2009年9月19日土曜日

ポエトリーと新宿二丁目

今回は、少し前のこと、8月上旬にナイロビに滞在していたとき、キムに連れられて一度足を運んだポエトリーについて、そして、その関連で日本にいたときのことを投稿させてもらいます。
書きかけまま放置していた日記や曖昧になりつつある記憶を元に、最近改めて後半部分を書き加えたものです。
つぎはぎしながら書いた文章なので読みにくい部分もあるかと思いますが、よろしくお付き合いください。


ナイロビにいた頃に行ったポエトリーから話を始めさせてもらいます。
ポエトリーとは詩の朗読会のようなもので、数分間の持ち時間の中で出演者が好きな話題の詩を順番に披露していくというものでした。
事前に応募した人たちが出演できるそうなのですが、プロフェッショナルの人からアマチュアまでが参加できるそうです。
好きな話題と書きましたが、その多くは恋愛のようでした。
ただ、恋愛に限らず、自分のアイデンティティーや友人、家族、あるいは社会問題についてなど、どんな内容でもいいそうです。
まったりしたものをイメージしていたのですが、ある人はやさしいトーンで語り、ある人はラップのようにテンポよく力強く詠いあげ、ある人はバラードのように歌うなど、表現の仕方も様々でした。

正直なところ、速いテンポの朗読であったり、スワヒリでの朗読であったりで、内容をほとんどつかめないようなものも少なくはありませんでした。
ただ、そのムードは十分楽しめましたし、自分の心を打ち明け合うというイベントはとても新鮮でした。
映画館で開催されており入場無料だったのですが、日本ではなかなかないのではないでしょうか。

参加者の1人はプロの方だったのですが、その人はポエトリーよりも気軽に参加しやすい形にしたワークショップを開催している団体の方でした。
今回のポエトリーのように映画館のスクリーンの前に立ち大勢を前にして詩を披露するのではなく、少人数のグループでディスカッション形式で行うのだそうです。
そのワークショップでは、恋愛から始まり社会的な問題まで、例えばセックスやセクシュアリティーについてのディスカッションもしているそうで、コミュニケーションスキルを磨く有効なツールであるとイベント後に語ってくれました。

私がこれから関わることになるHIV/AIDSの予防啓発活動を展開していく際にも、このポエトリーという手法は、何らかの形で活用できるのではないだろうか、などと考えたりもしました。


ところで、ナイロビでポエトリーを見に行ってふと思い出したのが、日本で一度だけに見に行ったことのあるポエトリーのようなもの。
詩の朗読会、と言ったほうがいいかもしれません。
会場は新宿2丁目のディスコ、ケニアに向けて発つちょうど1ヶ月ほど前のことでした。

新宿2丁目と聞いてピンと来た方も多いかと思いますが、新宿2丁目はゲイの町として知られています。


ところで、なぜ私が新宿2丁目で開催されるポエトリー・朗読会に行ったか説明させてもらったほうがいいでしょうね。

HIV/AIDSと聞いて、皆さんは何を想像されるでしょうか。
怖い病気というイメージを持っている方も多いかと思うのですが、同時に、アフリカの病気、自分には関係のない病気と考えているか方も多いのではないでしょうか。
しかし、実際には日本でも新規感染者数は増加しており(ちなみに先進国の中で新規感染者数が増加しているのは日本だけなのですが)、幅広い年齢層にじわりじわりと感染が広がっているのが現状です。
適切な予防法を用いずにセックスをすれば感染しうる病気であるため、いわば誰しもが感染する可能性のある病気といってもいいでしょう。
ただ、日本の感染者の傾向を見ると、依然に男性間の性行為による感染が少なくないというのも、またひとつの現状でした。

ケニアのNGOでHIV/AIDSに関わろうとしているのに、自分の国の現状・現場を知らずして人様のことをとやかく言うのは違うのではないか。
ケニアに行く前に日本のことももっと知っておかなければならないのではないか。
そのように考え、私の知らない日本の現状の一面が見られるのではないかと期待し足を運んだのが新宿2丁目でした。

また、私の中で、どうしても日本におけるHIV/AIDSの問題と、アフリカにおけるHIV/AIDSの問題の間に接点が見出せずにいました。
おそらく「貧困」がキーワードのひとつとなるアフリカの問題。
一方、日本のHIV/AIDSの感染拡大という問題を考えても、何が問題の根底にあるのかも、拡大の結果どんな問題が生じているのかも、はっきりとしたものを捉えられずにいました。
そして、アフリカのHIV/AIDの問題と日本のHIV/AIDSの問題とが、全く別次元の問題のようにしか思えなかったのです。
それでも、アフリカと日本の間にも、HIV/AIDSを考える際の共通のキーワードがあるのではないだろうかとも思われたのです。
そんな私の知らない「何か」が見つかるのではないかと思い、新宿2丁目へと向かったのでした。


「Living Together」と題された、その詩の朗読会。
東京都のサポートのもと、ディスコで月に一度開催されているらしい。
ネットで簡単に下調べをしたものの、あまり詳細の分からないままであったが、まずは実際に行ってみることに。

手帳にメモした地図を手がかりに、地下鉄の最寄り駅から会場まで向かうのだが、街の雰囲気に戸惑いを感じる。
何かが違う。
手をつなぎ道を行きかうのは、男性カップル。
飲食店の前にアルバイト募集のチラシが張ってあるのだが、チラシの中の写真で微笑んでいるさわやか系のお兄さんは、制服を着ているのではなく、なぜかカラーブリーフ一丁。
壁に貼ってある、マッチョ系お兄さんのイラストのステッカー。
完全に肩に力が入る。
日本にいてこんなに緊張しながら街を歩くのは、初めて横浜の寿町を歩いたとき以来ではないかと思う。

何とか目当てのビルにたどり着き、ディスコのある地下へと階段を下る。
緊張が高まるなか、恐る恐る店のドアを開ける。
薄暗いディスコ。
カラーボールが天井からぶら下がっている。
一瞬、店のスタッフの視線が私に集まる。
ディスコという場所自体あまり縁がないので緊張するが、店のスタッフが全員男性であることが、さらに緊張を誘う。
店内に人影はまばらで、スタッフのお兄さんに詩の朗読会はここでいいのかとたずねると、1時間ぐらいしたら始まるから、それまでゆっくりしてくれとの回答。
が、全然くつろいだ気分になれず。

思う。
道端を歩いているときや電車に乗っているときなど、「あの子かわいいな」とか「乳でかいな」などと、いやらしい目で見知らぬ女の子のことを見ることがあるのだが、それと同じような形で、もしかすると誰かが私のことを見ているのかもしれない!
私のケツが狙われているかも知れない!
勝手な妄想が頭から離れず、ケツに力が入る。
休学してから都内の高校などに性教育の出張授業に行ったりしており、そこでは「いろんな愛の形があっていいと思う。異性間の恋愛だけではなく、同性間の恋愛だってありだと思う」などともっともらしく言っていたが、そんな言葉を撤回したくなる。
完全に偏見のかたまり。

受付のお兄さんに話しかけ、「HIVに興味があってここに来ました」的な自己紹介をする。
そんな会話の後、お兄さんの口から「ところで、ノンケですか?」という質問が出てくる。
「ノンケ? …!?」
ノンケって何だ!?
恐らく「その気がない」という意味なのだろうが、「その気」というのがヘテロのことなのだろうか、はたまたホモのことなのだろうか!?
ここで答えを間違えると、今までとは違った人生をこれから歩むことになるのではないかと若干パニックになる。
結局、ノンケとは異性愛者とのこと。
そんな風に周りの人とぎこちない会話を交わしながら、朗読会が始まるのを今かと待つ。
そして、だんだんと人が増えてくる。

到着してから1時間ほどした頃だろうか、イベントが始まる。
最初に、このイベント、「Living Together」の説明がある。
私たちの暮らしている社会にはHIVが存在している。
そんな社会で、HIVポジティブの人もネガティブの人も生活している。
そんなことを受け入れながら、HIVと、あるいは、ポジティブの人もネガティブの人も一緒に生きていこう。
「Living Together」にはそんなメッセージが込められているのだと説明がある。
はっきりと覚えていないのだが、そんなメッセージだったと思う。

説明の後、詩の朗読会が始まる。
HIVポジティブの人、ゲイの人、周りの人、そんな人たちの詩や手記を集めた詩集があり、そこから気に入った詩を選び、朗読するというもの。
匿名で寄せられたその詩集から朗読する詩を選ぶのだが、自分の書いた詩を選ぶのも他の人の詩を選ぶのも自由。
詩の朗読の後は、朗読をした人のフリートーク。
その詩に対する思いや体験談など、朗読した詩との関係の有無に関わらず、好きなことを語る時間となる。
毎回3人ほどが出演し、それぞれが詩の朗読とフリートークを繰り返す。

1人目はHIVポジティブのゲイ。
自分がゲイであることを受け入れること、ゲイとして生きていくことを選択すること、HIVポジティブであることを受け入れること、HIVポジティブとして生きていくこと。
そのどれもが決して容易いものではないことを、詩の朗読と彼のフリートークで知らされる。
彼なりにそんなことを受け入れた上でこのステージに立っているのだろうが、そんな彼が私と同じ歳であることを知り、さらに強い衝撃を受ける。
ヘテロセクシュアルでHIVネガティブな自分であるが、彼と同じような重荷を背負ったとき、果たして自分の足で歩くことができるのだろうか。
そんなことを考えさせられる。

2人目は二丁目でバーのマスターをしているポッチャリ系のゲイ。
HIVのステータスがどうだったかは、今私は覚えていない。
でも、ここで大切なのはHIVのステータスがどうこうではないのだろう。
記憶があいまいになりつつあるが、フリートークの中で彼は自分の過去をこんな風に説明していたと思う。

もう少し若い頃、STIに気を止めることもなく、かなりハイリスクなセックスを繰り返してきたという彼。
だがあるとき急に病気のことが不安になり、保健所に検査に行くことに。
保健所を前にしたときさらに不安が押し寄せ、足が止まり、その場に泣き崩れたという。
何とか友人の励ましで検査を受けるのだが、結果は予想に反しネガティブ。
そのときハイリスクな行為からは足を洗うことを誓う。
と、ここで話が終わるかと思いきや、どうしたことかまた過去と同じようなセックスをするようになったのだという。
そんなことを何度か繰り返し、最終的にどんなきっかけで危険なセックスから卒業したのかは覚えていないが、今に至るというという。

3人目は、ゲイでもHIVポジティブでもなく、厚生労働省の医系技官。
このイベントを告知するポスターにはネクタイを締めた彼の写真が載っており、ポスターからは新宿2丁目に似つかわしくない空気を漂わせていた。
が、彼のトークはそんな先入観を裏切るものであった。
医者としてではなく、お役人としてではなく、1人の人間として、家族について、命について彼は語った。
初め、フリートークで彼が自分の子供や家族の話を始めたときは、なんてこの場にふさわしくない内容なんだろうと思ったのだが(ゲイである彼らは家族と疎遠になるケースが多いし、男性間では子供は持てないので)、彼は自分の父親と子供の死について語り、それは場違いでもなんでもなく、HIVという言葉もゲイという言葉も出てこないながら、会場をひきつけるものであった。

三者三様の朗読とフリートークであったが、どれも興味深いものばかりであった。
そして、ここで感じた一番の感想は、これは確かにゲイを主な対象にしたイベントではあったが、ここで語られた恋人同士の関係や社会との関係、HIVと生きるということは、特にゲイに限ったものではなく、セクシュアリティーに関係なく敷衍して捉えられることができるのではないのだろうかというものだった。
実際のところ、日本全体で見たら男性間の性行為による感染が多いのだが、個々のケースで見れば、たまたま男性間での感染であったり、たまたま異性間での感染であったりするわけで、その前後に出てくる問題は、決してゲイだから出てきた問題ではないのだと思う。
多少のシチュエーションの違いはあれ、異性間であろうと同性間であろうと、お互いのSTIのステータスが分からない状態で関係を持とうとするのなら、コンドームを使うことがベストなことに変わりはないだろう。
そして、コンドームの使用を含め、カップルの間でのさまざまな課題に対すてコミュニケーションの機会を持つことの重要性というのは、ゲイのカップルだけではなくすべてのカップルに必要なものなのではないだろうか。
あるいは感染後のことを考えても、HIVをどうやって受け入れ、どうやって付き合っていくのか、また、HIVに感染した状態でどうやってパートナーと付き合っていくのかといった問題は、セクシュアリティーによって決定的な違いがあるものではないのではないだろうか。
そんなことをイベントの後に考えていたと思う。


そして、いままでのケニアでの活動を合わせて新宿二丁目でのイベントを考えてみると、さらにスティグマとイグノランスというキーワードが浮かんでくる。

日本とはHIV感染率の桁が違うケニア。
一方で、HIVに対する意識も高く、HIVの検査を受けている人の割合も日本とは桁違いに高いケニア。
そんなケニアであるが、いまだに感染が拡大しているのもまた事実であるし、アウトリーチに出ても、VCT(カウンセリングとテスト)を受けようとしない人に少なからず出会ったのも事実である。
そんな時、ケンやPEたちに、どうしてケニアでは感染がこんなにも広がり、またVCTが本来必要とされているほど十分に普及していないのかと尋ねると、必ず返ってくる言葉がスティグマとイグノランスであった。
正直なところ、この2つの言葉だけで語れるものではないと私自身は思うし、日本との違いの中で、他にもおぼろげながら見えてくるケニアの抱える問題点というものも感じたりする。
それでも彼らが言うように、スティグマとイグノランスの影響は大きいのだろう。
そして、今思うと、それは日本もまた然りなのだろう。

奔放で無防備なセックスを繰り返し、あるとき急に病気のことが不安になり、保健所に検査に行くも保健所を前にしたとき、あまりの不安から泣き崩れたというバーのマスター。

自分たちはもうすでにHIVの存在する社会に暮らしているということ、HIVに限らずSTIは自分にも関係しるということ、しかし予防策をとればHIV感染の可能性は0に近づけることができるし、感染しても適切な治療により死を恐れる病気ではないということ。
かつてのマスターがそんなちょっとしたことを知っていれば、彼は不必要にHIVにおびえることもなかっただろうし、HIVから逃げようとすることもなかっただろうと思う。
それと同じく、ケニアの人が知っていれば、日本の人が知っていればとも思う。

時代に即していない知識や誤った知識からスティグマが生まれ、スティグマが知識の更新の障害となり、イグノランスな状態となる。
イグノランスがさらにスティグマを助長し…。
そんなスティグマとイグノランスのスパイラルがあり、日本にしてもケニアにしても新規の感染例は止まらず、VCTへの足を遠のかせているのだろう。

だからこそ、適切な情報・知識が大切になってくる。
それに加え、問題を他人事として捉えるのではなく、自分に引きつけて捉える姿勢も大切になってくる。
だが、多くの人がそんな姿勢を取るようにするのも決して簡単なことではないのだろうとも思う。

そんなときに思い出されるのが、新宿二丁目での詩の朗読会「Living together」やナイロビでのポエトリーである。
ゲイという同じセクシュアリティーを共有するもの同士、あるいは若者同士が集う場で、自分の思いや悩みを語り、仲間の話に耳を傾け、皆でそれを共有する。

ポエトリーの場でHIVについて語るのは少し話題が重過ぎるかもしれないし、日本でHIVの詩の朗読会ができるのも、そこが新宿二丁目という特殊なコミュニティだからなのかもしれない。
それでもなお、ポエトリーという手段がHIVと向き合う際に、とても力強い手段になるのではないか、そんな風に今感じている。


今までのところ、ケンにくっついて仕事の手伝いをする程度のことしかできていないが、これから私のバックグラウンドを活かしつつ、何らかの形でケニアでアウトプットができないかと考えたりもする今日この頃。

2009年9月18日金曜日

言い訳

言い訳。
最近停電が多い気がします。
朝は電気が通っていたのに、昼頃に停電になり、夜にまた復帰するというパターンが多いようです。
そんなわけで、ブログ用の日記をつけるのを最近サボり気味です。

言い訳。
コンピューターウイルスが多い気がします。
ネットにつなげるときはできるだけウイルス対策ソフトの更新をしているのですが、それでもフラッシュディスクを共有することがよくあるので、スキャンする前にまた感染しているというパターンがよくあります。
おかげで、前は接続できたはずのネットにうまくつなげないことがあったりします。
一番の問題は、カメラのメモリーまで感染したのか、メモリーをカメラに入れても作動せずリジェクトされることです。
そのため、写真が撮れない今日この頃です。
ウイルスに感染 → ネットに接続できない → ウイルス対策ソフトがアップできないという悪循環。
月曜日はネットに接続できたのですが、対策ソフトのダウンロードに時間がかかり、そんな間に停電になり、結局ダウンロードできませんでした。
数日前はネットにすら接続できず、ネットカフェにいながらネットに接続するためだけに時間を使うという悲しい時間をすごしました。
そうこうしているうちに時間がたち、イスラム教徒が開いているネットカフェなのですが、祈りの時間だから店を閉める時間だと言われてしまうのです。

ただ、この原稿が投稿できたということは、ちゃんとネットに接続できたということなのでしょう。
めでたしめでたし。

2009年9月10日木曜日

アウトリーチ

9月5日
この日はプロジェクト地のひとつであるキテンゲラでのアウトリーチの日。
キテンゲラはナイロビとカジャドゥの間に位置する街で、渋滞がなければナイロビまで30分もしないぐらいの街。
ナイロビ・カジャドゥ間のマタツに乗っている際に何度か通過している街でもある。
そして、アウトリーチというのは、病院や施設の中で待つのではなく、街に出て行きそこでVCT(Voluntary Counseling and Testing、HIVのカウンセリングとテスト)を行うというもの。


ケンは前日からナイロビにおり、私1人でキテンゲラまで向かうことになっているのだが、前日の診療所見学の遅刻に懲りて、この日は余裕を持ってカジャドゥを出発。
ケンに9時に来るように言われていたのだが、その15分以上前に到着。
さすがにまだ誰も来ておらず、その後しばらくケンや他のスタッフが集まるのを待つ。
が、9時を過ぎても誰も現れず。
ケンに電話すると、まだナイロビ市内におり、渋滞のせいで当分キテンゲラには着かないとのこと。
すぐに到着できない場合でも「すぐに着く」ということの多いケニア人だが、「すぐ着く」とすら言わないということは相当待たされるのだろうと覚悟する。
その代わりにケンは、PEの1人に電話し、すぐに私のところに来るように連絡してくれると言う。
ケンとの連絡の後、さらに待つこと数十分、キテンゲラ内のPEのリーダーをしているというリンダが登場。
見知らぬ街で1人で待たされるという若干不安な状態から開放される。

他のスタッフが集まるまでリンダとおしゃべり。
仲のよい知り合いが日本におり、その友人から日本人は英語の使えない人種だということを聞いているらしく、私の英語に対してそこまで悪くないよと言ってくれる。
また、ケンが電話したときにはまだ寝ており、みんなが集まったら一度家に帰り、シャワーを浴びたいとも言い出す。

しかし一体9時というのはどこから出てきた時間なのだろうか。
よくケンに「明日は何時に起きる?」と聞いたときに返ってくる時間は、大概ケンが実際に起きてくる時間よりも1時間ほど後。
ケンは集合時間などの時間を早めに言うことが多いのだが、さすがに今日は9時集合だろうと思っていたのだが、どうもそうではなかったのかも知れない。

さて、そんなこともありながらだんだんとスタッフは集まり、準備が始まる。
VCT、つまりカウンセリングと血液検査はプライバシー保護のためにテント内で行われるのだが、今回はそのテントを2張り設置する。
また、APHIAⅡのバーナー(垂れ幕)と、もうひとつのステークホルダーのバーナーを設置する。

なお、このようなイベントの後には写真付きでレポートを提出するのが求められており、その際の写真にはさりげなく自分の団体のバーナー(今回はAPHIAⅡのバーナー)が入るようにした方がいいと知っていたので、写真を撮るのにベストな場所にAPHIAⅡのバーナーを張りたかったが、もうひとつのバーナーにその位置を取られてしまう。
(イベント中に撮影した写真にAPHIAⅡ Donated by USAIDのバーナーが写っているのですが、分かりますでしょうか)


本来であればケンの統括のもとで準備が進むべきなのだろうが、渋滞のためにケンはかなり遅刻し、彼が到着したころにはもう準備も終わりかけたころ。
そしてVCTのアウトリーチは始まる。

ちなみに遅刻してきたケンだが、今日中に送らなければならないメールがあるが、キテンゲラの街は停電でネットカフェが使えず、隣町まで行かなければいけないと言い出し、始まってすぐにいなくなってしまう。
ケンが帰ってきたのはそれから何時間も経ってから。
以前、ケンはキテンゲラのPEたちは全然活動的でないと文句を言っていたが、彼が不在な中でもしっかりと働くPEたちの姿を見ていると、以前にケンの言葉に疑問がわいてくる。

カジャドゥ県内の他の3つのプロジェクト地のPEはほとんどが女性なのだが、キテンゲラは男性のPEも多く、活動的な気がする。
そして、女性にしても、中年層がメインのカジャドゥ市内のPEとは異なり、キテンゲラでは全体的に若い印象を受ける。
他のプロジェクト地と異なりここのPEたちが若く活動的なのは、APHIAⅡでの活動を通して就職口が見つからないかと考えているからのよう。
今年・来年で大学を卒業する予定というPEも何人かいるが、就職事情の厳しいケニアのため、まだ就職が決まっていないという。
そのような中、APHIAⅡの他の団体で働いているあるスタッフはこうやったボランティア活動を通して就職したらしく、彼女のようにUSAIDの関係で就職できたらと何人かが口にしていた。
ケニアで働くことの難しさを知らされるとともに、改めてUSAIDがドナーとなっている比較的安定した団体は恵まれた職場なのだと知らされる。


さて、VCTに話を戻すと、マタツ乗り場の一角を陣取ってのアウトリーチのため人通りも多く、自然とマタツの客引きや暇そうなお兄ちゃん、マタツの乗客などが集まる。
そして、PEが無料の靴磨きサービスをし、それ目当ての人も集まる。
さらに手の空いたスタッフが道行く人に声をかけたりするので、VCTのテントには順番待ちの行列ができるほど。

VCTを受ける人を見ていると、多くの人が自分はHIVに感染していないとは言い切れないとの認識のようで、だからこそHIVのステータスを知るために検査を望んでいるよう。
ケニアはアフリカの中ではHIVの感染率は決して高くはなく、カジャドゥの感染率は5%以下だが、それでも多くの人がHIVを自分に関係しうる問題だと考えているのが分かる。
日本でHIVを自分に関係しうる問題だと考えている人などほとんどいないであろうし、クラミジアなどのSTI・性感染症についてもまた然りなのではないだろうか。
そう考えると、ケニアの問題意識の高さには、私たち日本人も学ぶところがあるのではないかと感じる。
ちなみに、VCTテントの横でやっている無料の靴磨きのサービスだが、検査を受けずに靴磨きだけしていなくなる人もいる。
彼らはHIVに関心がないのからVCTを受けないのかとスタッフに聞いてみたところ、関心がないわけではなく、自分のステータスを知るのが怖いからVCTを受けないのだという回答。
HIVに感染している可能性がある人ほど、早期診療のためも検査を受ける必要があるのだが、自分は感染している可能性があると思っている人が逆に検査から遠ざかってしまっているのは残念なこと。
社会にスティグマがいまだに根強く残っているのは確かだし、政府からの補助により無料ではあものの、しかしHIV治療は十分に整備されていないのがケニアの現状だが、それでもVCTがより身近なものにならないものかと考えさせられる。
また、少なからぬ人が検査は有料だと思っているようで(実際有料で検査を行っている病院もあるのだが)、そのような認識が広がっているのも、これから改善していかなければならない点であろう。


ケニアの強い日差しの下、会場周辺は検査待ちの人や冷やかしの人が集まり、とても盛況。
ただ、テスト自体に時間がかかるわけではないのだが、テストの前にカウンセリングがあるので一人当たりそれなりの時間がかかり、VCTが2つのテントででしかできず、あまり多くの人数をさばけないのが残念なところ(ちなみにテント内でカウンセリングとテストを担当しているのはPEではなく、カウンセラーの資格も持った看護師のおばちゃん)。
実際にVCTを必要としているキテンゲラの人口に対し、今回VCTを受けた数十人という人数はあまりにも少ないようにも感じるが、それでも人目につく場所でこうやったイベントができたことで、街の人にはある程度の影響を与えられたのであろうか。

日本のNGOの見学

予定がころころと変わる今日この頃。
ケンの話を正確に聞き取れていないから予定が変更してばかりなのかと思っていたこともあったが、そうではなく、実際に予定がころころと変わっているよう。
この前もカジャドゥに来ることになっていたスタッフが、来る予定になっていた当日になってから、来るか来ないかで一日のうちに話しが二転三転したりしなかったり。

4日(金)はナイロビのオフィスに行く予定だったのが、前日に予定が変わり、私だけカジャドゥに残ることに。
ただオフィスでする仕事は特にないとのこと。
オフィスでぶらぶらと時間をつぶすのも嫌だったので、ナイロビで活動している日本のNGOに見学をお願いできないかと考える。
かなり急なお願いになってしまったが、木曜日の昼過ぎに連絡し、翌日の見学を受け入れてくださるとの了承をいただく。

その団体は日本の病院が母体となっているNGOで、ナイロビ市内にクリニックを構え、HIV患者の診療を行っているほか、日本からの支援をもとに市内のスラムに住む子供たちの支援を行っている団体。
日本を発つ前、日本にいる間にも何人かの人からも寄ってみるように勧められた団体であり、また、その経営母体となっている病院に3年ほど前に見学に行ったことがあり、病院でケニアにあるNGOのことも少しだけ伺っており、頭に残っていた、そんな団体だったのだ。
カジャドゥでの研修が始まる前に寄りたかったのだが予定を空けられず、ずっと寄りたいと思っていた団体だったのである。

当日、時間に余裕を持ってカジャドゥを出たつもりだったが、ナイロビ市内に入ってからの渋滞で30分近く遅刻。
ケニア人にも勝るとも劣らぬ時間にルーズなことをしてしまったが、待ち合わせの場所に来てくださったYさんは温かく迎えてくださる。
ちなみに、ナイロビに長いこと滞在して団体を引っ張っていっていらっしゃるのはMさんだそうなのだが、丁度そのMさんは数日前からナイロビを離れており、Mさんが留守の間の数ヶ月間、Mさんと入れ替わりで日本の病院から派遣されたのがYさんだった。

Yさんに案内され、待ち合わせ場所からクリニックへと向かう。
クリニックに入ってすぐの待合室には、決して多くはなないのだが患者さんが順番待ちをしている。
今までの私の活動は、スラムなどでのフィールドワークやオフィスでの仕事がメインで、病院の患者さんとすれ違うようなことはあまりなかったので、病院独特の重たい空気に身構えてしまう。
あるいは、目の前にいる患者さんはHIV陽性者かもしれないと思うから、肩に力が入ってしまったのだろうか。
今回ケニアに来てから初めてネクタイを締め革靴を履いてきたのだが、病院特有の空気を前に、Tシャツとジーンズを着てこなくて正解だったかなと思う。

恐る恐る入ったクリニックであったが、スタッフの方との自己紹介が始まると重苦しい空気は吹っ飛び(と言っても勝手に身構えていただけだが)、ケニアらしい明るい空気となる。
夏休みには日本からの学生がちゅくちょく来ているらしく、そもそもMさんをはじめ日本人が深く関わっているクリニックだけあって、いい意味でスタッフの皆さんは日本人慣れしており、飛び入り見学の私を歓迎してくださる。
日本人は英語が苦手なことを理解していてくれていることもあり、居心地の良さを感じる。

自己紹介の後、Yさんにクリニック内を案内していただく。
日本の田舎の診療所にすら見劣りするぐらいの機器しかなく、薬棚のあまりのシンプルさには驚かされたが、それでもHIV関連の治療薬は最低限取り揃えられているそうで、ナイロビでHIVをもつ人たちにとってはなくてはならない大切なクリニックであることが伝わってくる。

HIV感染は直ちに死を意味するものではないというのが、現在の教科書的知識ではあるが、それはあくまでも適切な時期に感染が分かり、適切に治療・服薬が行われたらの話であるのもまたひとつの事実。
偏見・差別といった言葉で片付けることは簡単だが、検査を受けにいくことにも、家族などに感染の事実を伝えることにも、規則正しく服薬を続けることにも、常にハードルが付きまとうのであろうことを、こうやってクリニックに来ることで考えさせられる。
カジャドゥでの活動が予防に軸を置いたものであるため、感染が判明したその後というものを深く考えずにいる自分に気づかされる。
予防活動であっても、目の前にいる人がポジティブであってもネガティブであっても受け入れられるようなメッセーを伝えていくことが求められているのだと、改めて考えさせられる。


クリニック内の簡単な案内のあと、スタッフが支援しているスラムの子供たちのところへ巡回に行くというので、Yさんとともにそれに同行させてもらう。

国内線の飛行場に隣接した土地にそのスラムは広がっている。
そしてスラムのすぐ隣は、きれいな家の立ち並ぶ中流階級向け住宅地。
カジャドゥにいるために危機管理意識が薄れかけているのだが、ここは始めて足を踏み入れるスラム。
Yさんのアドバイスでカメラなどの貴重品はオフィスに預け、そしてネクタイをはずしスラムへ。

月々1口1000円から始められるという日本からの支援金をもとに、スラムの子供たちがクリニックで診療を受けられるという事業を展開しているのだが、1人の支援者に付き1人の子供が割り当てられ支援が行われ、支援者のところには写真や子供からの手紙が日本へ送られるのだという。
今回はその子供たちのところを回るというのがスタッフの主な用事。
一軒一軒スタッフが家を回るのに私たちは同行し、子供の様子を聞いたり写真を撮ったりしている様子を見学させてもらう。

見学させてもらうと書いたが、正直なところ、Yさんばかりとずっと喋る。
やはり日本語での会話は楽だし、日本人同士のほうが何でも喋れる。

スラムの様子であるが、カジャドゥのマジェンゴスラムとは様子が全然違う。
マジェンゴは田舎だからかとても広々としており、庭付きの家も少なくないが、ここはナイロビ市内とあって所狭しと家(小屋?) が建ち並んでいる。
スラムの中を迷路のように走る路地は細く、前日の雨でぬかるんでいる。
家もこちらのほうがみすぼらしいように思われる。
ただ、日本のNGOがスラムの支援に入っていることが知られているからか、友好的な雰囲気を感じる。
マジェンゴのように酔っ払いにお金をせびられることもなく、所在無さげに道端でぶらぶらしている働き盛りの年齢層の男性も、そこまで多くないように感じる。
スラムと呼ばれる地域に住んでいる人でも、マタツに乗りスラムの外に働きに出ている人も多いという。
実際、クリニックのスタッフでもここのスラムに住んでいる人がいるのだという。
スラムと言っても、ナイロビ市民にとっては立派に居住地域として機能しているのだろう。
しかし、不法滞在という言葉はしっくりこないながら、彼らは法的根拠があってここに家を建てているわけではなく、仮に再開発のための立ち退きを迫られた場合は、逆らえないのだという。

昼過ぎにスラムを後にする。
9月に入り夏休みも終わったようで、学校帰りの制服姿の子供たちがスラムの横の空き地で遊んでいる。
写真は、クリニックと、スラムの幼稚園のようなところでのもの。




活動報告その2

今週の月曜日から水曜日までは(8月31日~9月2日)、カジャドゥのオフィスでAPHIAⅡの本部に提出するための、ピア・エデュケーターの活動記録のまとめと報告書作りをひたすら行う。

手書きでフォーマットを埋めなければならない報告用の用紙があったりして、かなりの単純作業ながらかなり骨の折れる作業。
そして、それをパソコンのエクセルのフォーマットに入力する。

仕事への姿勢を見ていると、ケニア人と日本人の違いを見るような気になる。
新聞を読んだり他の団体のスタッフとおしゃべりをしながらゆっくり(ポレポレ)と作業を進めるケン。
この作業が始まるまで、「かなりのハードワークになる」「夜寝る暇もない」とかなり大げさに言っていた割に、かなりのんびりと構えている。
一方、手元の作業に集中せずに入られない私。
ついつい無口に作業を進めてしまう。
カリカリせずにケンのペースに合わせるのが正解なのかも知れないが、どうしてもケンの姿勢に疑問を感じてしまう。

ケンが前日に終わらせたと思っていた分の作業を頼まれたとき、他人任せなケンにさすがにイラッときて「これは自分の仕事ではない」と半ギレになる。
丁度その前に「上司は働きもせず給料をもらっている。自分はがんばって働いているのにろくに給料ももらえない」とか「日本人はお金をたくさん稼ぎ、お金をたくさん使っている」などと言っていたので、「日本人はがんばって勉強し、仕事しているからその分を得ているだけだ」と怒鳴る。
あまりほめられた対応ではなかったと後で後悔する。
日本では声を荒げたりすることなど滅多にないが、ここでは主張するときは声を張って主張しなければいけないときもあるように思われるし、あるいは気の優しいケンだから私の態度を多めに見てくれるだろうという甘えもあったのかも知れない。
給料をもらっていない代わりに責任も何もない、ケニアの外から来たお客様に過ぎない私。
怒鳴るのはよくなかったにせよ、どのような対応がベストだったのか、今でもよく分からないまま。

ケンをはじめ、ケニア人の仕事への態度を変えることは難しいし、よそ様の私のすべきことではないのかもしれないが、作業方法についてはケンに注文をつけまくる。
「順番通りに!」とか、「アルファベット順に!」とか、「毎回チェックをするように!」と、偉そうに主張する。
ケンが1人になったときに彼がどうやって作業を進めるようになるのか分からないが、少なくとも私の主張することの意義は理解してもらえたのではないかと思う。
ただ、一時期だけ研修に来ているよそ様の私がそんなことを言うことに何の意味があるのかとも思ってしまう。

口うるさい私だが、ケンに喜ばれたのはエクセルが使えること。
今まで他の会社で働いていたケンはパソコンを使ってのデスクワーク経験が浅く、エクセルが全然使えない。
ただ数字と文字を入力するだけの作業しかできないのではないかと思うほど。
そんな彼に頼まれ、エクセルの簡単な機能をいろいろ説明する。
フォントサイズ、太字、中央揃え、罫線、列の幅の揃え方、セルの結合に始まり、ページ設定や印刷プレビュー、改ページプレビュー、そして並べ替えや合計などの計算機能などなど。
もちろんながら彼のパソコンが英語表示であったりOSがVistaであったりしたので 、その点若干てこずりながら、そして、私自身エクセルの表計算機能をほとんど使いこなせない状態だが、「ぱっと見」を整えるだけのことはある程度できるので、ケンにはとても喜ばれる。
仕事が終わった後にケンは予定表兼出納帳のようなものを自分用に作成し、これでエクセルが使えるし、交通費を漏れなく請求できるようになるとご満悦。
次はパワーポイントを教えてくれとのこと。
大した役の立ち方ではないような気もするが、自分の能力を買ってくれることに頬が緩む。
そして、パワーポイントでスライドを一緒に作って、学校でHIVの教育をしにいこうと提案を受け、とてもうれしくなる。


仕事と全く関係ないのだが、ついに腹を壊す。
月曜日の昼に外で食べた肉が変な味がしたし、その日の晩に料理したトマトは半分腐りかけていたし(腐った分はちゃんと捨てたはずだが)、火曜日は外でヤギの頭を水煮にしたものに塩をかけて食べたのだが、頭の載っていたまな板のような木の板が汚かった気もするし…。
いったい何がいけなかったのだろうか…。
ケニア人お得意の自己診断&自己投薬(事故投薬!?) を勧められるのか怖く、また大した下痢でもないので、あまり大騒ぎせずに日本から持ってきた「ビオフェルミン」を飲む。

アイセッカー来たる







8月30日。
日曜日。

日本のアイセックのメンバーがケニアとウガンダにスタディーツアーに来ており、この日、ナイロビから私のところへ激励(視察?見学?) に来てくれる。


カジャドゥに到着するのが11時過ぎになりそうだったので、彼らが到着するまでの間、1人でカジャドゥのカトリック教会へ行く。
「地球の歩き方」曰くケニア人の3割がカトリックらしく、ケニアのカトリックについて知ることがケニアを理解することにもつながるかと思ったのが、教会に行ったひとつ目の理由。
そして、実は私自身がカ○リックだからというのがふたつ目の理由。
日本では年に数回しかミサに行かないような(そのうちの一回がクリスマスなのだが)、カトリックの風上にも置けないような私。
だが、カトリック教徒ということがケニア人と私との数少ない共通項であり、相手がカトリックだった場合とても歓迎されることを知っていたので、信仰からというよりも、むしろコミュニティに溶け込むためという不純な動機で教会へ。

海外の教会に行って驚かされるのは、その明るい雰囲気。
聖歌を歌う際にはパーカッションが鳴り響き、黄色か赤のおそろいのシャツを着た子供たちが聖堂の中を列を成して踊りながら行進するのである。
さながらお祭りのような雰囲気。
普段の生活の中に踊り・ダンスがあるケニア。
それがディスコでの、彼らのあの滑らかな腰の動きにつながっているのだろう。

私の行った時間はスワヒリ語でのミサだったため話の内容は全く分からなかったが、日本とは違ったミサの雰囲気を味わい、教会をあとにする。


そして、カジャドゥに到着したアイセッカーと合流。
日本の実家にいたとき以来の再会。
決して長い間出会っていなかったわけではないが、とてもうれしくなる。

お昼時だったので、まずはホテル(こっちでは食堂のことをホテルと呼ぶ)で昼ご飯を食べる。
注文してからなかなか料理が出てこず、私ですらケニア人のPole Pole(ぽれぽれ、Slowlyの意)具合にしびれを切らしたが、ケニアに来て間もない他の日本人には酷だったかもしれない。
恐らく1時間以上待った後、料理が出てくる。
骨ばかりの肉料理であまりほめられたもてなしはできなかったが、みな手で食べるのはケニアに来てから初めてだったようで、料理の遅さといい、変なところでケニアらしさを味わってもらうことになる。

食事のあとは町の案内。
本当はオフィスでの研修などを見せられたらよかったのだろうが、日曜日だったのでそれはできず、さらにオフィスの鍵がなく、オフィスの中を見てもらうことすらできず。
また、平日には店も開き近くの村からマサイ族の人たちが買出しやその他の用事で市内に来るので、にぎやかな町の様子やマサイ族の伝統衣装を見てもらうこともできるのだが、今日はそれもできず。
観光地でもなんでもない田舎町のカジャドゥなので、どこを見てもらえばいいか迷うが、ピア・エデュケーターの知り合いにお願いし、市内のスラムに連れて行ってもらう(写真2)。
日本から来たアイセッカーのみんなの目にはスラムの様子はどう映ったのだろうか。
そして、スラムに住む人たちにとっては、アジアから来た白人の私たちの様子はどう映ったのだろうか。

スラム内の案内のあと、ケンと私の家を見に来てもらう(写真3)。
カジャドゥでは他に見せる場所もなかったし、ナイロビで研修する他の研修生とは一味違った生活をしていることを知ってもらえるかと思ったので。
ナイロビにいる研修生はケニアの大学生の家にホームステイしているケースが多いようだが、子供を大学に行かせているナイロビの家庭と、私の暮らしているような田舎町の家では、家の雰囲気も違ったのではないだろうか。


一同、ナイロビに遅くならないうちに帰る必要があるので、5時過ぎにお別れ。
昼ご飯を待つのに時間を取られ、大した案内もできなかった一日。
スタディーツアーでは、私のほかにもアイセックを通して研修に来ている日本人のところに訪問に行っているそうなのだが、10日ほどの短い滞在期間の中で、わざわざ一日時間を割いてこんな田舎まで来てくれたことに謝謝。