあわただしい一日を過ごすことになった。

この1週間全体を通しても、あわただしく時間の過ぎていった週だったと思う。
いくつかのイベント、そしてAPHIA IIとは別の新規プロジェクトの企画書をこの週のうちに仕上げなければならず、ケンはそれに忙殺されていたし、私はそんなケンの手伝いや、APHIA IIの他の団体のスタッフの仕事の手伝いをするのに精一杯だった。
残された時間の中、私がカジャドゥにいる間に日常の仕事をこなす以外にもできたらと思っていたこともあったが、言い訳になってしまうが、そんなことは忙しさの中でケンに取り合ってもらえることもなく終わってしまった。
残念な気もするが、ケンに期待されていた仕事をこなしたのだから、それはそれでよかったのかもしれない。

カジャドゥでの3ヶ月を、今の時点でどう評価したらいいのか、どんな感想や反省を述べたらいいのかよく分からない。
これから先、誰かに「ケニアのそのカジャドゥというところで、3ヶ月間何をしていたのですか?」と質問されたら、何と答えたらいいのかもよく分からない。

この3ヶ月、長かったようにも思うし、一瞬だったようにも思う。
楽しい時間であった気もするし、しんどいことも多かった気もする。
視界に入る人たちが全て黒人という状況にめまいを覚えることがあった一方、親しくなった人たちが「黒人・アフリカ人」や「ケニア人」ではなく「デイビッド」や「ルース」というかけがえのない一人ひとりの存在になっているのにも不思議な感覚を覚えたことがある。
私の買ったラジオでスワヒリ語のプログラムを聞いていることに文句を言いたくなったこともあった一方、私に関係のないちょっとした会話にも英語を使ってくれるAPHIA IIのあるスタッフの優しさに涙が出そうになったこともある。
そんなケニアでの経験と、医学生としても人間としても学ぶことの多いであろう大学5年目とが、どちらが密度の濃いものであったのかもよく分からない。
カジャドゥでの私の存在が、大きな視点に立って見たときにプラスに働いたのかマイナスに働いたのかもよく分からない。
確かなのはこれから3ヶ月弱、場所は変わるが研修が残されているということ(そして、その後には日本での大学生活が待っている)ことくらいだろうか。

ケニアでの研修、後半編が始まります。

写真あれこれ


20091115写真あれこれ

この写真は、朝、集合住宅にいるときにケンが撮ってくれたもの。
ケンは自分のカメラでこの写真を取ったのだが、考えてみると、私自身は、自分のカメラで子供たちと私とが一緒に写っている写真を、この集合住宅で一度も撮っていないのである。
この写真をケンが撮っていたときには予想していなかったのだが、この日をもってカジャドゥを離れることになったので、この写真が、集合住宅で私と子供が写っている、最初で最後の写真となってしまった。

いまさらこんなことを言ってもしょうがないが、撮ろうと思ったまま撮らずじまいになってしまったものがいくつかある。
そのひとつが、いかにもマサイ族、といった伝統的な格好をしたマサイ族の人の写真。
ビーズで作った首飾りをつけ、耳が引きちぎれんばかりの耳飾りをぶら下げた彼らの写真。
彼らはあまり写真を撮られるのを好まず、観光地などでは写真を撮る際にはお金を払うのが通例となっている。
カジャドゥにも、そのままポストカードになりそうな格好をした人も多く、撮れないことはなかったのだが、チャンスもなく3ヶ月が経ってしまったのである。
仲のよいPEの親戚が伝統的なマサイの格好をしており、彼女の写真を撮ろうとしたときは、ウイルスのせいでカメラのメモリーカードが作動しなかったし、同じ集合住宅内にも、1人マサイ族の衣装のおばちゃんがいて、彼女とも親しくなっていたので、頼めば問題なく写真が取れただろうが、あまりにも急にカジャドゥを離れることになったので、頼む余裕がなかったのである。
うーん、残念。

さて、話をケンが撮ってくれた写真に戻そう。
以前にブログに添付した、赤いパーカーを着た子と、この写真に写っている2人の子供が、集合住宅内でも私のお気に入りであった。
彼らに共通しているのは、まだ小さいために学校に行っておらず、英語が喋れないということだった。
英語でコミュニケーションが取れないのに、年長の子供たちよりも彼らと仲がよかったのは、ひとつは、学校がないために彼らと庭で出会う機会が多かったということがあるだろう。
ただ、理由はそれだけではないとも思う。
英語が喋れる年長の子供たちは、英語と共に若干のあつかましさも身に付けており、時にため息を付きたくなるようなこともあったのに対し、年少の子供たちはそれがなかったのだ。
年長の子供たちは、「折り紙を作って!」とか「お菓子を買って!」と私に声を掛けてくるのだが、折り紙やお菓子を持っていない私には特に興味がないようであった。
一方、この子供たちは、私を見つけると全速力で近くに寄ってきて、笑顔を振りまいてくれるのである。
私が「Hello!」とか「How are you!?」と声を掛けるだけで喜んでくれ、高い高いするだけで喜んでくれるのである。
私の心の器が小さいといえばそれだけだが、でも私はそんな年少の子供たちが大好きであった。

年長の子供たちが折り紙などを先に持っていってしまうので、年少の子供たちには高い高いくらいしかしてあげられなかったが、それでも年少の子供たちとの方が仲がよかったというのは、皮肉な結果でもあるような気がする。

そして、ものをあげるという行為は、とても難しい行為のように思われる。

今週末はケンのナイロビの家に泊まっているのだが、ケンの9歳の息子マークから、「オサムはいい人だよね。だってお菓子を買ってくれるんだもん」と言われたときは、苦笑いするしかなかった。
あるいは、以前、中国政府がケニア国内の道路建設を大規模に支援していることについてケンと話をしているとき、ケンは「中国はいい国だ。道路を作るためにお金をくれるのだから」と言い、「道路建設によってケニアの交通事情が改善され、経済が発展するのは重要なことだと思う。ただ、外国が支援をする場合、ケニア人のエンパワメントにつながるものである必用があるんじゃないの」という私の主張は、彼には届いていなかったのを覚えている。
また、町中で「Hi, my friend!」と親しげに声を掛けてくるものの、最終的にソーダやビールをおごってくれ、と言ってくる大人たち。
私自身、初対面の人からビールをおごられたことは、一度ならずともあるので、友人におごり、おごられるという関係は決して否定すべきものではないだろう。
ただ、友人同士だからおごるという関係ではなく、外人だからおごるという構図になるのはどうしてもいい気分にはなれなかった。

ものをあげるという行為をどう捉えたらいいのかということは、ずっと私の心を煩わせてきた問題であったが、この小さな子供たちはいつも心のモヤモヤをリセットしてくれるのだった。
そんなこの子供たちとのこの写真は、私の一番のお気に入りの写真である。

2009年11月9日月曜日

折り紙



ケニアへ向け出発する前、ケニアへのお土産として、海外での単身赴任経験のある父親から勧められたものが、折り紙の作り方を書いた紙のコピーだった。
実際、折り紙はケニアに来てから、特に近所の子供たちから好評で、この10年間にはないほど、子供たちのためにたくさんの折り紙を作ったと思う。私の数少ないレパートリーの中で、鶴や手裏剣、花などを作ったのだが、子供たちから作ってくれと一番よく言われたのは、平行四辺形のパーツを組み合わせて作る立方体やテトラパックのような箱だった。カジャドゥに来た当初は日本から持ってきた折り紙用の紙で、途中からはその紙では間に合わなくなってきたので、新聞紙で折り紙を作っていた。子供たちにとっての「Products of Japan」になるのだと思うと手抜きもできず、できるだけ丁寧に作っていた。
あまりにもよく子供たちから折り紙を作ってくれと言われ、その要求に応えるのも大変だったし、私がいなくなった後にも自分たちで作れたら楽しいだろうと思い、少し前、子供たちに折り紙の折り方を教えようとしていた時期があった。まだ小さい子供たちが多かったし、ケニア人ならではの雑さで、ほとんどの子供たちは完成にたどり着く前に嫌になり、私に丸投げすることも多かった。ただ、その中でも年長の女の子は比較的器用で、私が一緒に折りながら教えたら、それに従って同じように折ることができるまでになっていた。折り方自体は覚えていないが、折り方さえ分かれば一人で折れる段階、と言ったらいいのだろうか。彼女なら、折り方を書いた紙があればこれから1人でも作れるようになるかなと思われた。そこで、立方体の折り方を書いた紙はあいにく持っていなかったので、立方体の折り方の紙を私が自分で作り、彼女にプレゼントしたのだった。
一人に何かものをあげると、必ず他の子供たちから自分にも頂戴と言われるのがいつものパターン。彼女1人だけにその折り方の紙をあげたら、他の子供たちからもねだられるかな、同じものを再度書くのは大変だから、コピーでも取ったらいいかな。そんなことを思いながら、彼女にその紙をあげたのだった。が、私の予想に反し、彼女にその紙をあげたその日、他の子供たちから同じような作り方の紙をくれと言われることはなかった。
さて、私を驚かせたのはその翌日、朝起きて家の外に出たときだった。私や子供たちの住んでいる集合住宅の庭、そこに私が昨日彼女にあげた折り方の紙が転がっているではないか。いらないものは家の外に捨てるここケニア、私の作った折り方の紙もいらないものとして捨てられたのだろうかと考える。いや、きっと彼女が気づかないうちに風に飛ばされてしまったのだろうと、前向きに考えることにする。そして、その紙を拾い、子供たちにも見えるように、窓の内側に置いておくことにする。しかしである、子供たちはその紙の存在に気づいているはずなのに、最初に私がその紙をあげた彼女は何もなかったようであるし、他の子供たちも全くもって関心がないよう。
結局、その紙は誰からもねだられることもなく、何週間か窓際に飾られたまま。そして、子供たちは相変わらず「折り紙はないの?」と聞きに来、そして「作り置きの折り紙はない」と私が答えると、「じゃあ作っておいてよ!」と言ったきり、どこかへ行ってしまう。
この一件は私を落胆させるものだった。悲観的になることはないのだろう。ただ何か、この一件は、今週をもって終わろうとしている、私のカジャドゥでの3ヶ月を象徴する出来事であったような気もする。

ウガリ
この前、初めてケンの前で私がウガリを作る。
(ウガリというのは、トウモロコシの粉をお湯で練ったもので、東アフリカの主食。)

「自分が横で見ながらウガリの作り方を教えてあげよう」とケンが言ったのはかなり前の話。
それからケンだけがナイロビに行っていたり、先週は仕事が忙しかったりで、ケンと一緒にゆっくりとウガリを作る機会がなかったのである。
もちろんその間にも、1人のときにケンの指導なしで私1人で作ってはいたのだが、やっぱりケンが作るウガリよりもおいしいものはできずにいた。
それが、今回やっとケンの前でウガリを作ることができたのだ。
ケンのウガリには及ばないが、それでも今まで私が作ってきたものよりはおいしいものができ、二人とも満足。


卵焼き
翌日、初めてケンのために卵焼きを作る。
「いつか卵焼き(ジャパニーズ・オムレツ)を作ってやる」と私はかなり前からケンに言っていたのだが、ケンのウガリと一緒で、ずっと作れずにいたのだ。

テフロン加工のフライパンや鉄のフライパンに比べ、卵のくっつきやすいケニアのアルミのフライパン。
油をかなり使いながらも、何とか楕円形の卵焼きが完成。
食べ物の評価など、遠慮なくストレートに表現するケンなので、一体どんな感想が返ってくるかどきどきしていたのだが、ケンは私の作った卵焼きをとても気に入ってくれる。
「醤油はいくらくらいで買えるのか?」という質問をしてくれたのもうれしかった。

2009年11月4日水曜日

最後のミーティング

まず報告。
現在研修を行っているカジャドゥから次の研修地であるブシアに移動する日程ですが、今月14日(土)になりました。
カジャドゥでの研修は、残り2週間弱となりました。

先週、県内の4つのプロジェクト地でマンスリー・ミーティングがあったのですが、それらのミーティングが、私が参加できるピア・エデュケーターたちとの最後のマンスリー・ミーティングとなりました。

相変わらず疑問を覚える点も多いミーティング。
何か改善できないかとも思いましたが、私が少しあがいたところで何も変わらないまま3ヶ月が過ぎようとしています。
自分のマネジメント能力や行動力のなさを感じつつ参加するこのミーティング。
私が来る前も、そして私がカジャドゥを離れた後も、同じような光景が繰り返されるのでしょう。
ケン、ミーティングのためにナイロビから来ているケンの上司、ピア・エデュケーターたち。
そんな彼らの姿を見ていると、私がここカジャドゥにいる間に残せたものは何だったのだろうかと考えずにはいられなくなります。

昨日・今日と、ミーティングで集めたピア・エデュケーターたちの活動報告書をもとに、APHIAⅡの本部へ提出する月例報告書を作成しています。
そうやって机に向かい黙々と単純作業をこなすこと。
私がここにいる間になしえたことと言ったら、それぐらいなのではないかと思われてなりません。

また月の満ち欠けが一周し、最近曇りがちなカジャドゥの夜空に満月が輝いています。