2009年10月6日火曜日

最近の出会い

最近の出会いをいくつか

1、大学教授
ひとつめの出会いは、カジャドゥからナイロビへのマタツの中で。
ナイロビへの1人道中、ずっとうたた寝をしていたのだが、ナイロビ市内に入ったあたりで目を覚ます。
マタツが目的地に近づき私がキョロキョロした後からだろうか、後ろに座っている2人組みがこそこそと何かを話している。
私のことを話しているのかなとも思いつつ、最初は特に気にしていなかったのだが、途中で彼らが日本語の単語を口にしているのに気づく。
振り向くと、遠慮がちに「こんにちは」と声をかけてくれる。
ケニア人の中年男性。
きれいでもなく、かと言って汚くもない、少しくたびれた感じの服を着た、普通のおじさん2人。
「どうもありがとうございます」や「おはようございます」といった言葉を知っており、「Good bye」は何というのだったっけ、などと言葉を交わす。
不思議だったのは、観光客相手の商売人のがつがつした感じや、若い人が声をかけてくるときの好奇心旺盛な感じではなく、彼らの遠慮がちな姿勢。
そして、彼らの知っている言葉が、少しばかり丁寧な言葉な気がする。
不思議に思って、どうして日本語を知っているのかと尋ねる。
曰く、彼の兄弟が長いこと日本の大学でスワヒリ語を教えているのだという。
なるほど。
スワヒリ語を扱っているだけあり、その大学は誰でも知っているような超一流国立大学。
そんな兄弟から日本語のイロハを習ったから、彼らがきれいな日本語を知っているのか。

ターミナルに到着するまでのしばらくの間、彼らと話をする。
彼らも、APHIAⅡの関係でカジャドゥで仕事をしているのだという。
詳細は分からないが、USAIDと契約を結んでいる団体の正規のスタッフではなく、ADEOでいうところのPE(Peer Educator)のような身分なのだろうか。
ケニアの田舎で仕事を持っているということは、決して悪い境遇ではないのだろう。
そうは思うが、どうしても日本にいるという彼の兄弟と比較してしまう。
その兄弟が日本でどんな生活をしているのか分からないが、少なくとも彼のようなくたびれたシャツは着ていないのではないかなと考えてしまう。
日本にいるときも時々感じていたし、ケニアに来てからより多く感じる機会のあった、この時代、日本という国の、あの両親の元に生を受けた私と、目の前にいる他者の、圧倒的な運命の違いという、不思議な感覚。
そして、同じ兄弟ながら、ケニアの田舎町に暮らす彼と、日本の大学で教鞭を取る彼の兄弟の差。
人間どんな人生が幸せな人生なのか分からないが、一人ひとりが全く違う人生を歩んでいるという事実に、なんとも言えぬ不思議な感覚を覚える。

すぐにターミナルに到着してしまい、いろいろな話はできなかったのは残念だったが、何はともあれ、カジャドゥで仕事をしている人の中に日本をよく知る人がいると分かり、とても嬉しい出会いであった。


2、HIV患者
ふたつめの出会いは、病院への紹介患者さん。
オフィスで仕事をしているときにPEから電話があり、病院に紹介したい人がいるから、時間があったら来てくれとのこと。
急ぐ仕事もなかったので、昼頃に私一人そのPEの家へと向かう。
すぐに病院に向かうのかと思いきや、その患者さんは来ておらず、まずは昼飯でも食べていけと言われる。
昼ご飯の用意が続いている頃、その患者さんが家に来る(実は私、その男性が病院に紹介する予定の人だと理解しておらず、しばらくはPEの単なる家族か親戚の1人だと思っていたのだが)。
痩せ身の中年男性。
昼ご飯を待つ間、そして昼ご飯を食べながら彼の話を聞く。
スラムでよく見かける、仕事にあふれたさえない風体の彼だったが、珍しくきれいな英語を操る彼。
話を聞くと、かつて小学校の教員をしていたのだという。
それだからか彼は博識で、日本のこともよく知っている。
太平洋戦争のこと、沖縄のこと、天皇のこと、そして日本赤軍のこと。
私ですら知らないことを知っており、さすがに小学校の教員のレベルを超えているだろと思ったら、30年ほど前に日本人と話をしたことがあるのだという。
その日本人というのが日本赤軍のメンバーで、国外潜伏の中でケニアにも滞在していたのだという。
その日本人は、英語・スワヒリ語堪能で、マサイの村々に滞在していたのだという。
30年以上前の話で、どこまで正確な話なのかは分からないが、ケニアの片田舎のスラムで聞く70年代日本の話題に食事の手を動かすのも忘れ聞き入る。

日本の話題と共に彼が語ってくれたのが、彼の性遍歴とそれにまつわる性病の数々、そしてアルコールと薬物依存の話であった。
詳細は省略させてもらうが、小学校教員をしていたまじめな頃の彼から、多くの歯が欠けやせ細った目の前の彼の姿へと至るまでの経緯にも、また聞き入ってしまう。
そして、STIの医学的知識のなさに反省させられる(SyphilisのTerminal Stageってどんなんだっけ? CBTの範囲だったよな…)。

結果、あまりにもゆっくりと昼ごはんを食べることになってしまい、PE曰く時間が遅いからと、病院への紹介は翌日することになる。
のんびりと食事をすることになったのは私のせいだが、病院に行くのを翌日に延ばすあたりには驚かされる。
さすがケニア。
さすがポレポレ。

翌日9時に待ち合わせをしたのだが、彼がPEの家に現れたのが10時前。
お茶(ミルクティー)や軽い朝食が出され少しくつろいだ後、さあ病院へ行くものかと思いきや、今度はPEが用事があるから待っていてくれと言う。
彼女が戻ってきたのは12時前。
昼食を家で食べてから病院に行こうと言われるが、そんなことをしていたら今日も病院にたどり着けなくなるのではないかと思い、彼らを説得して12時ごろ出発。
病院までの道のりをゆっくりと歩き、何とか病院着。
長かった。

ちなみに彼の紹介案件は、彼はHIV1ポジティブながら治療を受けていないので、治療につなげるべく検査を受けに行くというものであった。
病院の受付ではなく、まずは附属のVCT(Voluntary Counseling and Testing)センターに行き、HIVの有無の簡易検査をすることに。
精密検査から始めたらいいのにと私は思いつつ、別室に入っていった彼を待つ。
簡易検査の割に、かなり長いこと待ったと思う。
HIVポジティブの彼のために、特別丁寧にカウンセリングが行われたのだろうか。
そして、扉が開き、彼とカウンセラーが出てくる。
部屋に入ったときと変わらぬ表情の2人。
カウンセラーが「彼は大丈夫ですよ」と言う。
そうか、これで彼は治療につながるようになるのかと思う。
「あと2年もしたら自分は死ぬんだ」と言っていた彼も、抗HIV治療のスタートラインに立つことができたのか。
そんなことを私は思う。
が、話を聞いていると、何かが違う。
私の考えていたことと大きく違う。
何と、「大丈夫ですよ」というのは、「HIVネガティブですよ」の意味だったのだ。
あれ。
ずっと彼が自分はHIVに感染していると言っていたのは何だったのだろうか。

HIVに関わらず、他にも彼の健康状態に関しては憂慮される点も多かったが、カウンセラーの判断では特に問題ないということらしく、治療費のない彼に病名を付けることは彼にとってプラスには働かないのかと自分自身を納得させ、VCTセンターを後にする。
彼といろいろなことを話せたのはとても貴重な経験だったが、本来の使命が思わぬかたちで幕を閉じ、なんとも言えぬ疲労感を味わうことになった2日間であった。

余談だが、彼の検査の後、同行していたPEが最近みぞおちの辺りが痛むということを言い、彼女の診察のために、登録カード代(※ケニアでは診察費は原則無料なのだが、初診時に登録カードというものの購入が必要で、これが初診料の代わりになっている。医療機関によってその値段は異なるそうで、カジャドゥの公立病院は80円ほど)を私が払うことに。
以前にも同じようなことを書いたが、サステナビリティという観点からも、PEとスタッフの関係性を考えても、決してほめられた行為ではないし、私自身こういうかたちで自分の財布を開くことには大いに抵抗を感じるのだが、彼女の勢いに負けてしまう。
彼女は比較的アクティブなPEだし、こうやって紹介のために多くの時間を割いてくれているのは確かだが、私の懐からその報酬を出したことに複雑な心境になる。
彼女の家で食べた食事とそのお金を頭の中で天秤にかけたりもするが、そういう問題ではないだろうとも思う。
100円もしないような話だし、アルコールに消えるわけではなく彼女の健康のためになる訳だが、それでも私の頭を大いに煩わせてくれる一件であった。


3、ヨコハマ
みっつめの出会いは、カジャドゥの町中で。
簡単に説明すると、日本に滞在経験のあるケニア人に出会ったということ。
彼はJETRO(日本貿易振興会)の補助でアフリカの品物を輸出する仕事をしており、横浜に事務所があるらしい。
彼自身はナイロビに住んでいるのだが、カジャドゥの親戚に会いに来たとのこと。
昼食に誘ってもらい、彼らの親戚と一緒に食事を取る、というかひたすらビールを飲む。
なんと驚いたことに、ケニア人4人のメンバーのうち2人が日本にシスターがいるという。
それも同じシスターではなく、違う兄弟のシスターが。
そんなことで、日本の話で盛り上がる。
電車や女性専用車両の話、サラリーマンの話、日本人の勤勉さ、日本製品と中国製品などなど。
ケニア人から見た日本の話を聞くことができ、とても面白かった(かなり能のない感想)。
そして、外国人、特に黒人にとって日本は決して暮らしやすい国ではないのだろうとも感じる。
日本にいるナイジェリア人やケニア人などのアフリカ系黒人は、「どこから来たの?」と聞かれても、アメリカと答えることが多いという、以前に読んだことがある記事の話を思い出したりする。
確かにそうなんだろう。
どうするニッポン!?

食事をおごってもらっただけでなく、彼らの1人が電気屋だったので、家の壊れたコンセントのソケットをただで直してもらう。
これで家でパソコンが使えます。

ケニアに来てから、実際に日本に行ったことのあるケニア人と話ができたのは初めてだったので、とてもいい経験だったし、それがナイロビではなくカジャドゥであったのもまた面白いできごとであった。


4、エイシャン
初めてカジャドゥに長期滞在する白人(非黒人)に出会いました!
それもアジア人(エイシャン)。
昨日(5日)の朝、オフィスに行こうと道を歩いていたら、ひょっこり東アジア系の顔をした女性が現れるではありませんか。
ちょうど子供に向けて大声で日本語の歌を歌っていたところなので、日本人だとこれは恥ずかしいなと思いながら、最初「ニーハオ」と挨拶。
するとキョトンとされたので、英語で話しかけたところ挨拶が返ってきたのですが、話を聞くと彼女は韓国から来たそうです。
彼女もここカジャドゥで、韓国系の団体で働いているそうです。
時間がなかったのでゆっくりと話をすることはできなかったのですが、また機会を見つけて彼女と話ができたらなと考えています。
以上簡単な報告でした。