2010年1月10日日曜日

分娩 その1

Nambale Health Centreでの2週間の研修が終わった。
自らフィールドに出て行く努力もせず、オフィスで仕事が見つけられないという、とても消極的な理由で医療機関での研修をすることにしたのだったが、今となってみるとNambale Health Centreに行ってよかったと思う。もちろん、4月から始まる大学病院での臨床実習に向けての、頭のリハビリのための刺激、という意味でも有意義なものだったと思う。だがそれ以上に、診察室の中だったからこそ垣間見ることのできたもの、今までの研修では見ることのできなかったケニアの側面の1つを見ることができたのではないかと思う。
と、そんなことを書きながらも、2週間の中で一番印象に残ったものといったら、分娩に立ち会ったことである。ADEOの研修やHIV/AIDSなどと全く関係のない話になってしまうが、今回はそのことについて書かせてもらおうと思う。

Nambale Health Centreでの研修2週目の水曜日、前から興味のあった分娩立会いについて相談してみることにする。私がヘルスセンターに到着したときには、それまで私が診察室で一緒に見学をさせてもらっていたセンター長の医者が来ておらず、ひとまず看護師さんに話をしてみる。彼女はもちろん構わないと言って、そのまま分娩室に連れて行ってくれる。時々、分娩室にもその隣にある妊婦さんの待機室にも誰もいないことがあったのだが、このときは分娩室に一人、そして待機室にもう一人妊婦さんがいた。それぞれAさんとBさんと呼ばせてもらうことにしよう。看護師さんは分娩室の中に入るのだが、私は入っていいものかと一瞬戸惑う。履いている靴に泥がついていることも気になったが、看護師さんが問題ないというのでそのまま分娩室へと入る。ここのセンターのもう一人の医師、ウェレがすでに来ており、何やら検査をしている。と、見覚えのある検査キット。HIVの簡易検査キットだった。今頃になってHIVの検査かよと突っ込みたくなる。ウェレ曰く、Aさんは以前にナイロビで検査したことがあるそうなのだが、ここのセンターに来るのは初めてらしく、改めて検査しているのだという。結果は、以前に検査したとおりポジティブ。ウップス。
私は分娩室に入ってから、分娩に立ち合わせてもらってもいいか、Aさんに尋ねる。患者さんの権利などという言葉のないこの国なので、何をそんなこと聞いているのかというような顔をウェレにされる。陣痛に顔をしかめながら、Aさんは顔を縦に振ってくれる。日本だったら、いきなり分娩室に入ってきた見知らぬ若い外国人に、こうは答えてくれないであろう。
HIVの検査が終わり、赤ちゃんの進み具合を見た後、ウェレは朝食をまだ取っていないからと言って、どこかへ行ってしまう。そして、部屋には助産師のおばゃちゃんも1人いるのだが、彼女は長靴に履き替え鍬を持ち、庭の手入れがあるからといって彼女も消えてしまう。部屋には私と、苦しがっている妊婦さん2人と、Aさんの付き添いの家族が1人。焦る。かなり焦る。Aさんの付き添いというのは、Aさんの直接の子供ではなく、Aさんの養子らしく、彼女は焦った私の顔を見て苦笑いをしている。
すでに分娩室にいるAさんも苦しそうなのだが、待機室のベッドの上で横になっているBさんも苦しそう。時折、苦しそうな顔をした2人から「ドクターやシスターはどこにいるの!?」の聞かれるのだが、辺りを見回してもウェレの姿もおばちゃんの姿も見当たらない。焦る。途中何度か、処置室の看護師さんなどが分娩室に器具を取りに来たり様子を見に来たりするのだが、生まれるのはまだまだ先だと言ってすぐにいなくなってしまう。焦る。救急車に乗っている救急救命士さんは、彼らに許された範囲内での処置を終えた後、一体どんな顔をしてあの狭い空間の中で患者さんと向き合うのだろうか。マスクで顔が少しでも隠れている分、今の自分よりも彼らのことがうらやましいと思う。
しばらくして、Bさんがベッドから起き上がり、苦しそうによたよた歩き出し、待機室を出て用具室の前でしゃがみこんでしまう。焦る。幾度となく聞かれる「ドクターはどこ!?」の質問にしどろもどろになりながら、彼女の腕をさする。さする。さする。
それからさらにしばらくして、やっとウェレが帰ってくる。そして彼は、Bさんを分娩室へ入るように指示する。ウェレ曰く、もうすぐ生まれるとのこと。しばらく分娩室で頑張っているAさんを横に、Bさんの分娩の準備が始まった。
ウェレは赤ちゃんの進み具合をチェックし、私にも手袋を付けるようにと言う。「え、何も分からないんですが」、と戸惑いながらも手袋を付ける。日本から医学書を持ってきており、このセンターに来てからも、そしてウェレとおばちゃんの帰りを待つ間にも、出産関係のページを読んでいたのだが、どう考えてもその何ページかの文章が今この場で役に立つとは思えなかった。
ちなみにウェレと私が付けているその外科用手袋は、消毒液やコットンと共にBさんが買ってきていたものだった。普通のゴム手袋と違い、日本の感覚からしても高い外科用手袋。待機室の彼女のベッドの上には1ドルほどのお金が散らばっていたのだが、それが外科用手袋などを買った後の彼女の所持金だったのだろうか。右も左も分からぬような私がそんな高価な外科用手袋を付けていることが、何とも申し訳なく思われた。
分娩は進む。
ウェレは強い口調でBさんに指示をし、その横で戸惑いつつも、「大丈夫」というようなメッセージを、私は必死でアイコンタクトで送る。
そして、赤ちゃんは生まれる。
分娩室に入ってから、本当にあっという間のできごとの様に感じられた。実際、ほんの短い時間のできごとだったのではないかと思う。
生まれてすぐ、赤ちゃんを布で包み、体重計へとのせる。
3200グラムほど。
赤ちゃんは胎脂にまみれ、小さく、そしてとてもかわいかった。
お母さんよりも先に私が赤ちゃんを抱いたことになるのだが、申し訳なくもあり、嬉しくもあった。
女性がよく腰に巻いている、あの薄っぺたい布一枚で包まれたまま、赤ちゃんはしばらく体重計の上で放置。
胎盤を娩出させたり子宮を収縮させる薬を注射したりとウェレは忙しげ。出産後にも妊婦さんの様態が急変することがあり、産科DICというものになると設備の整った施設でもかなりの致死率だと授業で習ったことがあり、しばらくの間、私は無駄にハラハラする。しかし、大きな問題はなさそうであった。
ウェレが片づけをし、Bさんが分娩室の隅で体を水で流している頃だっただろうか(分娩室の隅にうずくまり、冷たい水に震えている姿は何とも不憫なのだが…)、助産師のおばちゃんがやっと帰ってくる。赤ちゃんを見て、「うん、2200グラムね」と言って赤ちゃんを待機室へと連れてゆく。いやおばちゃん、3200グラムだってば。
Bさんと一緒に私は待機室へと移る。ウェレは消毒や片づけでしばらく分娩室にこもったまま。あんたが片づけから何までするのかい。
待機室では、赤ちゃんにお乳を飲ませようとし、Bさんは赤ちゃんに乳首をくわえさせようと頑張っている。先ほどまでの表情と一変し、お母さんの顔になった彼女の表情がとても印象的だった。ずうずうしくもそんな親子の様子を覗き込んでいると、彼女は私のほうを向き、優しい笑顔で「ありがとう」と一言。
私は涙が出そうになる。

待機室の開け放たれた扉から、外を眺める。
すぐ横にあるハイビスカスの木には花がいくつか咲き、にわとりが餌をつつき、少し離れたところでは子牛が草を食んでいる。
何とものどかな景色だった。
1年後、5年後、10年後、あるいはもっと先、今こうやって待機室の入り口にたたずんで眺めているこの景色を、ふと思い出すことがあるのだろうか。
そのときは、どんな景色を眺めながら、どんなことを考えながら思い出すのだろうか。
このあまりにも劇的だった数時間を振り返りながら、ふとそんなことを考える。

それが私が始めて立ち会った分娩だった。