2009年10月25日日曜日

HIVと私

・前置き
最近の投稿の内容が、ケニアでの研修日記、ではなく、ケニア滞在日記になっている気がします。
昨日(23日金曜日)もケンはカジャドゥにおらず、唯一した仕事らしい仕事は、PEにコンドームを渡したぐらい。
ケンの指示なくスラムにもあまりフラフラ行くなという言葉を最近頂いたので、本を読んで一日を過ごしました。
この半ばmasturbationのような内容のブログですが、そんなmasturbationの記録の一番熱心な読者が、間違いなくFatherであることを考えると、さらに気が重くなります。
さて、そんなブログですが、今回はタイトルのように「HIVと私」という内容で話をさせてもらいます。
学校の宿題のようなセンスのないタイトルですね。
以下、3本立てになっています。


・ADEOでHIV/AIDSに関わるということ
1年を休学しケニアに本部のあるNGOで研修をし、HIV/AIDSに関わる活動をしているわけだが、アフリカやケニアに以前から特別な思い入れがあったのかというと、申し訳ないのだが、特にそんなものがあったわけではない。
また、HIV/AIDSについても然りである。
ADEOでの研修を選択した一番大きな理由は、以前の研修生に対する憧れだったのではないかと思う。
大学1年の夏、持ち前の協調性のなさでいまだにクラスや医学部の部活に溶け込みかねていた頃、実家に帰省した際、兄に連れられて顔を出させてもらったのがアデオ・ジャパン(ADEOの日本支部)のミーティングや飲み会であった。
アデオ・ジャパンとして国内で展開している活動の話、アフリカ帰りの研修生の刺激的な体験談。
切れのあるミーティング、有能で活動的なメンバー達の横顔。
彼らがとても輝いて見えたし、自分にはないもの、今の自分の周りはないものがそこにはあるような気がした。
自分の学生生活も、彼らのそれに少しでも近づけるようなものにしたいものだと思ったりした。
が、それから結局、部活とバイトで1週間が終わるような、高知でのまったりとした学生生活を自ら選択することになる。
しかしそれでも、1年の夏に見た光景を忘れることができないでいたのも事実であった。
また、目をつむっていても進んでいく学年と、テスト前の一夜漬けの繰り返しで近づいてくる「医師」という文字にも焦りを感じていた。
そんな、ないものねだりの羨望と焦燥感からクラスを飛び出し、日本を飛び出し、何も考えずにひとまずたどり着いたのがここケニアであり、そこで出会ったのが単にHIV/AIDSだけだったのだと思う。

休学届のための保護者のサインと、1年間の軍資金のため、ありもしない脳みそで私なりにひねり出したもっともらしい理由を両親には並び立ててみたりはしたが、誰よりも両親が気づいていたように、休学する意味やアフリカで研修する意味、HIV/AIDSに関わる意味を、私は何も考えてはいなかったのだと思う。


・人の弱さとHIV/AIDS
説得力のあるようなことは何も考えられずにいた私。
ただ、HIV/AIDSに関わらせてもらっていることは、私にとってとてもいい経験になっていると思う。

少し話がそれるが、数年前の話をさせてもらいたいと思う。

病院実習をしている5年生の先輩何人からか、私を含め下級生がその実習の様子を聞いているときのことだった。
学年の中でも特に優秀だったある先輩が、こんな様なことを言っていた。
2型(つまり主に生活習慣による)糖尿病の患者さんを担当しているのだが、そもそも自分のせいで病気になった患者さんのうえ、入院までしているのに生活態度を改めようとしない。
そんな人に医療を施すのはナンセンスだと思うし、医師になったらそんな患者さんは相手にしたくない。
おそらくそんな旨だったと思う。
つまり、自分の手で自分の健康を害しているような人の相手はしたくないと。
その後、その先輩は有名病院に就職し、そこでもバリバリやっているという評判を耳にしている。

医師が医師たるには、まず知識と技術があってこそであり、人間性が医師を医師にしているのではないだろう。
そんな意味では、その先輩は医師の鑑だと思う。
だが少なくとも、その先輩はHIV/AIDSに関わるのには向いていないだろうとも思う。

というのも、HIV/AIDSは人の弱さにつけこむような形で感染し、発症するのだから。
無防備な性行為や注射針の回し打ちでHIVに感染し、検査や服薬を怠ることによってAIDSを発症するのだから。
HIV感染・AIDS発症には大いに自己責任という言葉が当てはまるであろうし、自分で自分の健康を害しているという表現も間違えではないだろう(※)。
そんなわけで、その先輩の求める患者さん像の範疇にHIV/AIDSは含まれないだろう。

(※)ただし血液製剤による感染や母子感染、望まない性行為、中国などで問題になっている売血による感染を除く。
しかし「望まない性行為」って何だ。
最初はレイプを想定して書いたのだが、途上国などでの絶対的な貧困状況の中で、他に生きる道の選択肢のない中で体を売ることで糊口をしのいでいる場合はどう捉えたらいいのだろうか。
あるいは、女性の社会的地位の低さとpolygamyの中で、自分を守るすべを取る権利もないまま夫から感染する女性とか。
実際、「私にとってコンドームに触れることは罪だ」って言っているムスリムの既婚女性もいるし。
というか日本の男だって程度の差こそあれ勝手だし。
ということで、上記の主張は、同等の権利を有するカップル間の性行為における感染、および自己の意思による薬物濫用による感染という、かなり限定的な状況の下でのみのものだと思ってください。

ただ、私自身としては、そんな人の弱さを相手にするような保健・医療も楽しそうかなと今は考えている。
もともと、高校の頃に医学部への進学を考えていた頃、私にとって身近な医師というのが、アルコール依存症や薬物依存症を抱える患者さんがよく通っていた診療所の医師であった。
自分の弱さに負けて自ら病を招いたような患者さんを相手に、諦めることなく見捨てることなく付き合っていくその診療所のスタッフたち。
そんな彼らが相手にしていた依存症という病気と、HIV/AIDSはどこか似たところがあるようにも思う。
予防することも可能な病気、自分で招いた病気、一生付き合っていかなければいけない病気、などなど。
もちろん違うところもたくさんあるが、人の弱さを見つめながら付き合っていかなければいけないという点では、どちらも同じであろう。

今の研修内容としては予防・啓発がメインになっており、治療分野は他の団体の守備範囲になっているため、あまり病気そのものと向き合う機会は少ないが、それでもこうやってHIV/AIDSに関われてよかったと思う。


・日本で見たHIV/AIDS診療
日本でもHIV/AIDSは広がっているというが、それでもまだ身近な病気としては捉えられてはいないだろう。
インフルエンザなどと違って、知り合いの誰それがHIVポジティブらしいなどという話は、日常生活ではあまり耳にしないのではないだろうか(それは単に感染率が低いということではなく、社会に対してカミング・アウトすることが困難であることも意味しているのだが)。
幸いというか、私自身はHIVポジティブの人がリソース・パーソンを勤めているワークショップに何度か参加したことがあったり、大学の関係でポジティブの人の話を聞かせてもらったりしたことがある。
なので、HIV/AIDSという言葉を聞いたときにも、具体的に今まで出合ったポジティブの人たちの顔が浮かんできたりする。
そして、私が日本で触れたHIVの現場として一番印象に残っているのが、以前にある病院に見学に行き、そこでお邪魔させてもらったHIV診療であった。
診察室の中という特殊な環境であったが、そこで私が見たものは、日本のHIV/AIDSの現状をよく表していたのではないかと思う。
そのときに個人的にメモしていた原稿があるので、ケニアでの研修とは特に関係ないが、ここでそれを紹介させてもらいたいと思う。

なお、その病院は長野県にある病院で、HIV診療の拠点病院に指定されている病院だった。
この長野県であるが、人口比で東京・大阪に次いでHIVの感染率が高く、異性間の性行為による感染の比率が東京・大阪に比して有意に高いという特徴のある県なのである。
その背景として、長野オリンピック前に海外から労働者が連れてこられ、彼らと共にCSWが長野県に入ってきたことが指摘されている。
その病院で、通称HIV外来と呼ばれている外来診療に私は参加させてもらったのだった。
もちろん対外的にHIV外来などと名乗っているわけではなく、HIVの患者さんを診療していると分からなくし、患者さんのプライバシーを守るため、一般の外来患者さんと共にHIV患者さんを診療しているのだった。

以下、そのときのメモを若干手直ししたものを転載させてもらう。


東京などの都市圏ではHIVといえば若者の感染する病気だと思われがちだが、長野県では中高年を中心に蔓延し、実際にその日の患者さんも3人とも中高年の方であった。
HIVという感染症そのものにくわえ、社会からの偏見、一日たりとも欠かせない服薬治療、飲み忘れによる耐性ウイルスの増殖など、患者さんの心を煩わせることはいくらでもあるのだろう。CD4やウイルス量などの目に見える数値に一喜一憂しながら、患者さんはこの病気と生涯付き合っていくことになる。しかし、実際に診察室で患者さんを前にすると、彼らがどこにでもいそうなあまりにも普通なおじさん・おばさんであることに少なからず驚かされた。私が勝手に持っていた悲壮な雰囲気は、一見すると見受けられなかった。
 1人目と2人目の患者さんは中高年の男性であった。1人目の方のウイルス量が増えていることを受け、先生が薬の飲み忘れはありませんかとたずねたところ、飲み忘れはないとの返事。しかし、診察室を出た後に先生がおっしゃるには、飲み忘れでもしない限り、そこまで検査結果の悪化は考えられないということであった。先生とのやり取りの間、その患者さんが見せるうつろな目を思い出し、なんとも切ない気分にさせられた。
2人目の患者さんも、同じくウイルス量の増加が認められた。問診の結果、こちらはHAARTの抗ウイルス薬と飲み合わせしてはいけない胃薬を飲んでいたためではないか、ということになった。患者さん向けの冊子をその患者さんに渡し、飲み合わせの説明をしたところ、患者さんは合点といった顔をした。しかし、患者さんが診察室を出たあとに先生がおっしゃるには、以前にも飲み合わせの説明はしているし、おそらくこれからも患者さんは飲み合わせの悪い薬を飲み、数値を悪化させるのではないか、ということであった。HAARTの登場によって、もはやHIVは死の病ではなくなったが、HIVやその治療と向き合っていくことが思いのほか困難であることを思い知らされた。
3人目の患者さんは、60歳過ぎだろうか、おばちゃんであった。ベージュの帽子を被り、きれいに着飾ったその患者さんは、彼女の明るい雰囲気からも、年齢からも、私の抱いていたHIV患者さんのイメージからはかけ離れたものであった。2人目の患者さんと名字が同じだと思ったら、2人はご夫婦ということであった。
そのとき、以前先生がおっしゃっていたことを思い出す。旦那さんがHIVの場合、奥さんも感染していると分かったとき、残酷かもしれないが安心する。HIVに感染しても奥さんにそれを感染させないような関係のカップルの場合、離婚に至るケースが多い。HIVに感染し、家族までも失った人は、ウイルスによって命を落とすのではなく、自らの手によって命を絶つケースがとても多い。一方、カップルでHIVに感染したケースでは、HIVに向き合うためのパートナーがいるわけで、独り身のケースよりも比較的良好な経過をたどることが多い。そんなことを先生はおっしゃっていたのだった。
さて、そんな彼女の診察中、ひとつ気になることがあった。彼女が「今日もお願いします」と言って、黒いビニール袋を先生に手渡すのである。最初、ここが田舎なだけに、家で採れた野菜や漬物などを、お世話になっている先生に差し入れに持ってきたのかとも思った。それにしても、数枚重ねにしたその黒いビニール袋は何か不自然であった。診察が終わり患者さんが診察室から出ていった後で、私は先生から、袋の中身が何か分かるかと尋ねられる。もちろん私には答えは分からない。が、先生にその袋を持たせてもらい、思いの外軽いことに気づく。結局答えが分からないまま、その黒い袋を開けさせてもらう。中身を見て驚く。中身は、HIV治療薬の空になったプラスチックのケースだった。先生がおっしゃるには、仮にも近所にそのケースを捨てたとき、ご近所さんからHIVの治療を受けていることが知られるのが怖く、そのために病院でケースを処理してもらうために患者さんは毎回ケースを持ってきているということであった。日本におけるHIVの受け止められ方を知らされるような、印象的な診療見学であった。

2009年10月22日木曜日

最近のひとり言

最近のひとり言

その1、ケンが帰ってこない
ケンがなかなか帰ってこない。


その2、ハクナ・カジ
日本でもそれなりに認知度が高いと思われるスワヒリ語の言葉に「ハクナ・マタタ」があると思います(スワヒリ語であると認知されている訳ではないようですが)。
ディズニーのアニメ映画、ライオンキングの影響が大きいのでしょうか。
英語で表現すると「ノー・プロブレム」、「問題ないよ」の意味になります。
「ハクナ」が「○○がない」の意味で、○○の部分に単語を入れていろいろと活用できます。

たとえば、「ハクナ・マチチ」は、「マチチ」がおっぱいの意味なので・・・、といったように使います。

カジャドゥを表す言葉としては「ハクナ・マジ」がいいでしょうか。
「マジ」は「水」なので、「水がない」という意味になります。
ただ、例年雨の降ることのないこの時期ですが、今年はエルニーニョの影響で最近何度か雨が降っています。
大雨が降っても道が冠水しないよう道の横に側溝を掘り、まだ続くであろうエルニーニョの大雨にカジャドゥの町は備えています。

ケニアの問題を現す言葉のひとつとして、「ハクナ・カジ」があると思います。
「カジ」は仕事の意味なので、「仕事がない」の意味になります。
実際、1人でカジャドゥの町を歩いていると、「仕事を紹介して欲しい」とか、「日本にいい仕事はないのか」とよく声を掛けられます。
最近も、ある知人からそんなことを尋ねられました。
今失業中なのだが、ADEOや他の団体に求職中のポストはないか、と。
ただ彼が今までの人と違っていたのは、何週間か前に彼をAPHIAⅡの職員として見ていたことでした。
VCT(HIVのVoluntary counseling and Testing)のカウンセラーの活動を評価するため、彼はリフトバレー州の本部から派遣されていたのですが、たまたま私がVCTを受けた後だったので、VCTの様子はどうだったかとインタビューがあったのでした。
またその後、彼が他の職員に渡す書類があるからと、オフィスに私しかいないときに彼と待ち合わせをし、彼からその書類を預かったこともありました。
インタビューのときの彼の紳士的な対応は印象に残っていましたし、オフィスで待ち合わせをした際、彼が遅刻することなく現れたのにはかなり驚かされたことは忘れてはいませんでした。
そんな彼も臨時の職員だったため、今は失業中とのこと。
大学を出ても「ハクナ・カジ」なことも珍しくないケニア。
難しい問題です。


その3、体調不良再び
火曜日、先週と同じ症状の体調不良にまた襲われました。
今回は昼間から調子が悪かったので、近くの診療所に連れて行ってもらいました。
今は元気です。
今回はお医者さんが出してくれた薬を飲んでいます。

ケンが以前に買ってきてくれた薬、200シリング。
何の薬かよく分からない薬を飲む不安、プライスレス。

今回の診察代と薬代、900シリング。
処方された薬を飲む安心感、プライスレス。

ちなみに、ここでは薬はばら売りにされています。


その4、英語
ケンの3歳だか4歳の娘さんが、最近保育園に行きだしているそうです。
何と驚くべきことに、そこで英語を習い始めているそうです。
先週末にケンの家に泊まったとき、その英語を披露してもらいました。
「Monday, Wednesday, Friday」とか、「Twenty, Thirty, Eighty」など、まだめちゃくちゃではあるのですが、きれいな英語の発音。
彼女の母親の、ケニア訛の英語よりも英語らしい発音だったのが印象的でした。

道端を歩いていると小さな子供から「How are you!?」とよく声を掛けられます。
まだ学校に通っていない彼らは、英語あまりを知らないなりに、知っている英語を「使う術」を持っているのだと、よく感じさせられます。
日本人の偏った英語の能力とは対照的ですね。

先日、日本の大学で教鞭を取っている兄弟がいるというおじさん(以前のブログ参照)と、カジャドゥの食堂で一緒にビールを飲みました。
食堂のテレビでは、キバキ大統領が英語で演説している様子が流れていました。
ケニア訛の英語で、原稿に目を落としたままゆっくりと演説する大統領。
そんな時、その男性は、「日本人は自分たちの文化に誇りを持っているから日本語しか使わないと聞いている」、「ケニアは共通の言語であるスワヒリ語を持っているのに、公の場では英語しか使わないのは残念だ」と語ってくれました。
その言葉を後押しするかのように、演説の締めくくりを大統領はスワヒリ語で行ったのですが、彼はスワヒリ語を話し始めたとたんに原稿から目を離し、活き活きと語りはじめるのです。
さらに、それにつられるかのように、今までテレビを見ていなかった食堂の人たちも、テレビに釘付けになるのです。
ケニアにおける英語の捉えられ方を現す、印象的な場面だったように思います。

国際コミュニケーション・ツールとしての英語。
今の日本の形がベストだとは思いませんが、どんな形での英語の受け入れ方が日本には求められているのでしょうか。

ビザ延長

先週末はナイロビのケンの家に泊まり、月曜日はナイロビのADEOオフィスに一度寄った後、有効期限が残り少なくなったビザの延長のため、イミグレーション・オフィスに行く。

最初はケンが連れて行ってくれることになっていたが、忙しいから一人で行ってくれと言われる。
イミグレーション・オフィスの入っているニャヨ・ハウスの場所自体は分かっていたし(ここではビルのことを○○ハウスと呼んでいる。森ビルではなくモリ・ハウスみたいな感じで)、手続は1人ででしかできないので、ケンの同伴がないことに特に問題はないのだが、実は先ほど、ADEOのオフィスでケンの同伴なく1人歩きをしないよう、イエローカードが出たばっかりであったのである。
タウンに行く分には構わないのでしょうか?

マタツに乗りさらに少し歩き歩きニャヨ・ハウスへ。
いろいろ不安を抱えつつ窓口へ。
記入する用紙を指定され、それを記入。
滞在先の欄にはカジャドゥと記入。
再び窓口へ並ぶのだが、正直滞在目的を聞かれないかドキドキ。
というのも、今回申請しているのがホリデイ・ビザだから。
本来NGOで働く場合であってもビジネス・ビザの取得が求められているのだが、過去のADEOの研修生の経験から、ビジネス・ビザではなくホリデイ・ビザを取るようにアドバイスされていたのだった。
もちろん日本で最初にとったビザもホリデイ・ビザであった。

当然ながら窓口でカジャドゥのそこで何しているのかと聞かれる。
彼女の言葉をオウム返しにし、一瞬言葉に詰まる。
視線が宙を漂い、考えてきていた言い訳を言おうとその視線が係員の元に戻ったとき、既に彼女は特に気にも留めていないことに気づく。
そして2200シリング払えと言う(日本円にして2500円ほどでしょうか。円高が進んでいるらしいですね)。
あら、安い。
そしてドルじゃないのですね。
あとでレシートを見たら2000シリングと書いてある。
差額の200シリングは何なのでしょうか。
ちなみに、あらかじめ入管のウェブ・サイトで必用書類や代金をチェックしていたのだが、そこにはシングル・ビザ50ドル、マルチ・ビザ100ドルと書いてあった気がする。
いろいろな金額が出てくるのはなぜなのだろうか。

よく分からないまま隣の窓口に行けと言われ、何か係員がした後、さらに隣へ。
書類を渡したまま、しばし待てと言われる。
近くのベンチに掛けて待つ。

前にいるのはインド人の子供。
かわいい。
髪の毛どこで切るのか聞きたかったが、一緒に遊んでいるうち結局聞くのを忘れてしまう。

不思議な風景。
黒人、白人、インド人、同じブルーのシャツを着た中国人3人組。
みんなどんな理由でここにいるのでしょうか。

しばらく待った後、何人かの名前が続けて呼ばれる。
その際呼ばれたのは、5人ほどいただろうか、私以外全員白人。
係員が何かを言い、私は何を言っていたのか聞き取れなかったが、白人たちについていく。
別室の前で待機、1人ずつ名前が呼ばれるよう。
恐る恐る、ガラス越しに中をのぞく。
滞在理由を聞かれるのかと心配に思っていたが、何と指紋押捺。
それも全部の指。
これで私ら犯罪者予備軍扱いですな。
そして法医学実習を思い出しますな。
私も真ん中あたりで名前を呼ばれる。
最初とか最後だったらもっと緊張していただろう。
笑顔ながら硬くなる私は、「リラックスして!」と言われる。
おばちゃんは緊張で硬くなった私の指を無理やりインク台、そして紙に押し付けるのだが、とてもうまくやっているように思われる。
実は法医学実習のときに採取した指紋を記念に取っており、いまだに筆箱に入ったままなのだが、それよりもきれいな指紋押捺。
さすがプロですな!
その後、コットンでふき取る。
が、うまくふき取れない。
次の人のを見て、灯油か何かが手を拭くためにあるのに始めて気が付く。
が、完全にきれいにはならず、灯油も蒸発せず。

と、ここで次に何をしたらいいのか分からなくなる。
周りの白人がいなくなっており、かなり焦る。
係員に聞いても要領を得ず、そんな彼らの適当な対応に近くにいる白人君と一緒に苦笑いするのだが、最終的に、最初に出向いた窓口に行けばいいことが分かる。
なぜ5番窓口?と思いながらその窓口へ向かう。
列に並びながら、並んでいる理由が分かってくる。
そう、もうビザの判は押されており、後はパスポートを受け取ればいいだけだったのだ。
ビザ、ゲットです。

ちなみに、ビザはシングルかマルチか分からず。
申請用紙で、既婚か未婚かと問われているのかと思い、シングルの欄に丸をつけたのだが、あれはビザの種類だったのかな・・・?
確か、シングルの対はMで始まっていた気はするのだが、MarriedだったのかMultiだったのか。
あと、延長の期間は2月2日まで。
帰国までビザの更新を再度しなくてもよさそう。

朝は急いでいたのでトイレに行けなかったので、ハウス内で大をする。
先週からの下痢から回復。
めでたしめでたし。
と思いきや、間違えて女子トイレに入っていたようで、扉を開けてから軽く恥をかく。
そんなビザ申請の一日。

写真1、日本で取ったケニアのビザと黄熱病のイエローカード
写真2、ケニアで延長した際に押された印(右ページ)

ビザ延長、2200ケニア・シリング。
ケニアでの半年、プライスレス。

体調不良

木曜日、ナマンガでの活動の後4時ごろにカジャドゥに戻るのだが、強い倦怠感に襲われ、仕事を早退させてもらう。
そして家で横になる。

夜7時過ぎにケンが帰宅し目を覚ます。
熱があり頭痛があるのだが、何よりもしんどいのは足の筋肉が痛いこと。
十種競技の1日目、400mが終わった後のような痛み。
私がかなりしんどがっているのでケンが薬を買ってくるという。
自己診断・自己投薬はためらわれたが、ケンは症状を聞いたりすることもなくマラリアだと決め付け、そのまま出かけていってしまう。
しばらくしてケンが買ってきたのは、抗マラリア薬、抗生物質、痛み止め、後もうひとつ何かの薬。
日本円にして200円ちょいの値段ながら、でかい錠剤を4種類も買ってくる。
なお、ここでは薬はばら売りにされており、パッケージがないので薬の詳細はよく分からない。
明日病院に行こうとケンは言っており、医者に見てもらう前にやたらと薬は飲みたくなかったが、体もかなりしんどかったし、何よりもケンが強く勧めるので、おとなしくケンに従うことに。

最初、ケンは食前に薬を飲めと言っていたのに、薬を飲む前、近くに住むAPHIAⅡのスタッフがお見舞いに来てくれ、彼女が食後のほうがいいと言ったら、今までの言葉はなかったように食後に飲めと言う。
食前に飲んだら胃に悪いと言う。
食前に飲むのが怖かったので、私は食事の直前に飲もうと料理ができるのを待っていたのだが、彼女が来てくれたことに胸をなでおろす。
そして薬を飲むのがさらに怖くなる。

当初は飲んだ振りをしようかとも考えたりもしていたが、食後、指示されたとおりに薬を飲む。
そして就寝。

翌日目を覚ますと、昨日のしんどさが嘘のように体が軽くなっている。
調子の悪さは残っているが、横になっている分にはしんどさはない。
大事を取りこの日は仕事を休むことにしたが、それでも薬が効いたのだろう。
今となってはどの薬が効いたのか分からないが、めでたしめでたしである。

ちなみに、木曜・金曜と3組がお見舞いに来てくれる。
いずれもAPHIAⅡの関係者なのだが、とても嬉しかった。
来てくれたこと自体嬉しかったが、彼らの丁寧な対応も嬉しかった。
上にも書いたとおり、薬を食前に飲むように言っていたケンに、食後に飲むようにアドバイスしてくれたり、別のスタッフは手で熱を測り、「関節に痛みはないか」などとマラリアを心配して質問したりしてくれた。

連携

先週1週間はPEの活動活性化にむけて、具体的にはヘルスセンターとの連携を強化すべく活動した週であった。

月曜日には、キテンゲラのユースとのミーティングをスムーズに進めるため、会場の確保、ミーティングへの医療従事者の参加などのヘルスセンターからの協力について話し合われた。

またこの日の晩、先週であった韓国人の女性と一緒に晩御飯を取った。
韓国の仏教系団体で働いている彼女、私よりも長いことケニアにおり英語・スワヒリ語共に私よりも上で、それらを使いこなしてここに溶け込もうとしているのが分かる。
が、ムズング(白人つまり非黒人)がここにいること、そんな彼女がスワヒリ語を使おうとする姿に、何となく不自然な空気を感じてしまう。
多分私の姿も、現地の人には同じように映っているのだろうか。


火曜日はPEの活動とは関係はないのだが、この日もミーティングがあった。
毎年12月1日はWorld AIDS Day(世界エイズ・デー?) になっているのだが、この日にカジャドゥ県内でイベントを開催すべく、その準備のミーティングであった。
県内でHIV/AIDSに関わる団体(ステークホルダー)一同が市内に集まって開催されたのだが、APHIAⅡの直接のスタッフの他、ADEOなどのAPHIAⅡの下で活動している団体、APHIAⅡとは直接は関係のないがHIV/AIDSに関わるその他の団体などが集まる。
まず県内のどの場所でイベントを開催するか、という段階から話し合うのには驚かされる。
以前にもブログに書いたが、都市部よりも地方での感染拡大が憂慮されており、そんな流れを受けて、今年は県内でも比較的田舎のほうの町でイベントが開催される方向に。
外から来た私にはどんなところなのか分からないが、話を聞いているとかなりの田舎な気がする。
World AIDS Dayに私はカジャドゥにいないので参加できないので残念なのだが、カジャドゥに来た後すぐにマイリティサであったイベント並みの大きなものが開催されるのだろう。

なお、このミーティングには、以前マイリティサで出合ったことのあるアメリカ人の白人女性も参加していた。
実はその後にもカジャドゥ市内やナマンガで見かけたことがあるのだが、今回初めて話をする。
アメリカのピースコ(Peace Corp、平和部隊かな? 日本の青年海外協力隊のアメリカ版?) に所属しマイリティサで活動しているという。
多分50歳くらいで、資格だけだが看護師だという。
いかにもアメリカ人といった感じの彼女、アメリカンジョークを飛ばし、ミーティング前には、この会議は英語で進めるのかスワヒリ語で進めるのかと質問している。
かなり聞き取りやすい英語を話してくれるのでリスリングに疲れることはないのだが、そのハイテンションっぷりには疲れる。
ミーティングのあと、アフィアⅡのスタッフが彼女の真似をしており、出しゃばり過ぎると周りからはああいう風に受け止められるのだと反省されられる。
彼女などは英語が不自由なく使える分、その振る舞いで現地との距離を作ってしまっておりもったいないと感じさせられる。
そして、努力次第で何とかなる英語で周りとの距離を作ってしまっている自分ももったいないことをしているのだろう。
他のアイセックの研修生と違い、ケニア人以外と付き合う機会の少ない私、外国人と接するのもいい勉強になると感じる。

ミーティングのあと、近くの県立病院までHIVの担当者に会いに行く。
PEの活動の支援を相談しに行くもので、以前にも何度も彼女を訪れているのだが、毎回彼女は不在。
さすがに今回、ケンはアポを取っているのかと思いきや、聞いてみるとアポを取っているわけではないという。
結局今回も外出のため彼女には会えず、毎度だがケンの効率の悪い動き方にあきれさせられる。
当初の目的は果たせず、配布用のコンドームを受け取り病院を後にする。

さらに病院のあと、マジェンゴ・スラムでPEのところへ寄る(前回の投稿参照。ラクダ君の話)。


水曜日、午前中オフィスで仕事をした後、昼からマジェンゴへ。
主な目的はPEに出会って話を聞くこと。
もうひとつは、飲み屋や宿泊施設を回り、売春が行われていそうなところを新しく見つけること。
町外れに宿泊所を併設する飲み屋を発見。
宿泊所内には保健省の名前の入った立派なコンドーム・ディスペンサーがありテンションがあがる。
さらに店員に聞くとしばらくコンドームが補給されていないとのこと。
要検討ですな。


木曜日、ナマンガへ。
APHIAⅡの中でもHIVのHome based Careを担当している団体があり、その団体のスタッフと一緒に行く。
彼女自身、その団体の仕事があったのだが、それに加え、彼女にはPEとのミーティングの中でその団体が採用している活動手法を紹介してもらったり、また私たちの活動を彼女に見てもらい助言をもらったりする。

彼女の話を聞いたり、実際に彼女の団体のCHW(Community Health Worker、ADEOでいうところのPE的な存在)の活動を見させてもらったりすると、やっぱりADEOよりも活動的なのが分かる。
予防・啓発分野を担当しているADEOと違い、すでに感染した特定の人を対象とする活動のため、CHWも活動しやすいということもあるだろう。
予防という不特定多数が対象の活動は、やはりつかみどころがないのだろう。
だが、それ以上に我々に改善の余地が多く残されていることにも思い知らされる。

また、ここナマンガでもヘルス・センター(小規模の病院に保健所の機能を加えたような施設)へ行き、担当者と話をする。
PEとヘルス・センターの連携促進のためだが、少なくとも今までは全然連携が取れていなかったことが改めて明らかになる。
前出の団体とは連携が取れているので、問題がヘルス・センターではなく我々にあるのが分かる。

また、金曜日にもケンはキテンゲラで同様の時間を過ごす。
ただ、私は体調を壊し、この日は休ませてもらったので詳細は分からず。

いずれにせよ、この週はヘルス・センターとの連携をスローガンに活動した週であった。
PEの活動の低さの根底にはモティベーションやインセンティブの欠如があり、この週の活動が成功裏に終わったとしても、現状を大きく変化させることはできないかもしれないが、PEの活動の環境を改善できるという点では大きな意味のある活動であっただろう。

2009年10月15日木曜日

インタビュー



ケンはいつも夕食が終わると、時間に関わらずすぐにベッドにもぐりこんでしまうのだが、昨晩(12日)は珍しく仕事の話、特にこれからやりたいことなどの話をする。

簡単にまとめると、2人でPE(ピア・エデュケーター)にインタビューとアンケートを行い、ADEOのナイロビのスタッフにプレゼンテーションしようというものだった。
インタビューの内容であるが、ケンの意図としては、半分はPEのHIV/AIDSに関する知識をテストするためのよう。
そして残りの半分で、ADEOの活動に関わって変わったこと、ADEOに期待することなどを聞こうというものだった。
さらにそれらをまとめ、ADEOがカジャドゥのPEに与えたインパクト、コミュニティに与えたインパクトをプレゼンテーションするというもの。

与えられた課題以外の仕事の話を、ケンとこうやってするのは初めてだった。
カジャドゥに来た当初、夕飯後にAPHIAⅡのレポートなどを一緒に読み、ディスカッションをしようと提案してくれたケンだったが、そんなことがあったのも最初の2日だけであった。
仕事の話をしていても、結局は上司やPEの愚痴、交通費の支給が不十分なことに対する不満を語ってくるだけだった。
それが、ケンとこうやって建設的な話ができたのはとても嬉しいことであり、大きな驚きでもあった。

多分、私自身、勝手にいろいろなことを諦めていたように思う。
上司やPEの文句を言い、前向きな話と言ったら他の団体に転職したいとか地元でビジネスを始めたいといったことしか言わないケン。
PEとしての自覚も知識も不十分なようにしか見えず、ADEOからの見返りを期待してのみPEになっているのではないかと思われるPE達。
言葉が通じないことを言い訳に積極性のかけらも見せない私。

決められた単純作業以上の建設的な仕事の種が見つけられてよかったと思う。
カジャドゥでの残された時間は短いが、ケンと協力しながら、私の存在がプラスになるような活動ができればと考えている。

ある日の夕飯



13日、カジャドゥ市内にあるマジェンゴ・スラムのPEに会いに行ったのだが、そのついでに、まだ辺りも明るい頃、PEから早めの夕飯をご馳走になる。

私は以前にも何度かそのPEにご馳走になったことがあるのだが、ケンは今回が初めて。
正直2人とも乗り気ではなかったが、PEの勢いに負けご馳走になることに。

程なく出されたのは若干の味の付いたお米と、淡水産の小魚をトマトなどと煮たもの。
すでに調理されていたものを再加熱してくれたのだが、気持ち程度にしか温まっていない。
大きななべに大量に残ったご飯を混ぜることもなく練炭の弱火で温めるだけなので、ほとんどの部分は冷たいまま。
少なくとも以前は熱の通ったものを口にできたのだが、今回はその過程が抜けている。
衛生的な環境とはお世辞にも言えず、私は恐る恐るそれらを口にする。

一方のケン、どんな反応を示すのかと思ったら、
「最近胸焼けがするから、冷たいお米は食べられない」
と言い張り、お箸、否、スプーンをつけようとすらしない。
私が食べている横で、小声で「こんな食事は全然衛生的ではない」とか「この小魚はいい部分をスーパーに出荷した後の残りかすだ」とか、「この小魚はちゃんと洗えていない」などと散々なこと言う(ケニアの淡水産の小魚は十分に洗わないと泥と小石が残っているのだ)。
私たち2人だけに食事が出されていたのだが、PEの子供を呼んできて、彼に食べさせようとする。
さらに、彼が手で食べようとすると、「イスラム教徒はスプーンも使わないのか」とケンは言う。
私たちもいつもは手で食事をしているのに。

オフィスで他のスタッフとの話を聞いていて思うのだが、私がケンとPEの間に感じる以上の差・心の壁を、ケンはPEとの間に持っているのだろう。

そんなケンを横目に、気が進まないなりに私はスプーンを動かす。
思えば、以前にこのPEの家で食事をしたあと、一度お腹が痛くなったことがあった。
しかし、何かを諦めながら、煩悩を捨て、無心になり食べる。
いろいろ考えながら食べるとつらいので、心をリセットして食べる、そう表現したらいいのだろうか。
が、どうしても不安が頭から離れない。
お皿の周りにたかるハエ。
以前にここのトイレで用を足したことがあるのだが、その不衛生なトイレとそこにびっしりと集まるハエを目にしているので、今目の前にいるハエがどこから来たのだろうかと思うと怖くなる。

ついに何とか完食。
思えば、ここに来てから出されたものはほとんど残していないと気づく。
ただ以前に、どうしても残してしまったものがひとつ。
それは他のあるPEの家で出された、彼女の家で作っている伝統酒だった。
彼女ら曰くトウモロコシから作ったアフリカン・ウイスキーなのだが、密造酒という表現も可能な代物。
コップに注がれたとき、家庭で作るお酒によく含まれるというメチルアルコールのことも気になったし、水割りに使っている水の衛生面にも気になったが、そのにおい自体にノックアウトされてしまった。
なんとも言えぬ甘いにおい。
鼻で息をしないようにしながら、恐る恐る口にする。
と、口にした瞬間、吐き気に襲われる。
何とかそれをこらえ、口にした分を飲み下す。
頑張って飲もうとしたが、そのときは結局お猪口一杯程度しか飲めず、謝ってコップに残った分を辞退する。

さて話は戻るが、そのご飯も終わりかけた頃、骨付きの肉(肉付きの骨?) を煮出して作っていたスープを出される。
火が通っているのを目にしているからか、ケンはこちらには興味を示す。
まずケンは、どこで肉を買ったのかと尋ねる。
返ってきた答えは、町の中心にある食堂。
ちょうど昨晩私たちが食事を取った食堂であった。
そこは肉屋を兼ねた食堂ではないので、食堂で出された肉の余りということになるのだろうか。
さらにケンは、何の肉かと尋ねる。
答えはラクダ。
何と先日私も目にし、写真も撮っていたラクダだという。
あのラクダ君たちのうちの1頭なのか!
これが生きることの本当の姿なのか!

スワヒリ語の会話の後、ケンに訳してもらいワンテンポ遅れながら会話に付いていく。

さて、アロエと共に煮たそのラクダ汁、まずケンが口にする。
ケンは悪くないとの感想。
それを聞き、私も口にする。
何と表現したらいいのだろうか、この味。
ケニアの肉、特によく口にするヤギの肉は日本の肉にはない獣臭さがあるのだが、そんな獣臭さを煮詰めたような味と表現したらいいのだろうか。
正直言って、まずい。
が、飲めないほどのものではなく、残すのも申し訳ない。
最後野嘔吐中枢が活性化され、下からこみ上げるような感覚に襲われつつも、「これはおいしいはずだ」と自分に言い聞かせながら何とか飲み干す。

なんともつらかった。
まずさもつらかったが、せっかく出された食事、PE家族の貴重な食材を削って出された食事を、喜んで頂いていない自分にもつらさを感じた。

そんなある日の夕飯であった。
写真:調理中、調理後